君に手錠をかけたのは
作者:Ria
「……ストーカーに悩んでいらっしゃると」
「そうなんですよ」
僕はため息をついた。
そう。ここ最近、僕はストーカーに悩まされている。
淹れたばかりのコーヒーを目の前の男に勧めながら、僕はもう一度ため息をつく。もう目の前まで秋が迫っている窓の外は、同時に夜を迎えようとしていた。この地域は、夏が終われば駆け足で凍えるような冬を連れてくる。ただでさえ旅人もこないような森の奥にひっそりとあるこの村では、コーヒーも高級品だ。
「酷いんですよ、家の周りを彷徨いているのが分かるんです。窓の外から覗いてくるし、この前なんか、夜に酒場に行って帰ってきたら家の中を荒らされていて」
「それは酷い」
「でしょう?おちおち寝てられないですよ」
「お察しします」
「最初は大したことないと思っていたんですけど、それもそろそろ限界で」
「それで、私を呼んだと」
「そういうことです」
ため息はどんどん深くなるばかりだ。
村の外からの客なんて1年のうちに数えるくらいしか来ないし、その1年も明日の夜に終わる。今年はたったの2人しか来なかった。辺境を巡る行商人のおかげで食料だけでなく酒もコーヒーを手に入るけれど、たったその程度の限られた人間としか付き合っていない僕の住む村には、事件という事件がない。
殺人も強盗も、何も無い。
都では、かっちりした服に身を包んで、深い紺色の帽子に紅い羽を刺した特徴的な服装の連中が昼も夜も街中を歩き回って、治安維持のために働いているというのに、この村じゃあ目の前のくたびれた男がその代わりだ。袖口がぼろぼろになって糸が飛び出しているような古い上着からは、やけにごつい手が伸びてコップを掴んでいる。
「しかし、いいんですかね」
「何がです?」
珍しく言いよどむ男を不審に思って、僕は首を傾げた。
「……いや、いいならいいんです。お困りなら助けますよ」
「そりゃ助かる」
犯罪なんて滅多にない村だが、しかし唯一、ストーカーってのは存外珍しくない。心の底から不思議なことに。
「あ、コーヒーお代わりいります?」
「いやいや、もう帰りますよ。仕事があるし」
そうですか、と引き下がる。なんてったって高級品だ。そんなに裕福ではない僕にとっては、豆の1粒だって惜しい。この男といい関係でいたいのは山々だが。
「最近は仕事もなかったんで丁度いいですわ、明日の夜には準備をして、また来ますんで」
「早いですね」
「残念ですか?」
「まさか。先客がいなくてほっとしてます。これでなんの心配もなく新年を迎えられそうですよ」
「それなら良かった、もう明後日には新しい年が始まるんですからね、余計な柵は今年のうちにって」
あんまり嬉しくなさそうに肩をすくめた男は、コーヒーありがとうございましたと丁寧に礼を言って帰って行った。
木製の扉がヤケに大きな音をたてて閉まる。そろそろ、蝶番を交換した方がいいかもしれない。
かたり。
かた、ぱき。
今のはきっと、窓の外に置いてある暖炉にくべる小枝を崩して踏んだ音。
がた、がた。
今のは窓枠に手をかけた音。
がた、ぱき、がさ、がさ。
今のは窓から離れて扉の方に移動した音。
こん、こん。
「……!」
扉が、ノックされている。
こん、こん。
「……はい」
どちら様ですか。
そう言おうとして、やめた。どこのどいつかなんて聞く必要はない。
そんなことに意味は無い。
一瞬、時間が止まった気がした。今まであった様々なことが走馬灯のように僕の頭の中を支配し、過ぎ去っていく。数え切れないくらいの思い出たちは、もう終わったことのはずなのにその時ばかりは嫌になるほど鮮明だった。
喉の奥が苦しくなって、泣きたくなって、そうして、僕はやっと僕に戻った。
扉を開く。
「おいストーカー、やっぱりお前か」
「……えへへ」
夜闇を背に立っている僕のストーカーは、二週間前に死んだ彼女。
