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作者:桜ノ夜月
気付いたら、その声はいつも僕の傍に居た。
──ルース。ルース。此方へ来て下さい
それがいつの頃の記憶なのか、とても空虚で曖昧で、まるで世界からその人に関する記憶が全て拭きとられてしまったみたいに、もう思い出せない。
──いやだ……。いやだよ……!僕は、そっちには行きたくない……!
僕はそう叫んで、声を振り払う。けれど、「そいつ」は何処までもついてきては、僕の名前を呼ぶ。
──さあ、ルース。おいで?一緒に行きましょう?僕と貴方しか居ない世界へ
白く、ぬるりとした「何か」が、僕の手を強く掴む。
──ルース。さあ、ルース。お前の血を捧げろ
まるで気が狂いそうな程澄んだ透明な音色は、同時に迷子の子供のように、何処か寂しげな音色を奏でていた。
──嫌……嫌……嫌だ……!
ゆっくりと、そいつの顔が、僕の首筋へと近付く。
──嗚呼、これがあいつの守り続けてきた「最愛」……
暗闇が、辺りを埋め尽くす。
──さあ、ルース。君の叫びは、何色かな?
「うわあああああああああ!」
大きく叫んで、同時にベッドから飛び起きる。
すると、そこは、いつもと同じ見慣れた僕の部屋が、静かに呼吸をしていた。
心臓が酷く五月蝿い。それが、あまりにも煩わしくて、同時に、心臓が五月蝿い程息づいている状況に酷く安堵した。
四角く、白い空間が、静かに騒ぐ。静寂の不協和音が煩わしい。
「来るな……来るな……来るな……!」
静かに叫び、水差しに淹れてあった聖水を辺りにぶちまける。それだけでは、まだ不安が払拭されず、掲げてあった大きな十字架を外し、ドアの前に置くことで何とか呼吸が落ち着いてくる。
嗚呼、世界が平等に残酷だなんて、一体誰が言ったのだろう。
「…………パース…………」
──僕を、助けて
呟いてみても、もう、彼は助けに来ない事を不意に思い出し、まるで聴こえない声から逃れるように耳を塞ぎ、呼吸を止める。
遠くで、子供の泣く声がした。
この世界は限りなく様々な秩序に塗れて居ると、吐き捨てたのは誰だっただろうか。それに、共感したのは、何故だったのだろう。
例えば、限りなく続く命の循環。例えば、報われぬ想い。例えば、置き捨てられた、過去の感情。……例えば、幸福を願う代わりの代償。
それらの沢山の秩序は、ぐるぐると廻り続ける螺旋階段のように、際限無く繰り返しては、僕に希望と絶望を交互に与え続ける。
甘い、甘い毒が身体の中を蝕んでいくのに気付かないみたいに。或いは、唆され、熟れた禁断の果実を食べた、彼等のように。
僕は──いや、僕等は、世界と言う無秩序な秩序を、甘く甘く受け入れては、海に沈む夕陽のように、ゆっくりと死んでいく。
そう教えてくれたのは、パースだった。
彼──パースが、本当に「パース」という名前なのかは解らない。 何度尋ねても、彼は名前を教えてはくれなかった。
幼い頃の僕は、「two persons」──彼と、彼の中の、「もう一人の彼」を呼ぶ為に、その渾名を付けた。
──今思うと、とても残酷な渾名だったのかもしれない。誰だって、自分が他人と違うものだと云われるのは、辛いだろうから。
──パースは、本当は何て名前なの?
──そうですね……。悪魔、です
──嘘だよね。パースは、嘘を考えるときに、必ず口元を押さえる
──心外ですね。まぁ、死人に口無しと言いますからね
──君は死んでいるの?確かに、死人の様に色は白いけど
──…………お褒めくださり光栄ですよ、little・knight様
彼は皮肉げにそう呟くと、刺すように夜空を睨む。何処までも、果てしなく続く暗闇には、鈍く輝く月が、まるで迷子の子供のように寂しげに浮かび上がっている。
遠くで、獣の雄叫びが聴こえた。それは、この果てしなく続く暗闇の中で、「彼」か「彼女」かも解らない存在が、自己を証明する為の雄叫びのように思えた。
──………………ねぇ、Little Knight
暫く二人で、ぼんやりと月を眺めていると、不意にパースが、小さく僕の名前を呼んだ。
──もしも、貴方がもう、この世界から消えた人間に逢いたかったら。
教会の裏側に灯る焔を、吹き消してごらんなさい。
きっと、願い事が叶いますよ?
