第一章『秘められた想い①』
(――落ちる!!)
そう覚悟した瞬間。
ふわりと体が浮き上がり、アレクシア・クリスタは誰かに抱きかかえられて、城のテラスへと飛び込んだ。
どかっと強い衝撃と共に、体が転がっていく。
助けてくれたのは、ファングだった。
「大丈夫ですか」
「…ファング、か。…え、違う、どっちだ、ヴァンか?」
「ファングです、すみません」
申し訳なさそうな彼の腕の中で、思わず笑ってしまった。
「なんで謝る?」
「あなたが残念そうな顔をしたからです」
と、ファングは目を細めた。
「ヴァンはどうしている? 無事か?」
「まだ眠っています。でも精神は体に戻ったようですから、目覚めるのはもうじきですよ」
「なにが起こったんだ。私の思惑とは違うことになっている。損壊術を唱えてもファミリアが消失しなかった!」
「戦争がはじまるんです。リトシュタインが攻撃してきたんですよ」
ファングは、意外にも冷静だった。
護衛士としての気質がより際立ち、彼の持つ判断力が研ぎ澄まされているようだ。
「こちらの行動がすべて読まれていたのです。サキソライトが裏切り、プルーデンス王太子が人質に取られました」
「そんな…っ」
「王妃を殺したのもサキソライトです。花を生けた花瓶に、持続性のある毒素が含まれていたようです。じわじわと時間をかけて殺すつもりだったのでしょう」
「最悪だな!」
アレクシア・クリスタは、忌々しそうに舌打ちした。
「バフィト王国の軍事力が低下するのを見越して襲ってきたんです。あなたが損壊術を使うことを、なぜか彼らは知っていた」
…ジェスターだ、とすぐに分かった。
「なんなんだ、あいつらは、ほんと、なんなんだ…」
ジェスターが言っていた『ご主人さま』というのは、つまりリトシュタイン皇帝のことか。
──「私を作ってくださった方だよ。軍隊とファミリアが融合した理想の国家を築こうとしていらっしゃる、素晴らしい方だ」──
この謀略のすべてが、彼に由来すると知り、ますます腹が立ってきた。
なにが起ころうとしているのか考え、アレクシアは青ざめた。
だが、今はそれどころじゃない。
「国王はどうしている?」
アレクシアは不安そうに尋ねた。
「生きておられますが、虫の息です。もう長くはないでしょう」
「意識はあるのだろうか? 話がしたい」
「…ご案内します」
ファングは、アレクシアに向かってうやうやしく一礼した。
しかし城内は、思った以上に慌ただしく、国王の安否が正確には伝わってこない。
国王は側近たちに囲まれ、アレクシアやファングはまったく立ち入れない状況だった。
アランの処刑のことなど、すっかり忘れたように。
城内は国王への狙撃と、リトシュタインとの戦争のことで大騒ぎだ。
「はぁ、」
廊下に座り込み、アレクシアはため息をついた。
長い金髪が邪魔に思えて、ファングに腰紐をかりてくくり直した。
「噂どおり、お美しい。ヴァン王太子がほれ込むわけだ」
と、ファングは感嘆した。
「あなたの姿をこんな間近で拝顔したと伝えたら、ヴァン殿下はさぞかしオレをうらやましがるでしょうね」
「この姿は目立ちすぎる。ファミリアの力はまだ残っているんだろう? あとで風配師に頼んで、男に戻してもらうつもりだ」
「それは残念」
ファングは、あからさまに落胆してみせた。
そんな彼に目を細め、ポケットから紙切れを取り出したアレクシアは、それを目の前にかざした。
ジェスターから渡されたもの。
フェルから預かったという、王妃の日記の端切れだ。
「…ファング。あの軍隊を指揮したのは誰だ? フェルか? 国王を一斉射殺しろと命じたのだな?」
「そうです。王妃の日記を読んで、あなたがやろうとしていることを予測しました」
「さすが。フェルはよくわかっている」
「王妃は、ファミリア殲滅の詩歌を知っていました」
「あぁ。あれは私が教えたんだ」
そういうと、ファングは驚いた顔で目を開いた。
「そうなんですか?」
「あの詩歌は、いくら歌ったところで、公家の人間でなければ効果がない。教えてもどうってことないだろうと思っていたけど、まさか覚えてたとは思わなかった」
「…あなたも、王妃の日記を読んだのですね」
「以前、お茶に誘われたときにね。実はその時に、お粥の作り方を教わったんだ。王妃の死因だといわれたお粥と同じものだよ。だから、あれで死ぬのはおかしいと思ってたんだ」