僕の村では、死者には、その人が生前に持っていた黒い服を着せる。彼女の服装は、恐らく持っている服の中で最も高価な黒色のブラウスとスカートで、裸足で、手には古びた木製の手錠をしていた。
僕の村では、死者に手錠を嵌めるのだ。
「帰ってきちゃった」
あーあ。どうすんのこいつ。
「……おかえり」
「ん、ただいま」
僕は大きく扉を開いて、彼女を中に入れた。
「ねえねえ、これ外してくれない?」
「やだよ」
両手を掲げて、そのぼろぼろの手錠を僕に見せる。
灯りはテーブルの上のランタンだけにして椅子に座らせた。生前から色白だった彼女は、埋葬した時に見たあの青白い肌を晒している。
「なんでよ」
「お前も知ってるだろ、そういう決まりだからだよ」
「ぷー……」
「ぷーじゃない、ぷーじゃ」
相変わらずケチだなーと彼女は頬を膨らませている。いやいや、そういう問題ではないのだが……決まり事は、決まり事である。
僕は自分用に1度沸騰させておいた水を注いだ。恐らくこいつに飲み物は必要ない。
彼女の向かいに座って、腕を組む。
「第一お前なあ、何ストーカーしてんの」
だって声かけるタイミングがね。
「タイミングが無かったんだもん、入れて欲しいなって思ってたけど」
「うろうろされる僕の気持ちにもなれよ」
「そんな余裕はなかった!」
晴れやかな顔で言われても。
全く悪びれる様子もない彼女の明るい顔を眺めながら、僕は懐かしい気分に浸る。死んで二週間経ったのは、もう二週間なのか、まだ二週間なのか。少なくとも僕にとっては、彼女が生きていた頃なんて遠い昔の思い出だった。
「うろうろするのはまだいいや、それよりお前、なんで家の中を覗くんだ」
とりあえず何か話していないといけない焦燥感に駆られて、僕は疑問を一つひとつ潰していくことにした。
「寝顔が見たくて……」
思い出す。こいつはそういうやつだった。
「じゃあ家の中に不法侵入したのはなんなんだ」
あーそれねと彼女は一気に目をきらきらさせた。よく、こんなちゃちなランタンの灯りで目を輝かせられるなと感心する。
「懐かしいなって思ったら、つい!」
「お巡りさあああん!」
「やめてー!?」
先ほど呼んだわけですけれども。
「そう!それなの!!それなのよ!!」
何呼んでくれてんの!!
そう叫ばれて、僕はため息をつく。
ストーカーに困っているんだから通報するのは当然だと思うが。
「そんなに通報されたくないならこそこそするな」
「……おっしゃる通りです。でも後でこう、あの、ちゃんと言ってくれるよね、突き出したりしないよね」
「分かった分かった、後できちんと説明しておくから」
彼に出したコーヒー代を無駄にしたくはないのだが、俯いたまま泣きそうな顔で僕を見つめる彼女を見ていると、とてもじゃないけど頷かないのは酷すぎる気がした。
僕の家は村の中でもはずれにあって、すぐそばまで深い森が闇を湛えて迫っている。どこからか梟の鳴き声が聴こえる。こんなあまりにも恐ろしく暗い森の中で、こいつは二週間もさまよっていたのだ。帰る場所も居場所も無く、生前と決定的に違ってしまった自らを抱えながら。
無邪気ににこにこと僕を見つめる彼女を見ていると、ひしひしと感じる。人間、死んだからっていきなり人間でなくなるわけじゃないのだ。死んだって夜は寂しいし、多分、夜闇は恐ろしい。
例え僕らの間に生死の壁があろうとも、かつて愛した人だ。
こんなにほっとした、心の底から安堵した顔を向けられては……いや突き出すなどと無情なことは言えない。
言えるわけがない。
「でも良かった、またこうして会えてお話できるなんて。嬉しい」
そうだな、と僕は相槌を打つ。鈍く軽い音を立てて彼女の手錠が揺れる。
僕がまだ幼い頃、父親を埋葬した時は鉄の手錠をかけたものだが……僕らの村にそんな余裕はとうに無くなった。
「とても暗くて、寂しかったの。会いたかったよ」
「ああ僕もだ。まさかストーカーになって帰ってくるとは思わなかったがな」
「それは謝ったでしょー、もう、許してよ」
