FOUR:思いがけないスカウト
中盤以降、全体的に文章の見直しをかけましたが、展開は変わってません。
かくして【テレーゼ・クリストハルト】となったその日のうちに、彼女は自由を獲得した。
邸の敷地はかなり広く、正門に向かってデンと構えられた邸が所謂本邸。
その正面を覆い尽くすほどに広がっているのが中庭で、ゆっくり散歩すれば数時間はかかるだろうと思われるほどその面積も広い。
その本邸の裏に回ると、直接本邸から繋がっていないどこか寂しげにぽつんと建つ小さな平屋の建物、これが離れだ。
元々は以前の当主が愛人を囲っていたと言われる場所で、今は使われていないためひっそりとしている。
居住スペースといっても本邸ほど広くもなく、そこそこの広さがある部屋が数部屋、食事を作る小さな厨房やお風呂、洗濯スペースなどがあるため、自活するだけの気力・体力・知識があれば使用人などいなくても全く困らない。
といっても解決したのは衣食住の【住】だけで、着替えや食べ物などの問題はまだ残っている。
だがテレーゼは「食事はいらない、使用人もドレスもいらない」とあえてそう告げた。
食事に関しては、エリーゼが招いた立場であった前回でああもやらかされたのだ、たった一人でここにいる彼女に出されるものがまともなはずもない、いちいち彼らの嫌がらせに対応するのも面倒だし食材の無駄だから最初から避けた、というだけ。
使用人に関しても以下同文、ドレスについては貰っても良かったのだが、必要以上の施しを受けると後になって返せだの何だのと騒がれそうだと思ったのでやめておいた。
(それに、ドレスなんて動くのに邪魔だしね)
さて、ここで問題。
【衣】と【食】を与えられない離れの生活、自由と言えば自由だが与えられないものをいかにして手に入れるか?
「あー、マドカさまだぁ!」
「おかえりー、マドカねーさまー」
「あらあら、随分とお早いお帰りだこと。マドカちゃん、お茶淹れようか?」
答えは簡単。
見張りに見つからないようにして抜け出し、スラムに戻って調達すればいい。
スラム街を知らない者……この邸に住まう貴族や使用人がいい例だが、彼らは【最下層地域】と聞いただけで『まともに食事を摂れない』『不衛生で伝染病が蔓延』『あらゆる犯罪者が跋扈する無法地帯』という印象を持っている。
確かに、少し前までこのスラムも他の地域と変わらない、不衛生で犯罪者の温床な貧民の集まりでしかなかった。
だが、それを大きく変えたのが明らかに身分が高そうな女性と、彼女が抱えた生まれて間もない子供の存在だ。
当初己が身の不運とこうなった原因である男を恨み、呪いの言葉を吐き続けていたその女性は、しかし日に日に衰弱していく娘を見ているうちに母性本能が目覚めたのか、己の環境改善に取り組み始めた。
不衛生ならばまずは徹底的に清掃活動を、洗濯は定期的に、食事に使う食器にも気を遣い、生水は必ず煮沸するように。
最初こそ貴族出身だからと敵意すら抱いて近寄ろうともしなかった住人達も、まずは実践をと彼女自身が己の住まいを改善していったのを見て、まずは誰よりも早く子供達がそれを真似し始めた。
子供がやり始めてある程度改善が見られた頃には、スラムの住人達は誰ひとりとしてそのちょっと面倒な手間を惜しまなくなっていた。
残念なことにこの女性は道半ばにして病に倒れてしまったが……それを引き継いだのが、当時六歳になったばかりの小さな子供。
母を亡くしたばかりで泣き暮らすかと思いきや、病が流行しないようにと母の遺体を即座に火葬すると宣言し、母に習ったという浄化の魔術を使って跡形もなく燃やし尽くした。
この時点でスラムの住人達はドン引きしたのだが、彼女の異常さはそれに留まらなかった。
毎日毎日厳しい母親にこき使われているな、くらいにしか思っていなかった住人達は、幼子がスラムの子供たちの誰よりも速く走れることに気付くと、一体どうやったのかと目を剥いた。