その説明に、ファングはますます呆れ果てた。
「無実だと主張せずに、犯人が現れるのを待ってたのですか」
「でも失敗した。まさかサキソライトだったとは。そうでなければ良いと思っていた感情が裏目にでた」
「…プルーデンス王太子の安否が心配です」
「私もだよ」
アレクシア・クリスタは、激しく同意して、こくりと頷いた。
──この世界をなくそうと思って損壊術を使ったわけじゃない。
ただ、国王を救いたかった。
ヴァンが一度死んで生まれ変わったように…
国王を一度殺し、ヴァンを復活させて、その上で国王を生き返らせることができれば、すべてがまるく収まる気がしたんだ。
「それで、時間を戻したのですか」
「戻したんじゃない。ゼロにするつもりだったんだ。ファミリアに関わった物と人だけをクリアにするつもりだったのに。ジェスターには効かなかった」
アレクシアそっくりのジェスターの顔を思い出して、ぞわりと寒気がした。
傍らで、ファングがやりきれない表情をするのを見て、ますますその思いが増した。
「サキソライトは…リトシュタイン側についたのだな」
「もともと皇帝の命令で、軍人として、この国に送り込まれたのでしょう。左手をさらすことで、いつかあなたが引っかかってくれるのを待っていたのかもしれない」
「私は、そのトラップにまんまとかかったのだな」
「リトシュタイン帝国に連れ去られたプルーデンス王太子を救出しなければなりません」
分かっているとばかりに、アレクシア・クリスタは大げさに息をついた。
やらなければならないことは、山積している。
かといって、フェルの救出を後回しにすることはできない。
「向こうからなにか布告でもあったのか」
「まだ、今のところはなにも。目的はバフィト王国の植民地化でしょうか」
「もちろん、それもあるだろうが…」
今のバフィト王国の軍事力は、最低だ。
アランの損壊術が中途半端に効力を発揮してしまったものだから、保持している兵力は半減し、ほとんどが遊び道具みたいなものになってしまっている。
しかも、統率者すらいないこの状況で。
なにができるのか、考えるのも憂鬱だった。
「兵器と軍人の数を確認しておきます。それと各地の駐屯地の状況も」
「もちろんだ。でも、その前に…」
と、アレクシアがはたと顔を上げた。
軍医が、国王の部屋から出てきた。
ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えて、2人は身を乗り出した。
「えーと、アレクシア? 公女殿下ですか…」
「そうです」
「国王陛下があなたをお呼びです」
そう言われて。
アレクシア・クリスタは、待っていたとばかりに静かに頷いた。
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まさかアレクシア・クリスタの姿で、バフィト国王と会う日が来るとは思わなかった。
ベッドに横たわった国王は、緊張した面持ちのアレクシアを見て、苦しげな息を吐いた。
「あぁ、アレクシア。…来てくれたのか。もっと、こちらへ」
バフィト国王の、やつれ果てた姿。
息も絶え絶えの状態で名前を呼ばれ、近づくのを躊躇した。
──ずっと、この男を恨んでいた。
家族や親族を根絶やしにして、アレクシアの体すら戦車で引き裂いた男だ。
「こちらへ。…頼む。どうか、怖れないでくれ」
懇願するように言われ、緩やかな所作でベッドの端に腰を下ろした。
「本当にお父様なのですか。あなたはクーデターの日、母と共にバフィトに殺されたのだと思っていました。一体なにがあったのです」
聞きたいことはたくさんある。
けれど、そのすべてを答えるほどの余力が、今のバフィトにはないと分かっていた。
「…相打ちだった」
しわがれた声が室内に響く。
「寝室にやってきたバフィトが長剣を抜いたのを見てとっさに反撃したが、どちらが死んでもおかしくはなかった」
「…ファミリアに助けられたのですね」
「生かされたのだ。私にはまだやるべきことがあると…そう言われているようで。私はバフィトと魂と器の交換術を行った」
…それは、ある意味賭けだったろう。
ファミリアは、正しいことにしか力を貸さない。
下手をすれば、共倒れで死を迎えていたはずだ。
『国王はクーデター以来、様子がおかしい。記憶が曖昧だ』
というヴァンの言葉を思い出した。