──パースは、叶った?
すると、パースは、一瞬大きく目を見開いて、瞬間。まるで、絡み合い、苦しんでいた糸が綻ぶように、ゆっくりと微笑んだ。
──ええ、勿論。貴方に逢えましたから。
私には勿体無いくらいの幸せを、両手から溢れ落ちてしまいそうな程、貴方から頂きましたから。
私はそれだけで、幸せですよ。
…………Little Knight。私は幸せですよ
──パースは、何を願ったの?
僕が、好奇心に駆られて訊ねると、パースは言い難そうに、ほんの少し顔を歪め、ゆるゆると頭を左右に振る。
──私は、「しあわせ」を願ったんですよ。こんな自分は嫌いだ、死んでしまいたいって。
……………………力なんか、無ければ良い、って
…………でも、私は「それ」を手に入れることが出来ました。ひかり、を僕は手に入れたんです。誰にも掴めない、綺麗な光を
時が止まったような星空の中で、ゆっくりとパースが笑う。それは、まるで、楽園から追放された瞬間のような、悲しげで、それでいて何処か嬉しそうな表情だった。
パースは、また、ゆっくりと月を見上げる。その姿が、いつか何処かへ消えてしまいそうで、僕はぎゅっと彼のシャツの裾を掴む。
それは良かった、と僕が脳内から溢れそうな疑問を押し止めて呟くと、ええ、本当に良かった、とパースは満足そうに微笑んで、ゆっくりと、僕の頭を撫で、月を見上げる。
すると、突然、パースの様子が豹変した。
月光が、彼をゆっくりと照らす。
其れまで終始穏やかだった彼が、突然頭を抱えて苦しそうに呻く。血液の匂いが、鼻腔に突き刺さる。
この臭いは──
トールは、「出てくるな!」と、普段の彼からは想像も出来ないほど荒々しく叫ぶ。
月が、彼の姿を射した瞬間、まるで歌うような声が、僕の脳を刺した。
──さあ、Little Knight。蝋燭を消すのは早い方が良い。君の世界が、暗闇に包まれる前に。
…………いや、違う!ルースはお前には渡せない!ルース!君は此処に居たら駄目だ!
違う!違うんだ!ルースは違う!止めろ!止めろ!止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ!
パースは、その場に蹲り、「出てくるな!」と、まるで壊れたレコードの様に叫ぶ。
闇に覆われた森の中に、パースの叫び声が響く。森の中?違う。ならば、一体此処は何処なのだろう?
──面倒な男だ。Little Knight。消せ。消すんだ。蝋燭の灯りを。
……いや、違う!ルース!こいつの言葉に耳を傾けちゃ駄目だ!
──パー……ス……?
思わず、怯えたように彼の名を呼ぶと、何処か怯えたようなパースの紫の瞳に、不意に光が差し込む。
「ルース。今すぐ、私の傍から離れてください!
走って!何処までも走って、この場所を抜けてください!こいつと私から、逃げて!」
そう叫ぶと、パースは僕の背を思い切り押す。押された衝撃で地面へと倒れる。ピリリ、と膝に鋭い痛みが走るが、立ち上がるとそのまま、パースから逃げる様に駆け出す。
逃げろ、と本能が訴えて居た。優しい彼の姿の中に巣食う魔物から。
腕を思い切り振って、地面を蹴る。息苦しくて開いた口から、許容量を超えた酸素が入り込む。
月が、そんな僕らを見ていた。
彼が走り去った後、突然、空を切り裂く様な断末魔が聴こえ、彼が地面へと倒れ込む。すると、彼の中から、もう一人の半透明な「彼」がずるり、と抜け出る。
「…………余計な事をしてくれたな」
「彼」は、軽蔑したように、すでに虫の息になった彼を見ると、その首筋に口付け、牙を立てる。牙を立てられた彼は、一瞬身体をビクリ、と震わせはしたものの、もう抵抗をする気力も残っては居ないのか、なされるがまま、「彼」に血を吸われている。
それは一枚の絵画の様に、背徳的で、美しい光景だった。
暫くすると、半透明だった「彼」が、ゆっくりと色付き始め、まるで、その代わりの様に、彼は徐々に色彩を失ってゆく。
やがて、彼の存在が、人間の視界から完全に見えなくなった頃、「彼」は口元を乱暴に拭うと、まるで嘲笑うかのように口元を歪め、その場から立ち去る。
「彼」も少年も、そして、彼自身も居なくなった場所を、ただ静かに、月がゆっくりと照らしている。
