第二章『追憶の分岐②』
「もし断ったら?」
不安げに尋ねる様子に、ヴァンは思わず笑ってしまった。
「お前にそんな選択肢があるのかよ」
そう言われて、彼女はますます頬を赤く染めた。
しかし即答するわけでもなく、いまだ思案を繰り返している。
「君には、まだわずかな光が残っている。サキソライト。今ならまだ間に合う」
「…はぁ。…分かったわ。──迷うこと自体バカバカしいってことね」
そう答えたとたん。
フェルディナンはすぐさま彼女の腕を取って、自分の方へと引きよせた。
「それならサキソライトも一緒にバフィトに逃げよう!」
「えっ?」
「オレを選んでくれるなら、ここにいる必要もないだろ?!」
「──」
その発言に、アレクシアの方が困惑した。
思わず手を伸ばして、目の前のヴァンにしがみついた。
…サキソライトが来るなら、ヴァン1人だけがここに残るのはあまりにも理不尽だ。
それなら、4人で逃げればいい。
たとえ勝ち目がなくても。
彼1人を敵国に置き去りになど、できるはずがない──
そんな彼女の様子に、サキソライトの気が咎めた。
(やはり、思うがまま生きるというのは、こんなにも苦しいことなのだ)
そう実感して、身を乗り出した。
「…プルーデンス。私は、まだ、やり残したことがある。…一緒には行けない」
「!」
フェルディナンは頬を強張らせて、唇を引き結んだ。
だが、言いかけた言葉を遮るように、彼女が片手を上げた。
「私は、逃げ道を確保してくる。2人が無事に帰国できるように、逃走経路を確認しなきゃならない」
まるで独り言のように呟いて、静かに退室していく。
そんなサキソライトを、フェルディナンは神妙な面持ちで追いかけた。
■□■□
フェルディナンとサキソライトがいなくなると、再び涙があふれてきた。
「泣くな」
「…ヴァン、…けれど、っ」
「バフィト王国は、今のままじゃリトシュタインに太刀打ちできない。あの国を見捨てる気か?お前にそんなことができるのか、アレクシア」
そんな風に訴えられて、心が揺れた。
──分かっている。
それぞれに、やらなければならないことがある。
ヴァンも、フェルディナンも、そしてサキソライトも。
もちろん、アレクシア・クリスタも、ここでおとなしく捕まっているわけにはいかないのだ。
するとヴァンが、なにかを思い出したように紙を取り出して、なにかを書き始めた。
「リトシュタイン帝国皇帝の風貌と印象だ。トランスフィールドが知りたがっていた。渡しておいてくれないか」
「…似顔絵? うまいな。こんな才能があったのか」
思わず笑ってしまった。
こんな状況だというのに、いまだ笑顔になれる自分が不思議だ。
「あの風配師は、ずいぶんと皇帝のことを気にしていた。もしかしたらなにか極秘情報をつかんでいるのかもしれない。オレにはなにも話してくれなかったが」
「…分かった。忘れずに渡しておく」
その言葉が、別れの意味を表すのだと、すぐに気づいた。
ヴァンをここに残すことは、もはや決定的だ。
王太子であるフェルディナンを帰国させ、アレクシアたちは再び一から戦略を練らなければならない。 ヴァン奪還の計画を含めて──
「…アレクシア・クリスタ」
ルフトの姿をしたアレクシアを引き寄せ、その腕の中に包んで、額にキスをした。
とたんにヴァンの唇からため息が漏れた。
「アレクシアの姿でないのが残念だな。どうしてこう、いつもタイミングが悪いんだろうな。美人の顔をなかなか拝めない」
その声に、くすくすと笑ってしまった。
「ちゃんと戻ってきてくれたら、いやになるほど見せてやる。それまではおあずけだ」
「じゃあ、なおさら張り切らないとな。…すべてが終わったら、たくさんキスしようか」
と、つられて彼も笑った。
「待っててくれ」
「…分かった」
アレクシア・クリスタはその言葉に大きく頷くと、首に巻いていた空色のストールを、彼の首に巻きなおした。
「戻ってきたら、返してもらう」
その約束が、決して違わぬように。
力を尽くさなくてはならないのだと、改めて信念を新たにした──
■□■□
「待て、サキソライト!」
声を張り上げて呼び止めると、彼女は廊下の壁に寄り掛かるように体を預けた。
さっきまでの緊張感が払われ、とたんに脱力していく。
彼女は長い息を吐き、じっと疲れた瞳で、追ってきたフェルディナンを出迎えた。
「…プルーデンス」
「なんだよ」
「──」
彼女は、自分の左腕を見つめて無言になった。
溢れてくる思いのたけを、どのようにして伝えたらいいのか…。
働かない思考をフルに回転させて、フェルディナンが傷つかないように、と気をまわした。
「アレクシアには悪いけれど、私にとってこの左腕は、忌まわしいものでしかない。…ずっと振り回されていた気がする。だからこそ、私は今度こそ、自分自身を取り戻したい」
まっすぐな瞳で訴えられ、それ以上なにも言えることはなかった。
「──なにをする気だ?」
「決着をつけるよ。自分の運命に」
その声音が、やたらと凛として届く。
反対することなど、できそうにない。
「絶対、助けに来る」
そう伝えると、サキソライトが微笑した。
「来なくていいよ。仕事が終わったら、私がすぐにそちらに行くから。いつまでも離れてられないでしょう。私たちは夫婦になるのだから」
「…キスを」
そう乞われて、サキソライトは背伸びをして唇を寄せた。
約束は、決して違えてはならない──
その決意を、しっかりと心に刻みつけた。
部屋のドアが開いたのは、その時だ。
ばんっと乱暴に飛び出してきたヴァンが、廊下にいる2人を見つけて声を張り上げた。
「行くぞ! いつまでグズグズしている気だ!」
その言葉に、フェルディナンは瞬く間に赤面して、うろたえた。
「…っ。お前、デリカシーなさすぎだろ!」
「イチャついてる時間はない」
「お前が言うな。こっちはせっかく気を使って2人きりにしてやったのに」
「アレクシアを頼む」
真摯な声色に、フェルディナンは頬を強張らせた。
「…了解した」
「あと、国王も」
「分かっている。オレは王太子だものな」
にかりと笑ってみせると、ヴァンは嬉しそうに彼の頭を叩いた。
「期待してる」
「よく言うよ。半年しか違わないからって兄貴面するなよ!」
「ははは」
ヴァンは、声を上げて笑った。
──兄弟などと思ったことは、一度もない。
昔から自分たちは、身分の離れた距離に立ち続けていた。
それでも、今この時だけは、
少しだけ血のつながりを実感できたような気がした…。