そして浄化の魔術だけでなく他の魔術もあっという間に覚え、スラムに跋扈していた性質の悪い犯罪者達を返り討ちにした挙句軍に引渡し、報奨金という名の賞金を稼ぐようになってくると、自然と彼女の周囲に取り巻きが集うようになっていった。
元々のスラムの住人だけでなく、他の地域のスラムから、そして果ては平民街からも。
彼らが呼ぶ【マドカ】というのは、とある宗教国家の出身である彼女の母がつけてくれた長ったらしい名前の一部であり、これが一番しっくりくるからと彼女が便宜上の呼び名にしたものだ。
少なくともこの時までは……あの男が彼女を連れに来るまでは、彼女は【マドカ】だった。
【テレーゼ】などという明らかに【エリーゼ】と被ってつけただろう名前など、どうでもいい記号のようなものだと彼女はそう思っている。
おかえり、と嬉しそうに集まってくる見慣れた顔。
薄汚れた、風呂にも入れず洗濯すらまともにできない不潔な体……という一般的なスラムのイメージとは程遠い、服がゴワついてはいるものの汚れてなどおらず、髪もきちんと梳かしてあり、清潔感があって肌の艶も決して悪くない、一見すると平民にも見える彼ら。
街を見渡しても荒んだ様子もなくゴミが散らばっているわけでもない。
どうやら彼女が国境沿いの村に出稼ぎに出ている間も、彼らはきちんと己の生活環境を保持し続けていたらしい。
マドカはここへ来る前に平民の街に寄り、あのヒラヒラのドレスと奇抜な色の髪飾りを高値で売り払ってきた。
そしてそれで新鮮な野菜と果物、調味料や調理器具、当面の着替えなどを買い込み、その全てをアイテムボックスへと突っ込んだ。
アイテムボックスも特殊な神聖魔術のひとつで、中に入れている間は時間が経たないという優れものだ。
同じように中に入れてきた焼き菓子を集まってきた住人達に配ってやりながら、彼女は何か情報があるかと彼らに尋ねた。
「そうねぇ……そう言えば最近、軍の兵士達がよく見回りにくるようになったわ。以前は煙たがって近づきもしなかったってのに、どういう心境の変化かしらねぇ?」
「そうそう。言っちゃ悪いけど今更?って感じだよなぁ。あんだけ犯罪者がうろついてた時はなんもしてくれなかったくせに、マドカちゃん達が大掃除してくれた後んなってうろうろしだすんだから」
「軍の人達が?それ、なにやってたか目的とかわかる?」
「さあなぁ……犯罪者狩りってわけじゃなさそうだったが。なんか下水だとか井戸水だとか焼却所だとかそういうとこを嗅ぎ回ってたように見えたなぁ」
「……うーん」
(偵察、かな?そりゃ、スラムの住人がいきなり身ぎれいになったら怪しむくらいするか)
男性の言うとおり、それはそれで『今更』なのだが。
軍人がスラムを見回りに来ている、しかも衛生上改善していったところなどを重点的に、となれば恐らく国の上層部にもスラム改革が知られている可能性が高い。
もっと言えば、突然ここ数年で環境が改善されたその理由についても、彼らはとっくに掴んでいる可能性だってあるわけだ。
「他にはなにかある?」
とマドカがもう一度周囲を見渡したところで、7~8歳くらいの煉瓦色の髪をした少年と、10~12歳くらいの飴色の髪を長く伸ばした少女が駆け寄ってきた。
少年の名はカイリ、少女の名はカレン、どちらもマドカに拾われたことで命を永らえた大事な仲間達だ。
「あー、マドカだー。どしたの、家出してきた?」
「いけすかないお貴族様に誘拐されてったって聞いたけど、随分なんか……キッツイ臭いさせてるじゃない。それなに?香水?」
「ううん、無理やり塗ったくられた香油とかいうやつ。カレン、悪いけどお風呂貸して?」
「はいはい、沸かしてくるわ」
お風呂を沸かす、というのも本来スラムではありえない行為だった。
実際問題現状においても毎日きちんとお風呂を沸かすということができる家はそうないのだが、幸いにして魔術を使える子供が何人かいるお陰で、日替わりではあるが各家を回ってお湯を沸かすことくらいはできている。