「……逃……げて……。私の……Little・Knight……」
迷子の子供の様な声が、風に乗って何処かへ消えた。
「はあっ……はあっ……!」
暗闇に包まれて、方向の解らなくなった道を、訳も解らず滅茶苦茶に走る。汗が目に入り、擦り剥いた痛みで止まりそうになる足を、懸命に前へと動かす。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げた。視界が見えないまま、訳も解らず。
やがて、見知った街の教会の灯りが見えてくると、僕はドアを壊す程の勢いで開き、倒れ込む。
──此処まで来れば、もう大丈夫だ
そう思い、安堵すると同時に、じわじわと、パースを見捨てて逃げてしまったことへの罪悪感が、一斉に僕へと襲いかかり、その重圧から逃げるように、身体を丸めて蹲り、きつく瞼を閉じる。
──考えることも、涙を流すことも、今だけは止めてしまおうか
そう呟くと、僕は膝を抱え込んで、月光の差し込む教会の床で、死んだように、ただ眠った。
その日、僕は初めて「悪夢」を見た。
暗い、暗い闇の中から、白い腕が僕の腕を掴む。そのまま、暗闇に引き摺りこまれそうになった瞬間、閉じて居た瞼を開く。額には、汗の玉が、びっしりと浮かんでいた。
──ルース?如何しましたか?
何時もなら安心する、少し低い声が聴こえなくて、ついいつもの癖で彼の声を探してしまう。
「パース……」
彼の名前を呟くと、ギィィィッ、と錆び付いた教会のドアを開ける音が聴こえた。
「ルース」
不意に、聞き慣れた穏やかな声が、僕の名前を呼んだ。聞き違える事の無い、優しい声が。
「パース……?」
驚いて、思わず声をあげる。優しい声が、僕を呼び続ける。
「ええ。何とか、あいつを封じ込める事が出来ました。怖い思いをさせてごめんなさい。
……さあ、帰りましょう。ルース。出て来てください」
その優しい声に、隠れて居た祭壇の下から出てくると、ずっと待って居た彼の姿が見える。
「パース!」
そう叫んで駈け寄ろうとすると、彼が纏う血の匂いに、思わず顔を顰める。
「ルース」
パースが僕を見つけ、近寄ってくる。違う。パースはこんな風に皮肉げに笑わない。こんな風に、血の匂いを漂わせない。
この人はパースだ。違う、パースじゃない。気持ちが悪い。
「嗚呼、ルース。探しましたよ。無事で良かった」
パースの姿をした「そいつ」は、僕の身体を抱き締めると、呟く。彼が纏う血の匂いが、近付いた事により、より深く、強くなる。
気持ちが悪い。こいつは、誰だ?
「お前は、誰だ?」
僕がそう問うと、そいつは一瞬面白げな瞳をしてから、すぐに心配そうな瞳を作る。紫の瞳が、面白そうに瞬く。
「何を言っているんですか?パースですよ」
「違う。お前は、「パース」じゃない」
僕がそう叫ぶと、パースの姿をした「そいつ」は、驚いた様に目を見開くと、クツクツと、喉の奥で楽しげに笑った。
「嗚呼、成程。面白ぇ奴だ。あいつが執着したのも頷ける」
まるで、血の底から響く様な声に言い知れ様の無い気味悪さを感じ、抱き締めてきた「そいつ」の身体を精一杯押し返そうとする。けれど、そいつは、くつくつと笑うだけで、僕の身体を解放する気配は無い。
「嗚呼、震えてんな。吸血鬼は嫌いか?」
「……好きな奴は、居ない」
それもそうか、と、そいつはまた笑う。血のように赤い舌が、ちろり、と蛇のように覗く。
「教えてやろうか。俺はパースだよ」
そいつは、また、皮肉げにくつくつと笑う。絡み付く夏の風のような、生暖かい風が僕とそいつの間をすり抜けて、何処かへと消えて往く。
聞いたら、もう戻れなくなる。解っては居るのに、そいつの言葉が、僕の脳を捕らえ、逃げ道を塞ぐ。
怖いのに。逃げたいのに。こいつの言葉は危険なのかもしれないのに。
それでも何処か逃げられないのは、この「偽物」の正体を知りたいと云う好奇心と、「パース」を奪った事に因る敵愾心──いや、嫉妬心から来るのかもしれない。
「正確に言えば、『パース』という人間は、『俺』と『あいつ』であって、実はそうではない。
俺とあいつを足し、其処へお前の血液を足した存在が、『お前』であり、『俺』であり、『あいつ』だ。
──なあ、Little Knight.本当は、気付いているんだろ?
