第二章『追憶の分岐①』
人質という割には、確かに待遇はいいかもしれない。
しかし日がな一日、個室に閉じ込められて出歩くことも許されない状況は『自由』とは呼べない。
ほぼ軟禁状態で、退屈な時間を過ごすはめになったフェルディナンは大あくびで窓辺に寄り掛かった。
そんな彼の元に訪れたサキソライトは、さして悪びれた様子もなく、軍服姿で歩み寄ってきた。
「交渉は決裂したようよ。あなたは国に見捨てられたのね、プルーデンス」
「…もとよりオレは王太子の器じゃない。見捨てられても文句は言えない。オレの命より国の方が大事だ。当然の選択だ」
「ずいぶんと潔いこと」
その割には嬉しそうには見えない。
彼女は気の毒とばかりに哀れみの色を濃くした。
「せっかく好きになりかけてたのに残念だな。まさか君がこんなことをするなんて。最初からこういう計画だったんだな」
裏で糸を引いている人物がいるのだろうとは思っていた。
まさか皇帝だとは思わなかったが。
自分が愚かだったと思うしかない。
「あなたは本当に聡い方ね、プルーデンス。王太子にしておくのはもったいないわ。このままリトシュタイン帝国に残ってくれたら優遇するわよ」
「オレはここから離れないさ。人質のまま死んで行く覚悟だ」
「…バフィト国のため? それとも公女のため?」
「違うよ。お前のためだ」
「!」
意外だというように、サキソライトは目を開いた。
その言葉が信じられないとばかりに、顔色が変わる。
「オレたちは結婚するんだろう。…お前が望むなら、ここにいるさ」
「適当なこと言わないで。私たちは決裂したのよ。婚約は白紙よ」
「皇帝の意思だろう? お前の考えじゃない」
「…あなたは、やはりおもしろい人ね。だから好きだったのよ」
そう呟いたサキソライトが、ゆっくりと窓辺に近づいた。
軍帽を取り、長い髪を払って、彼と向かい合わせになるように窓際に座る。と、左腕の軍服の袖をまくってみせた。
「この腕の話をしたかしら」
「…兄上に切られたというヤツだな」
「容赦なくね」
と、サキソライトは自嘲した。
「言っておくけど、リトシュタイン皇帝は冷酷よ。気をつけたほうがいいわ。バフィト国王よりたちが悪いんですから。あなたの大事なアランが、どこまで意地を張っていられるのか見ものだわ」
「──こんな生き方が楽しいか、サキソライト。左腕を手に入れて、こんな生き方がしたかったのか」
「私を懐柔しようと思っているなら無駄よ。私はあなたの言いなりにはならない」
「でも兄皇帝の言うことなら聞くんだろ。弱みでも握られているのか」
「違うわ!」
そう言い放ったとたん。
瞳から、はらはらと涙が零れた。
「えっ?! なぜ泣く?!」
「知らないわ」
そう言ってそそくさと立ち去ろうとしたサキソライトを、慌てて引き留めた。
「話してみろ」
「絶対にイヤ」
「まったく、オレの周りの女は、なんでこうもみな意固地で気が強いんだろうな」
「そうでなきゃ軍人なんて務まらないわ」
「なるほど」
今度はフェルディナンが笑う番だった。
「けれど、軍人だっていつかは退役するものだ。それが今であっても、別におかしくはないだろう」
「?」
フェルはにかりと笑う。
いったい何のことかと、彼女はぱちくりと目を開いた。
ふいに窓ガラスが割れ、大きな物音と共にヴァンとアレクシアが室内に飛び込んできたのは、そんな時だった。
■□■□
外から弧を描くように床に落ちた2人が、勢い余ってごろごろと壁の方まで転がっていく。
その様子を呆気に取られて見ていたサキソライトは、事態が急変したことに気づいて驚愕した。
「あなたたち! 逃げたんじゃなかったの?」
「──頼みがある。取引だ。オレの身柄とプルーデンス王太子の人質交換を願い出る。悪い話じゃないはずだ」
その言葉に、サキソライトとフェルディナンは顔を見合わせた。
…誰と誰の身柄を交換だって?
話の内容が見えず茫然としていたフェルディナンは、その時になってようやく目の前にいる男が、よく見知った人物であることに気が付いた。
「お前、…ヴァンか! …ようやくお目覚めか。まったく遅ぇな」
「それについては、先ほどアレクシア・クリスタに腹パンチを食らったばかりだ」
その皮肉に、フェルディナンはそうだろうな、という顔でアレクシアを見つめた。
いまだルフトの姿をしたままのアレクシア・クリスタが、不満とばかりに唇を尖らせている。
「それで? その取引というのは、本気の話なの?」
サキソライトが蒼白して尋ねると、ヴァンは大きく頷いた。
「そこにいるプルーデンス王太子は、バフィト王国の最後の希望だ。彼になにかあったら国はいよいよ終わりだろう。…しかし皇帝にしてみれば、オレのほうがより利用価値があるはずだが?」
「──条件は?」
「バフィトから手を引け。皇帝にそう伝えろ」
そう言い放ったとたん。
背後で、アレクシアがかぶりを振った。
「やだ、何を言っているの。…私はフェルを救いにきたんだ。ヴァンを犠牲にするためじゃない!」
「…アレクシア」
やっと会えたのに──。これからという時になって、再び別れなければならないなんて。
いくらアレクシアでも、今度ばかりは耐えられそうにない…。
「それなら私もここに残る! これからの事はフェルとヴァンと私の3人で考えていけばいい!」
ほとんどやけくそのような物言いに、呆気に取られた。
まるで子供のようだ。
こんな風に駄々をこねる公女を、長らく見たことがなかった。
すると、
サキソライトが疑わしげに、ヴァンを睨みつけてきた。
「花槽卿ともあろう男が、皇帝ごときに屈するというの? そんな話信じると思う?」
「皇帝は信じるだろう…というか信じたいはずだ。21年前、オレの命がまだ芽吹きもしなかった頃。最初に誘拐しようとしたのは、バフィトじゃなく皇帝だったんだからな。喉から手が出るほど俺が欲しいはずだ」
「…初耳だわ」
とたんに考え込んでしまったサキソライトに苛立ち、アレクシアはいまだ納得できない顔で眉を吊り上げた。
「ちょっと、いい加減にして! ヴァンをここに残すなんて賛成した覚えはない。勝手に話を進めるなよ」
「黙ってろ、アレクシア」
ヴァンは彼女の言葉を遮って、真摯にサキソライトを見据えた。
「プルーデンスとアレクシアを国外に連れ出してくれるなら、なんでも言うことを聞く」
「ヴァン!」
「バフィトから手を引くという項目を付加した上で、な」
「…」
その提案に、サキソライトは思考を巡らせた。
同意してよいものか、否か──。決めかねて、迷いが生じる…。
「なぜ、それを私に言うの? なぜ皇帝に直接伺わないの? 私を試しているのね」
「お前は、プルーデンスが本気で好きだろう?」
「えっ?!」
ぎょっとしたフェルディナンとアレクシアは、聞き間違いかと耳を疑った。
目の前で、サキソライトが真っ赤になって狼狽えている。
「…なにを、…なんの話か、分からないわ」
「お前は皇帝に信頼されていない。ただの実験台だ」
「っ、」
「役に立たなければ、妹といえど即行で切られる。捨て駒にされてると気づいてるんだろ?」
「余計なお世話だわ」
「サキソライト。今なら、ここでお前は自分の生き方を決められる。…プルーデンスか、皇帝か。たまには自分の信念に従ってみろ」