「お父様。あなたの中に、バフィトの意識も混合しているのですか」
「いいや、彼の魂は死んだ。…今までのことはすべて私の意思でやったことだ」
「…どうして…、」
軍事力を強化し、ファミリアのいる庭を焼き払い、なぜこの男はバフィトとして生きることを選んだのか。
アランはなんのために今日まで復讐に取り付かれていたのか、悔しさがにじむ。
「アレクシア」
自分の頬に伸ばされた手が、長い金髪に触れた。
その指先を、アランは振りほどくことなく、受け入れた。
「ファミリアが教えてくれたのだ。バフィトを刺殺した瞬間。『アレクシアがまだ生きている』と…ファミリアの光がそう語った」
「!」
「大公が生きていると知られれば、お前も同じように狙われるだろう。お前を生かすために、私はバフィトを演じなければならなかった。…あぁ、いいや、違う…、そうではない」
国王は、長い息を吐いた。
「私は、知りたかったのだ。国民のための苦しい決断だったのに、なぜクーデターが起きたのか。軍事的に強くなればいいのか、そうしたら家族を失わなかったのか。バフィトが目指していたことを代行して、その先にある未来を見極めたかった。…生前、私は悪しき大公だったろうかと、私はいまだ自分に問う」
だが、その後二度の戦いで多くの民を失った。
もっと強い国になるべきなのか。
新王のような志をもってすれば、国民の畏敬を集められるのか。
──ならば、生まれ変わろう…すべての過去を捨てて。
「アレクシア。アンティナ王妃を殺したのは、ジェスターであったか?」
枯れた声に、彼女は首を振った。
「いいえ、サキソライトです。彼女はリトシュタイン皇帝の妹。これから戦争が始まります」
「そうか。…王妃は、気の毒な女だった。最後まで、愛してやれなかった」
アレクシアは自分の髪を撫でる国王の手を、両手で包んだ。
「お父様。私は、あなたが大公にふさわしくないなどと一度も思ったことがありません。いつも尊敬しておりました。アンティナ王妃も同じ気持ちであったでしょう」
すると国王が、わずかに笑った。
「お前なら、そう言うだろうと思っていた。私は、間違えてしまったのだな。…アレクシアの面影を残すジェスターを見て、舞い上がってしまったのだ」
「私の代わりにジェスターをそばに置いたのですね」
「そうだ。ファミリアを使ったのだと言っていた。バフィトの正体が私だと、あの女はすぐに気づいたから…そうであろうとすぐに納得した。──…だが、そうではなかった。あいつといるうちに、私の心は次第に毒されたのかもしれない」
「裏庭のファミリアを焼き払うよう、そそのかされたのですね」
アレクシアは、食い下がった。
国王が、すでに話ができる容体でないことは分かっていた。
だが、これまでの経緯を知りたくて、弱々しい手を握りしめた。
「そうだ。あの庭を焼き払った。『ファミリアがまだ生息しているという噂が広まれば、王国の名は地に落ちます。あなたの立場も危うい』とジェスターに言われてな」
「なんてこと、」
そのせいで、アランはますます国王へと憎しみを新たにしたというのに。
軍国主義を極めて、その先に平和があるのなら、それに尽力するのも良い。
だが、それがアランの復讐心をあおってしまったことを、今さら吐露しても仕方がないことだった。
「あの祈祷室で。私は、プルーデンスをかばうお前を見て驚愕した。復讐に燃える憎しみの目をして、私を見ていたな。錯乱したよ。…私は、いつも間違えてばかりだ」
「お父様、もう結構です。…体に障りますから」
「いや、もう一つだけ」
国王が、細長い息を吐いた。
「そもそも、お前が手足を失ったのは、私の大公としての裁量がなかったせいであろう。そう考えると、いつか殺されるのも運命かと感じた。お前は、私を憎んでいよう」
「バフィト国王を殺すのが、私の生きる糧でした」
そうであろう、というように、国王がこくりと頷いた。
「お前に止めを刺されるのなら…本望だ…。殺してくれて構わんよ。──愛しているとも。心から、…アレクシア、」
「――」
細い息を吐き、国王が眼を閉じた。
薬が効いてきたのだろうか。
静かな眠りに落ちたのを確認し、アレクシアはそっと部屋を出て行った。
損壊術でどれだけ世界をゼロに戻しても、人の命までは戻せない。
ジェスターに邪魔をされたというより、アラン自身の力不足だ。
父娘の会話をするには、あまりにも時間がなさすぎた。