ナイト・ドライブをどこまでも
「地元?」
「そうです、遊木さんの地元。どんなところだったんですか?」
気にならないようで視界を遮る些細な雨粒を、中指ではじいたワイパーで振り払う。前を行く最終バスが、右折レーンへと流れていった。
「何もないところだよ」
助手席に座る遊木さんは、流れていく色とりどりの灯りを背にしてそう言った。
「田舎だから何もない、でも町はある」
うん、と彼は息をつく。選ぶ言葉に迷っている仕草だった。
「――言うなれば、チョコレートケーキみたいな町かな」
「チョコレートケーキ」
彼のそういう物言いは珍しくなくて、けれどまた突飛な例えが出てきたなと私は繰り返した。
「そう、チョコレートケーキ、シンプルなやつ。夜になると灯りなんて国道のオレンジくらいでさ、それが辺りをブラウンに照らしてる。国道を出て一本でも中に入れば民家なんかがぎっしり、真っ暗で何も見えないんだ」
チョコレートケーキみたいだろう? 目の端に映る彼の口端が、僅かに緩んでいることは分かった。
「挟まってるクリームが」
「国道で」
「スポンジが」
「住宅街」
まっすぐな三車線道路には赤いテールランプが並んでいて、ビル街の明かりが彼らのボディにキラキラと反射している。眠らない街はまだ当分、手足を休めても瞼を閉じることはない。
「上から見たらきっとそうだ」
「なるほど……オレンジケーキとかじゃないんですね」
バスや地下鉄は腕や足で、路肩に並ぶタクシーは街の指先だ、そんなことを頭の片隅に思い浮かべた。
「そうだね、そういうのはぼくのメニューにはないから」
ケーキ、別に詳しい訳じゃなくて。彼はそう付け加えた。低めでけれどよく通る穏やかな声は、大抵、聴き心地が良かった。時折は、ぼそぼそと聞き取り辛くもある。
「私もケーキ、そんなに知らないんです」
「なんだ。三枝さんもか、それは丁度いい」
ふぅ、と息をつく音が左耳に触れた。
「地元はね、決して農村や里山みたいなところではなかったけれど、こういう時間に気まぐれに車を転がしたって、テールランプよりも信号の方がたくさん見えたんだ。三車線の道路はあったけれど、それだけでさ」
その景色を想像する。茫洋とした闇夜、冷たい橙が照らす広いだけのアスファルト道路を、遊木さんを助手席に乗せ、果ての真っ暗闇まで見渡せるチョコレートクリームの国道を、町並みの黒いスポンジに愛車を走らせる私を。
「三枝さんの運転は、眠たくなるね。丁寧で優しい」
「そうですか?」
苦笑が漏れたが、それは気持ちの裏返しだった。褒められて、調子に乗らないように自分を抑えつけていた。
横断歩道から身を乗り出すサラリーマン。彼の止めたタクシーは、まるで質の悪い血栓みたく大路の流れを歪めた。
「うん。そんなことをしてしまったら失礼になるけれど」
「そんなことないですよ。お疲れでしょうし」
「だとしても、折角の時間が勿体ない」
すう、と吸い込んだ息が止まる音がした。そしてゆっくりと静かに吐き出す音。
気付けば下唇を噛んでいた。口角が不自然に吊り上がりそうになっていて、それをなんとか堪えた。顔が熱くて、目がやけに乾く。彼にならって、深く落ち着いて、呼吸を整える。真似て、と言っても意味は全く異なるものだが。
「母親にはよく、神経質だとか文句ばかり言われてるんです。母の方がよっぽど、運転が荒いのに。……ありがとうございます」
「いえいえ」
声音で小さくおどけてみせると、彼は徐に語り始めた。
「……うちの母親もそういえば、運転が荒かったね。しかも軽で、ターボの車なんかに乗っていて、借りるとアクセルの癖が酷かったよ。急発進をして、何度も驚いた」
恐らく酒精が回ってきたのだろう、彼の口振りはわずかに綻び始める。
「遊木さん、ドライブされるんですね」
「時々さ。県境の山の上とか隣の市の埠頭の先まで、息を吸いに」
「こっちでは、そういうことはしないんですか?」
「するよ。でもこっちなら、そういう場所には歩いて行けるから」
実を言うとそれは知っていたことだった。行ったことはないが、彼の住む部屋は確か川沿いで、駅も近い。
予想の通りに話が回って、舌の奥から渇きを覚える。下唇が小刻みに震えた。言ってしまおうか。強い酒を呷ったような体の火照り、焼き切れそうなほど繰り返す鼓動。手の内がびりびりと痺れ、それでもいつも通りのフットワークで車は転がっていく。
「もしよければ...…わたしでよければ、もっと遠くまでお連れしますよ」
言ってしまった、その安堵は一瞬で通り過ぎ、後悔によく似た感覚に支配される。言い出すのに時間をかけてしまった、妙な間があって不審に思われているかもしれない。
彼が応えるまでに、二台が左折レーンへと流れて、入れ替わるようにタクシーが三台ほど追い越し車線へと逃れてきた。小雨はまだ振り続けていた。
「……それは、とても有り難い」
今までと変わらない気だるげな、けれど酔いに浸った心地よさには聞こえなかった。
「でも、そうだね、突然呼び出す訳にはいかないから」
瞼の重そうな声音はどこかに行ってしまった。彼の言葉を待つ間、暴れ出した心臓を抑え込むので精一杯だった。
「そうだね、そうなりそうな日には、食事に誘うよ。いいかな」
そう言われて自分は、夜中に遊木さんから電話を貰ったらすぐに飛び起きて、車を駆るつもりでいたのだと気付く。
フルスモークのセダンが後ろについて、エルイーディーがミラー越しに照らしつける。瞳を射抜かれないように、中央分離帯の植え込みへと視線を映した。自然と彼は視界から消えた。
「ああ、えっと、はい」
ガラスを塗りつぶそうとする雨粒に、再びワイパーを動かす。
「さすがに、何週も前からという訳にはいかないけれど」
「いえ、大丈夫です。職場と家を往復ばかりしているので」
遊木さんは苦笑しているような調子でいた。すると、自らの不慣れが気恥ずかしくなってくる。
「なんだか。こんな歳して、君みたいな若い子とする会話だろうか、これは」
「わたしは別に……それに、遊木さんとわたしならそんなに歳も離れてないです」
「そうだろうか」
「そうですよ、だから大丈夫です」
そこは問題ではなかったかもしれない。けれど、まばらな人足の中にぽつぽつと傘が横切る横断歩道が、そう言わせた。雨粒で滲んだ見知らぬ誰かの横顔が。
彼はたっぷりと、恐らく息を胸いっぱいにゆっくり吸って、そうして吐いて、それから答えた。
「そうか、なら大丈夫だ」
ブレーキペダルをそっと放し、アクセルペダルにゆっくりと踏みかえる。信号が青に変わり、二四五ミリが摩擦の力でアスファルトを蹴りだした。