「はいはい」
あくび混じりに返事をした。もう夜も遅い。ランタンの油も勿体ないし、いつもならとうに寝ている時間だ。人の寄り付かない村というのは本当に不便なものである。
「え、眠いの?」
「そりゃそうだ、どちらかというと朝だぞ、朝。日が短くなってきたとはいえ、そろそろ空が白み始める」
「……だって私、まだまだ眠くなんてないのに」
「ふぅん。お前、前は僕より早く寝てたくせになぁ」
死ぬと体質も変わるのだろうか?体質も何も、死んでいるのだが、そこら辺を深く考えようとしても頭が痛くなるだけである。分からないものは分からない。そうやって割り切って生きることに、僕らはすっかり慣れていた。
「死んでも会えるなんて、嬉しいなぁ。嬉しいなぁ」
ねえねえ嬉しいなぁと僕の肩を揺する。
「うーれーしーいーなー!」
「うっせ、分かったから」
「うふふ」
笑顔のまま、しかし食い入るようにこちらを見つめる彼女を見ないように窓の外へ目をやると、とうとう空が明るくなってきていた。もうすぐ朝が来る。太陽が照らす。生者の時間がやってくる。
「ほーら、お前のせいでさっぱり寝れなかったじゃないか」
「…………」
「……?おい」
返事がない。
見ると、いつの間にかテーブルに突っ伏して眠っていた。
というか、死体だからまさに死んでいるようである。
「お、おい。死んでるのか?寝てるのか?いや死んでるんだろうけどさぁ……」
つついてみるもぴくりとも動かない。
し、死んでる……!!
という冗談(真実だが)は置いておいて、僕は家の窓の内側にある木の扉を閉めた。僕らの村は冬になると雪に埋もれてしまうから、こうして二重になっているのが普通だ。内側の扉を閉めてしまえば、外からの光は一切入ってこない。
全ての窓を閉める。
続いて彼女の身体を抱き抱えると、家の奥のベッドに運んだ。ずっしりと重い。人体の重みだ。
僕は彼女の死体をベッドに寝かせて、とりあえず朝ご飯を食べようと準備に取り掛かる。
死んだ彼女が帰ってきたからって、僕には仕事があるのである。
夜になると、彼女はまた目を覚ました。日の高いうちは死体らしくぴくりともしなかったくせに、辺りが濃い夜闇に包まれた途端何事もなかったかのように起き上がったのだ。
「おはよ」
「うん……」
「もう夜だぞ」
身体を起こした彼女は、しばらくの間ぼうっと壁を見つめていた。死体も寝ぼけたりするのかと僕は勝手に感心する。
いつまで経っても斜め上を見つめたままで心ここにあらずな彼女を眺めるのにも飽きて、昼のうちに森で集めてきた木の実の殻をナイフで削り始めたところだった。
「ねぇ」
囁くような声に僕は振り向こうとした。
「どうかし……!?」
いつの間に後ろに移動したんだろう、僕の首に滑らかな腕が回されていて、それは叶わなかった。僕の胸の前に、木で出来た手錠が見える。
ランタンの灯りに浮かび上がったそれが、ぞっとするほど美しい。こいつはこんなに綺麗な腕をしていただろうか?
「あのね、」
お腹空いた。
彼女が生きているうちに何度も何度も聞いた普遍的なセリフ。日常を象徴するようなありふれたその一言は、僕を身震いさせた。
生命が脅かされていると、本能が叫ぶ。
僕は今、危機に抱き締められている。
「ま、待って」
「待てない」
「お前、何の為に帰ってきたんだ!?」
「……」
静寂。
僕の首筋に、ひやりとする何かが押し当てられている。
犬歯だ。
僕は必死に考えた。どうする、どうすればいい?思考すればするほど頭が真っ白になっていく。
ちりっと焼け付くような痛みが首筋を走る。鋭い歯が押し当てられている。立ち上がろうとしたけれど、何故か足に力が入らなかった。すぅっと彼女の、後ろの方に意識が飛んでいくような感じがした。見慣れた少し薄暗い部屋の風景が遠ざかる。僕の頭の中はみるみる不明瞭になって、掴んだと思った意思の端は指の間からすり抜けて纏まらない。この身体は誰のものだ?