あいつは、お前は非常に傷付いた様だから、優しく見守ってやろうとしていたみたいだけど。生憎、俺はそんなに優しくもないし、暇でもない。
事実を伝えようか。お前の中には、三人が眠っているんだ。俺と、あいつと、お前だよ。ルース・ディユ」
その言葉に、突然、閉じ込めていた過去の記憶が、弾けとんだ。
蝋燭の焔を消すのは、眠るとき。そして、眠ると、必ず、「血を吸われる夢」を見る。
それは、僕であって、俺であって、私である「ルース・ディユ」の夢。
「う、あ……」
──ねぇ、パースは、何て名前なの?
──そうですね……
嗚呼、嫌だ!聴きたくない!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
──悪魔、です
──それは、遥か昔。そう呼ばれた、ある一人の、ダンピールの少年の名。
彼の名は──ルース・ディユ。
彼は、生まれながらにして、素晴らしい才能を持つ少年だった。
ダンピールという、差別されて生きてきた派閥の中でも、彼の存在は一際大きく、純潔種の吸血鬼達に、階級制度を覆されると危惧された少年は、深夜、何者かに陥れられ、吸血鬼社会から、永久追放を命じられた。
絶望を知った彼は、バラバラになった自らを繋ぎ止めておくために、三人の人格を造り上げた。
一人は、ルース・ディユ。はみ出しものの、憐れな少年。
二人目は、パース。彼の善の部分のみを繋げて造り上げられた、彼のお気に入りの人。
そして、三人目は──
「パース……ディユ」
彼こそが、ルースの絶望を、憎しみを、欲を、悲しみを全て詰め込まれた人物だった。
そして、結果──彼は、歪んだ。
パースの嫌う「絶望」を、彼は望んだ。
ルースが、もっと自分に「寄生」して生き続ける未来を望んだ。
パースとルース──彼等の醜さを、そして、弱さを詰め込まれた彼こそが、遥か昔、悪魔と呼ばれた少年だった。
悪魔は、優秀だった。
血の吸い方を覚えたのは五歳。国の為に、魅了する力を使う事を許されたのが十歳。悪魔の子だと、忌み嫌われ、追放されたのが十七歳。
悪魔は、考えた。皆に嫌われず、役に立てる方法を。皆に好かれる方法を。
月が、もう数えきれない回数になる程自分の頭上を通り過ぎた頃、彼はやっと気付いたのだ。
──全てがもう、手遅れであることに
悪魔は、泣いて、泣いて、泣いた。こんな自分は居なければ良かった。力なんて、知識なんて要らない、と大きな声で叫んだ。
──その日。悪魔は、一度死んだ
彼は、自分の余り余った人生を、「もう一人の人物」へと与えた。こうなりたかった、と彼が創り上げた、理想の人物──パースに。
パースは、突然生み出された自身と、宿命の様に与えられた人生に戸惑った。悪魔の人生は、紐解こうとすればするほど、絶望や怒り、悲しみが、彼の身体の中を駆け巡って、感情を乱れさせるのだ。
困り果てた彼は、もう一人。自分の抱えきれない「感情」を押しつける為に、もう一人の人物を創り上げた。
彼の名が──
「…………どう、して」
喉の奥で、伝えなければいけない筈の言葉が、絡まって、呼吸が出来なくなる。疑問の後に続く筈の言葉が見付からず、まるで金魚の様に、パクパクと、口を開閉させる。
すると、彼は、面白そうな目をして、口角をゆっくりと持ち上げる。
「眠りたかった。何も考えずに。ルースの記憶や、パースの、反吐が出そうな程の、いき過ぎた庇護欲や、執着から、逃げたかった」
そう呟くと、彼はゆっくりと微笑んで、首を振る。
「……でも、これでやっと眠れる」
彼は、そう言って、指をパチン、と鳴らす。すると、僕の視界が不意に暗くなり、目の前に、赤々と燃える蝋燭が浮かぶ。
──なあ、ルース。此処が何処か解るか?
頭の中に響いてきた声に、思わず首を振ると、声は、柔らかく呟く。
──ルースの、心の中ですよ
次に、パースの声が響き、思わず辺りを見渡す。
「パース?何処?」
──貴方の傍に居ますよ
──なあ、ルース。目の前に、蝋燭が見えるだろう?