そのお湯は使った後に洗濯に使いまわせるし、使い終わった水は下水に流す手前で浄化の術を組み込んだ魔石を通し、綺麗にしてから畑などに引いて使うというリサイクルシステムが確立されているお陰で、スラムとはいえ標準程度の生活ができているのだ。
「そういえばあの村は?」
「うん、今トールが行ってる。けどあっちにも軍の人が来たみたいで、これからはそう頻繁に行く必要もないみたいだよ」
「あっちにも軍が?なんか、軍の動きが急に活発化したみたいだけど」
「んーっとね。なんでも魔物の繁殖期に入るらしくて、その前に国境警備とか強化しとかないとってことみたい。それとー」
「それと?」
カイリはそこで「んー」と言いよどみ、言ったものかどうするかとキョロキョロ視線を彷徨わせてから、「まあいっかぁ」と自己完結して話し始めた。
「トールから聞いた話だけど。マドカがその貴族のおっさんに拉致られた後くらいに、鬼人みったいにでっかい人が『奇跡の天才はいるか?』って村の人に聞いてたみたい。ここの偵察にも来てたわけだし、ちょっと国に目ぇつけられちゃったカンジ?」
『奇跡の天才』ってネーミングセンスないよねぇ。
そう言ってケラケラと笑うカイリが焼き菓子をひとつ口の中へひょいと投げ込んだところで、
「鬼人族をそんじょそこらの『人』と一緒に扱うな。肌は赤く、目は金色、犬歯が長く口から突き出し、身の丈は平均で2mを超える。戦闘種族ではあるが荒っぽいのは縄張りを荒らされた時と仲間を傷つけられた時で、滅多に自ら人前には姿を表さない。あの村に来ていたのは、いい体格はしていたが紛れもなく人だった。鍛え上げられた筋肉は目立っていたが、オーガとは比べるべくもない。よって」
「はいはい、ストーップ。帰って早々薀蓄とかやめてよねー」
「お帰り、トール。はい、焼き菓子食べる?」
カイリの背後に立っていたのは、12、3歳くらいのミルクティ色の髪をした背の高い少年。
講釈を中断させられた彼は不機嫌そうにカイリを睨んだが、マドカから焼き菓子の皿を差し出されると途端に頬を緩め、「いただきます」と2,3個まとめて口に放り込んだ。
「で、その鍛え上げられた筋肉の人がなんだって?」
「あぁ、それなんだけど…………えぇと」
「うん?歯切れ悪いけど、なに?」
どう説明したものか、とトールが言いよどむ。
先程のカイリといい今のトールといい、どうにも軍関係の話をあまりマドカに聞かせたくなさそうだ。
とはいえ、聞かなければ対策を立てることもできない。
軍が動いているということは、当然動かしている国の上層部は何らかの意図を持って『奇跡の天才』を探しているということ。
そこにあるのが善意か悪意か……知らなければ動くことも、考えることすらできないのだから。
「えぇと、だな……その人なんだが。実は軍の連隊長という地位にあるらしい人なんだけど」
「おいおい、まどろっこしいな。いい加減紹介してくれよ」
「っ!?」
その声がするまで、全く気配を感じなかった。
マドカは人の気配に非常に敏感である、そんな彼女が至近距離まで近づかれても気づかなかった相手……それはつまり、気配を消すことを日常的に行っている諜報部員か、もしくは暗殺者か。
だが振り向いた先に立っていたのは、ゴツゴツと鍛え上げられた筋肉の鎧を着込んだ熊のような大男。
(この人が……あぁ、確かに『鬼人族』だと言っても遠目なら間違えそうな体格だけど)
とてもじゃないが諜報活動向きには思えないその男は、呆気に取られて見上げてくるアメジストの双眸を見下ろし、オレンジ色の双眸をニヤリと意地悪く歪めた。
「紹介はされてねぇが勝手に名乗るぞ。俺はアルファード帝国軍第十三連隊長のニール・オースティンだ。上の命令で、ちっと前まで国境沿いのサリダ村に住んでた『奇跡の天才』とかってこっ恥ずかしい名前のやつをスカウトに来たんだが……お前、知ってるか?」