本当に僕のものなのだろうか、あるいは……?
ダメだ。
このまま身を委ねてしまうという選択肢の、なんて甘美なことだろう。
抵抗しているのが馬鹿馬鹿しい。首筋を、温かい彼女の吐息がくすぐる。力が。
ダメだ。
ダメだ。
ダメだ。
しっかりしなくちゃ、ダメだ。
このままじゃ、ダメだ。
僕はもうなんでもいいやと思うことにした。一回だけ、そう、たったの一回だけ抵抗するんだ。それだけでいい。
無理やり身体に力を込める。
とりあえず……!
「うりゃっ」
背後にぴったりと密着するようにして立つ彼女の柔らかい腹に、全力で肘鉄を食らわせた。
「わっ、何すんの!?」
「うるせー、寄るな!」
生前より柔らかさはだいぶ失われているし、そんなに効果もなかったらしい僕の渾身の肘鉄だが、彼女は驚いたように身体を離した。まん丸な目を更に見開いて、まるで抵抗されるなんて考えてもみなかったように。
ふっと、頭の中を占拠していた靄のようなものが晴れる。あの甘くとろりとした空気も綺麗さっぱりなくなって、後には鈍い頭痛が残っただけ。
残念……だなんて、思わない。
「おまえな」
はあ、とため息を一つ。
「今、なにしようとした?」
「それは、その」
「……」
「…………血を」
血を。
「血を吸おうと、したの」
僕の住む村では、死者に、その人が持っている中で一番上等な黒い服を着せ、手錠を掛けて埋葬する。
死は終わりではない。
人の寄り付かぬこの村で、「起き上がり」はそう珍しいことではない。
死者は時折帰ってくる。
死したその時の姿を保ち、鬼となって帰ってくるのだ。
彼女は蹲っている。
「人間なのに、人間じゃないのかな」
その問いに正しい答えを返せる人は、この世の中にいるんだろうか。僕には分からない。
「でもお前、死んだだろ」
「そうだけどさあ……でも、たかが死んだくらいで人間じゃなくなるわけ?」
たかが死んだくらい、ね。
「僕に一つだけ言えるのは、生きてる人間は血を吸ったりしない。お前が人間かどうかは分からないけど、少なくとも生きてる人間じゃないだろ」
「それは、うん」
納得したらしかった。
僕と彼女の間にあるのは生死という圧倒的な壁であって、それは努力や思いじゃ越えることなど出来ない。彼女は死んでも、血を欲するようになっても人間の形をしているけれど、でも僕と同じではないのだ。
もう、違うのだ。
僕は知っている。
僕だけじゃない、この村に生きる人なら誰だって知っている。死はあまりにも身近で、恐れるようなものではないということを。死はいつだって僕らの先にいて、時折、生きるものたちが忘れてしまわないように帰ってくる。それを完全に阻止するのは、やはり憚られた。
起き上がってこないように、死体の首をはねてしまえ。
心臓に杭を、足首に鎖を。
そうすればいくら死者とて起き上がることなんて出来ない。それを理解していながら実行しないのは、死への尊敬と親愛の心。
僕は知っている。
彼女は死んでも、生きている人間ではなくとも彼女であるということ。
例え彼女が、僕を殺そうとしていても。
「お腹空いた」
「うん、分かるよ」
「全身の細胞が苦しい。こうしているだけで苦しいの」
「分かる、分かるよ」
本当は分かってなんかいない。僕は生きているから。
その乾きを理解することなんて出来ない。
出来やしないのだ。
「目が覚めたらとても暗かったの。自分の指さえ見れなかったの。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが暗闇なのか、私は私でいいんだろうか、私の記憶だけが自分の証なのに、それすら頼りなくて曖昧で、ずっと叫んでいた」
叫んでも誰も来ない時、ふと、ここから出なきゃって思った。
彼女は滔々と語る。
「手が上手く動かせなくて、手錠がかけられているんだって分かった。私は自由ではなかった。誰かが私を望んでいない証だと、そう思った。でも、必死に身体を起こしたの、重い、私を閉じ込めている箱の扉は、全力で押し上げると少し動いた」