「うん。見える」
──それを、思い切り吹き消すんだ。お前の腹の底から、思い切り
「思い切り?」
──そうだ。上手く行けば、パースがお前の元へ帰ってくるぜ
「本当?本当に、パースは帰ってくるの?」
──嗚呼。俺は嘘を吐かない。多分、な
「…………信じても、良いんだよね?」
──嗚呼、勿論。お前の大好きなパース君は、ちゃあんと帰ってくるぜ。
…………さあ、ルース。灯を消せよ。お前の願いを、叶えるんだろ?
僕は、頭の中に響く彼の声に頷くと、大きく息を吸い込む。
──ルース!
すると、突然暗闇を引き裂く様な声が聴こえ、誰かの強い力で、後ろへと曳かれ、驚いて、瞬間、呼吸を止める。
は、あ、と、大きく息を吐き出すと、何処か焦った様に僕の腕を掴むパースと目が合う。
「パー……ス……」
思わず彼の名を呼ぶと、彼の細い肩が、ピクリ、と動く。
まるで、石膏像の様に白い肌は、幾筋もの赤い線が流れ、そわそわと、僕の眼球を戸惑わせる。
──死んだんじゃ、なかったのか?
如何して、何故。色々な疑問が脳内を駆け巡り、吐き気がする。
「……嗚呼、面倒臭ぇのが出てきたな」
瞬間、僕と彼の周囲を覆い隠していた暗闇が、ゆっくりと融け出すと、僕は教会の中央で座り込んで居た。
彼と、パースが、二人で対峙して、互いに腹の内を探る様に、ゆっくりと微笑む。
「なあ、パース」
「……何でしょう?」
「お前、何で「出て来れた」?」
彼は、まるで獰猛な、飢えた獣の様に、その紫の瞳を光らせる。
その様子に、彼はゆっくりと左右に首を振り、溜息を吐く。
「「心の闇」は、前を向こうとした瞬間に晴れますから。僕にはルースが居る。唯、それだけです」
その言葉に、彼は小さく舌打ちをすると、身を翻して、教会の外へと出る。
「……現時点で「器」の主導権を握ってるのはお前みてぇだからな。ここはひとつ、退いておいてやる。
…………だが、次はねぇぞ」
そう呟くと、彼は教会の窓から下へと堕ちる。声をあげる間もなく、彼の姿は闇に呑み込まれ、そして──消えた。
暗闇に包まれた教会に、ゆっくりと朝日が差し込んでくる。その眩しさから逃れる様に、僕はパースの、ほんの少し寂しげな瞳を見詰める。
「……ごめん」
「何故?ルースは十分頑張りましたよ?」
そう言い、微笑むパースに、どうしようもない罪悪感を感じ、僕は彼の華奢な肩に頭を預けると、項垂れる。
「どうしたんですか、ルース?疲れてしまいましたか?」
その言葉にゆっくりと首を振ると、瞼を閉じる。
最初で最後の、僕からの、我儘な願いを伝える為に。
「パース」
「はい」
僕には、ずっと考えて居る事があった。
パースには、人格が二人以上存在する。それは、攻撃的であったり、悲観的であったり、執着が強かったり、等、様々な人物だ。
そして、彼等は皆、個々の人格であるということ。例えば、一人の人間に様々な面があるように、「パース」という存在には、沢山の人格が共存している、という仮説を、僕は持っている。
その、様々な「パース」に、僕は出逢った事がある。例えば、それは教会であったり、泉の傍であったり、等、場所柄はまちまちだけれど。
しかし、彼等に共通する事は、「教会の蝋燭」を、異常なほど恐れて居る、と云うことだ。
今回のパースは、イレギュラーで、恐らくまだ造りたてのパースなのだろう、と推測できる。
彼等の恐れる、教会の地下室にある蝋燭は、必ず火を絶やさない様に、何者かが火を継ぎ足していると云う話だ。
ならば──
「パース。今から、教会へ行こう。教会の、地下室に、だ」
彼の目を見て、そう伝えると、彼の瞳に怯えた様な色が浮かび上がる。
「嫌……嫌ですよ……!何故……」
「君の──……」
僕は、言葉を選ぶ様に、慎重に伝える。
「君に、逢いたいんだ」
そう呟くと、パースはひくり、と身体を震わせる。違う。逢いたくない。戻りたくない、と、まるで子供のように、小さな声で叫ぶ。
