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貴方の血を頂けませんか?  作者: 館の主
9/13

六月の薔薇を育てて

作者:足軽三郎

 六月、それは梅雨の季節である。じめじめとした鬱陶しい空気が続き、湿気を室内に運び込む。私はそれが苦手だった。部屋の隅がカビに侵食されるのも嫌であったし、自分の癖毛が湿気で酷くなるのも嫌であった。只でさえ寝起きにはボワンと爆発したような頭なのに、この季節はそれが更に悪化する。鏡を見るのが億劫なくらいだ。



「あー、早く六月なんて終わればいいのになー」



「何言ってるんだい、早瀬君。六月こそは花が一番美しい季節じゃないか。僕達花屋にとっては、審美眼を問われる季節だよ」



 窓枠にもたれる私に声をかけたのは、眼鏡をかけた優男である。「若林さん、お言葉ですが」と私、早瀬絵理は言葉を返す。雇い主と被雇用者の間柄ではあるが、互いに遠慮は無い。



「六月が花が美しい季節であるのは知っています。紫陽花、梔子、ゼフィランサス、なるほどどれも見事な物です。しかし、それと私の髪の毛はまた別に分けて考えるのは変でしょうか」



「髪の毛の問題など些細なことじゃないか? ちゃんと生えてれば問題ないよ」



「随分大雑把ですね。花屋には繊細な神経が要求されると宣ったのは、どこのどなたでしたか、若林さん」



「ふ、君も言うようになったね――」



 若林さんは眼鏡を外し、シャツの裾で拭った。縁なし眼鏡を外すと、その白い顔が露になる。東京の外れで花屋をしているよりは、役者にでもなった方が似合いそうな佇まいだ。



「当然ですよ、誰かさんの辛口に鍛えられましたから。人は進化する生き物なんです」



「たくましく育ってくれて嬉しいよ。花に例えるなら、早瀬君はそう、向日葵だな。太く青々とした茎、太陽に向かって堂々と咲く大輪の黄色い花。天真爛漫、豪快爽快の四文字熟語がよく似合う」



「何か引っ掛かるんですけど?」



「きっと気のせいさ。いやあ、向日葵は素晴らしいなあ」



 ハハハハ、と漫画のような笑い声をあげる若林さんに、私は乾いた目で反応した。全くいい性格だ。この毒のある性格と言葉使いが無ければ、当の昔に結婚していただろうに。

 綺麗な薔薇には棘がある、か。使い古されたフレーズが喉元まで出かかり、すとんと胸の奥に落ちる。薔薇か。そう言えば一つ忘れていた。



「先程、ピークを迎える花のことで一つ言い忘れていました」



「ん、何だい」



 分かっているくせに。



「薔薇も六月に一番美しいですよね。最近は品種改良が進んで、一年中見ることが出来ますけれど」



「ああ、そうだね――と、そう言えば今年も持ってきてくれるの? 早瀬君の育てているあの薔薇」



「――ええ、もうすぐですよ」



 そう、もうすぐ。あと少しであの薔薇は満開だ。




******




 勤務を終える。通勤電車に乗り、家路につく。必要があれば、スーパーに寄り買い物をする。いつの世も、仕事帰りの人間のすることはそれほど変わらない。ディティールは違うとしても、メインコンテンツは同じだ。

 月日が経過し過ぎて最早微かにしか覚えていないが、あの時代ですら基本は同じだったように思う。もっともあの頃の私は、自らが一般市民になるなど夢にも思っていなかったが。



 夏至が近いのだろう。日が長い。夕陽に染まった電車の窓ガラス、そこに映る自分の姿を眺めやる。中肉中背、取り立てて特徴の無い若い女がそこにいた。唯一特徴的と言えるのは、日本人にしては珍しいハシバミ色の瞳に、同色の髪だろうか。これだけはどの時代においても変わらないらしい。



 掌に視線を落とす。すっかり使いなれたスマートフォンの画面には、薔薇の写真がアップされている。日一日とその鮮やかな花弁は開きつつあるが、まだ物足りない。そう、まだ――分かっている。足りないのだろう。水......が。カタン、と電車が揺れるに任せ、電車からの光景を眺めた。街は夕陽に包まれている。赤く、紅く。




******




 時代が移っても変わる物もあれば、変わらない物もある。変わらない物の代表に、私は男の下卑た欲望を挙げよう。女と見れば欲しがり、自らの欲求を満たそうとする。相手の人格と体を侵食し汚す。そう、そういう薄汚れた野良犬のような欲望は、いつの世にもありふれているのだ。例えば、私の肩に気安く手をかけるこの男だって。



「可愛いね、もし良かったら一緒に飲まない?」



 ちょっと目が合って、こちらが意味ありげに微笑んだだけでこれだ。全く安い。いつの間にか隣席に移ってきて、頼みもしないのにペラペラとよく喋る。きっとこの男の頭の中には、今夜のお楽しみしかないんだろう。なんとも軽薄で身勝手な男、だがこんな男に引っ掛かる女も女ということだ。



 しばらく適当に話を合わせた。何も話さなくても、男は勝手に喋る。私は時々相槌を打つだけ。鎖骨が見える襟元が緩めのサマーセーターに、時折男の視線がさ迷うのが分かる。気がつかないと思っているのだろうか、嫌気を感じるより先に呆れた。まあ――いい。タイミングを見計らって、私は口を挟む。