そう、棺桶の扉を固定したりしない。僕らは死を拒否しない。
「ああ、土が零れてきたの。私は新しい、冷たい空気に触れた。辺りはとても明るくて、どこまでも見通せた」
起き上がった者達はとてつもない視力を発揮する。ほんの少しの星明かりで、どこまでだって見通せるのだ。
「どこまでも、どこまでも見通せたの……」
「そうか、そうか」
彼女は夢見るような虚ろな瞳を僕に向ける。君を見つけたよ、と呟く。
「私、帰ってきたの」
「分かっているよ」
「帰ってきたの……!」
ゆらり、と彼女は立ち上がる。尋常ならざる立ち姿、と村の先祖は死者達を表現していた。僕は初めてその意味を理解する。
この世の者とは思えないほど、彼女は壮絶な美しさを持っていた。死者だけが持つ美しさ。その瞳は恐ろしいほど澄み切っていて、あんまり濁りのないものだから、その眼の中に何かあるべきものがないんじゃないかと、そう思ってしまうほど。開き切った瞳孔に吸い込まれるよう。
僕はまた、意識がふっと持っていかれるような抗い難い感覚に飲まれかける。
かつて僕が愛した人。
死が僕らを引き裂いても、彼女はここに帰ってきた。
ああ。
彼女が僕を欲している。一歩、また一歩と近付いてくる。
ひやりとするその滑らかな腕が、僕の首に回された。くらくらするような死の香りを肺いっぱいに吸い込むと、耳元で、彼女がくすぐったそうに笑った。またこの声を聞けたこと、それがどんなに尊い奇跡か。
彼女の細い腰に手を回すと、彼女は僕の首筋にキスをした。背中の辺りで手錠が擦れる軽い音がやけに大きく響いた。木製のそれは軽く、強固だ。
そして、小さな痛み。世界を支配するような酩酊感。
頭の一番奥の方が稼働をやめた。首筋を何かが伝う。それが自分の血液であると、僕は気付けない。
これ以上の幸せがあるか?
例えこのまま、全てを吸い尽くされてしまおうとも……。
こん、こん。
これは、ドアを叩く音。
どこから?
彼女の華奢な肩越しに見える、僕の家のドアから。
誰かが外から叩いている。
こん、こん。
ほら、誰かが僕を呼んでいる。
最初、彼女かと思った。夜の森から帰ってくる時、彼女はこんなふうに、控えめにドアを叩いたから。
でも今、僕はその愛しい人を抱き締めている。
こん、こん。
少しずつ強くなっていくその音。
誰かは立ち去ろうとしない。彼女は恐れるようにはっと息を吐いた。
こん、こん。
「出て」
僕は何も考えていないはずなのに、自然と口からそんな言葉が零れていた。
「……え?」
「出て、くれる?僕は今、ごめん、立てない」
情けないことに、全身に力が入らないのだ。指一本だって動かせそうにない。
「で、でも、」
「出てくれるかな、大丈夫だから」
ああ。
あんな音、無視してしまえばいいのに。
そうしたらこの快楽は永遠に僕を包み込むのに。
それなのに、僕は頼んでしまった。これが答え。
何も言わずに彼女は僕から離れて、そっと口元を拭うとドアへ向かった。
「どちら様……?」
彼女の声が震えている。
「僕がいるんだから、怖がることはないんだよ」
椅子に座り込んだまま動けないくせに、僕は優しく勇気づける。
「そう、そうだよね、君のお客さんだもんね」
彼女は微笑んで、ドアの鍵を開けた。
「こんばんは、お嬢さん。今夜はとてもいい夜」
全てがスローモーションのように見えた。全ての動きが僕に僕を呼び戻し、命の輝きを伝えているように思えた。
彼女は思わず後ずさりをして、図らずとも客人を部屋に招き入れた。ランタンの灯りに、彼が振りかぶった大きな斧が照らされる。
「そんな……うそ、」
最後に見たのは、鋭く、必死に僕を振り返った彼女が浮かべた驚愕の表情。
僕は薄く笑う。
「コーヒー代、勿体ねぇし」
参加させて頂けて光栄です。
ハッピー(?)ハロウィン!