彼は、地下室に「何が」あるのかを知っている。少なくとも、彼が主人格を二重に創り上げた原因は、必ず其処へ眠っている。
パースは、ほんの少し視線を左右に彷徨わせてから、まるで何かを諦める様に頷く。
「……解りました。ただ、何があっても驚かないでください」
彼はそう呟くと、指をパチン、と鳴らす。瞬間、視界が急に暗くなり次に目を開けると、そこは暗闇に包まれた森の中だった。
パースは、まるで其処へ何度も来た事があるかのように、慣れた様子で道を進んで行く。置いて行かれぬ様、必死で彼へ着いて行くと、彼は一つの古ぼけた教会の前で立ち止まり、此方を振り向いて、薄く微笑む。
「さあ、ルース。着きましたよ」
そう言い、彼が教会の扉を開くと、ギイイイイッと云う木材の軋む音と、古い血の香りが鼻腔に入り込む。
ぴたん、と、雫が落ちる音がした。嗅ぎ慣れた筈の香りが鼻腔に入り込み、吐き気がする。
嗚呼、駄目だ。この先は、見てはいけない。
そう思うのに、目が逸らせずに視界に入りこませた光景には──様々な時系列の、彼が居た。
そいつらは、一斉に僕を見詰めると、柔らかく微笑んで歌う様な声で囁く。
──Welcome to Little Knight.
ガチャリ、と、扉の閉まる音がした。
「ねぇ、ルース。知っていますか?」
パースは、静かに呟く。振り返りたいのに、振り返りたくない。そんな、矛盾した気持ちが、ざわざわと僕を責め立てる。
「どうして、僕は地下室を恐れるのでしょう?いえ、「恐れる」という言葉は、少し妙です。だって、僕には「地下室に居た」という記憶が無いんですから」
ゆっくりと、パースが近付いてくる気配がする。コツリ、コツリ、コツリ。パースが近付く度に、床がパースの存在を知らせる。
「僕はね、それがずっと不思議でした。怖くもない地下室の事を思い浮かべるだけで、身体の震えが止まらなくなるんですよ。
……嗚呼、嗚呼、嗚呼!今でも恐ろしい!恐ろしくて堪らない!」
パースは、妙に芝居がかった口調で、高らかにそう叫ぶ。澄んだ音色が、鼓膜の奥で反響した。
ざわり。視界に、地下室に血塗れで横たわる少年が見える。その周りを取り囲むようにして、3、4人程の銀髪が、警戒するように見つめる。
──本当に、こいつが階級制度をひっくり返すのかよ?
──おい、まだ子供だぞ?子供を始末するのか?
──…………こいつに、数年後にこき使われるよりはましだろう?
何せ、こいつは「悪魔」だからな。危険分子は、とっとと消した方が身のためだ
中心であろう男が、口角を上げて微笑む。下卑た笑いが、地下室に反響する。
少年は──僕は、ただその様子を見ていた。
男が、ゆっくりと僕の首筋に顔を近づける。
──殺される
そう思った瞬間、思い切り咆哮をあげる。視界が赤く染まる。
「うあ……!あああああああああああ!」
叫び声をあげた瞬間、世界が暗転して、僕は意識を手放す。
最後に見たパースの顔は、何処か嬉しそうに笑っていた。
彼が叫び声をあげ、気を失った地下室の中に、くすり、と愉しげな笑い声が響く。
「嗚呼、このルースもここまででしたか」
彼はくすくすと笑いながら、ルースの身体を抱き上げて、その首筋にゆっくりと牙を立てる。
そんな二人を、彼等が羨ましげに見つめる。彼は、それらに見せびらかすように、また、ゆっくりと牙を立て、こくり、と喉を鳴らして、ルースの血を飲み込む。
「Good night.ルース」
──これで、もう。君は僕から逃げられない
彼は声を上げて笑う。嬉しくて、叫びだしそうになる心を必死で押し隠して。
「ねぇ、ルース。僕に会ってくれてありがとう。あいつよりも、僕を選んでくれて、ありがとう」
だから、もう。永遠に離さない。
狂ったように笑う彼を、紫色の瞳達が、静かに見詰めていた。
月光が森を淡く照らし出す。
カラスが、一斉に飛び立ち、その中にぼんやりと、紫の瞳が浮かび上がる。
──こんにちは
彼はまた、ルースを求めて生まれる。
それが、彼が失った心を埋める、代償なのだから。