「ね、ちょっとお店変えない? 飲み直したい気分なの、あなたと」



 少し蠱惑的で、いかにもこんなことには慣れていますという女を装って。




******




 暗い路地裏に差し掛かった途端、男は手を出してきた。辛抱堪らないというかのように、私の腰に手を回し引き寄せる。胸と胸が触れた。



「あ――」



 か細い叫びが私の喉から漏れた。それも男の征服欲を刺激したのだろう、息を荒くして私の肩に手をかけてくる。こんな形でしか女を物に出来ないなんて、可哀想ね。



 キス――のふり、舌と舌が絡み合う寸前、私は首を振ってそれをかわす。もういいだろう、演技はお仕舞いにしよう。唇を開いた。そう、餓えているのは私も同じだ。ただしこの男とは違う意味で。



「がっ!?」



 男の喉から上がった叫び声が、路地裏の闇に反響する。人通りは無いに等しく、またあっても男と女の痴態にしか見えないだろう。つまりはもう勝負あり。



 男の薄手のシャツの白い生地に食い込むのは、私の犬歯だ。普段はほんの少し常人より鋭い程度だけど、今は違う。約3センチ、短いが歯とは到底呼べない長さにまで伸びている。そう、狩りの時間限定の――私の武器。



「暴れないで。怖くないから」



 喉と肩の境目に犬歯を食い込ませたまま、私は囁く。実際さほど痛くは無いはずだ。噛むにも手順があり、まずは静脈を緩く噛む。血は挨拶代わりにほんの少しだけいただいて、主目的である麻酔薬を注入する。犬歯の裏に這う溝に充ちたそれは、私の第二の武器。毒蛇のそれに匹敵する神経毒は静脈から入り込み――獲物の動きを制圧する。



「あ......か、は」



「やだ、どうしたの? もうイッちゃった?」



 弛緩した男の体が崩れる。だらしなく緩んだ頬、とろんとした目。苦痛ではなく快楽を感じた時、男はこんな顔になる。そう、人を制圧するには痛みはいらない。全てを委ねたくなる気持ちよさがあればいい。



 男の体を壁に押し付ける。私の犬歯は静脈から動脈へと侵入する。ぶるり、と体が悦びに震えた。食欲と性欲が一体化した至高の感覚が、私の口腔を満たす。トマトジュースでは得られない生の旨みだ。生臭い赤い液体は、自然と過去の記憶を甦らせた。







 石造りの壁が四方を覆い、天井から吊るされたカンテラの明かりが部屋を照らし出す。現代の電気の何分の一しか明度の無い、ほの暗い空間だった。

 そこに私はいる。肩を大きく出した古風なドレスを着て、床へと視線を落としたまま。黒っぽい石の上、無惨に倒れ伏しているのは若い乙女だ。一糸纏わぬ若い体が四肢を投げ出していた。その首はあり得ない方向に曲がり、腹の辺りから血が脈々と流れ出ている。誰がどう見てももはや生きているとは思えない。



 扇情的、だがそれ以上に戦慄的なその姿に......私は何故か欲情していた。女の私が、裸の女にだ。しかも明らかに死んでいる女にだ。二重の意味での異常を自覚しつつ、私はそれでも悦びにうち震える。動かぬ女の体を抱き起こし、部屋の中央に引きずった。そのまま勢いをつけて放り投げると、女の体はグシャリと音を立ててひしゃげる。何処で? 放り込まれた先の白い陶器のバスタブでだ。



 猫足と呼ばれるくるりと曲がったバスタブの四足が、床からバスタブを持ち上げている。これが無ければ、床に流れる血で底面はどろどろだろう。片付けるのは侍女とはいえ、彼女らに無駄な苦労はさせたくはない。そう、私は心優しき伯爵夫人。その名も――







 ふっと過去の記憶が目の前から消えた。私は男に――否、男だった物にまだ犬歯を突き立てている。

 気がつけば、相手の目からは完全に光が消えていた。凡そ2リットル近くも血を吸われたのだ、生きているはずがない。



「ありがとう、名も知らぬ貴方。久しぶりだったから、格別に美味しかったわ」



 活力を取り戻した私は、男の体を優しく路地に横たえた。随分と軽いね。うん、これでまた二ヶ月は大丈夫かな。たまに人間の血をいただかないとやってられないのよね。



 さあ、もう用はない。いつもの家に帰ろうか。踵を返しかけた私は、ふと立ち止まった。自分の口に指を伸ばし、残っていた血を指先になすりつける。これで準備完了、狩りの証明でも残していこう。倒れた男の右頬に伸ばした私の指が、私の名を刻み付ける。今の私の名前じゃない。転生前のオリジナルの私の名前を。



「Ecsedi Bathory Erzsebet――ああ、日本だとエリザベート・バートリーの方が有名なんだっけ」




******




 部屋に帰った私はいつもの部屋着に着替える。机に置かれた鉢植えが、無言で出迎えてくれた。いや、そこに植えられた鮮やかな薔薇の花は、言葉では無くその色彩と香りで出迎えてくれる。だから寂しくは無い。



「若林さんが知ったら驚くだろうな」



 指先をナイフで軽く刺す。プツリと膨らんだ血の玉を、私は薔薇の上へとかざした。表面張力で保たれていたそれは、やがて重みに耐えかねて落ちて行く。赤い赤い薔薇の花弁がそれを受け、赤に赤が、赤に紅が、紅に赤が、紅に紅が重なって深みが増していった。いい感じだ、もう少しでこの薔薇は満開になるだろう。



 ありし日の栄華が微かに漂い、そして消えた。私は、早瀬絵理は静かに目を閉じ、過去を現在に重ね合わせた。

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