道化師は砂糖菓子の夢をみる
その儚い女は、今日も窓の外を眺めていた。
そよ風が窓から入り、彼女の黒髪を揺らしている。彼女の黒髪は、誰よりも美しい。漆黒の髪は、上質な絹糸をすいたかのように背中まで流れていた。いや、美しいのは髪だけではない。黒髪の間からのぞく白い顔は、いままで見てきた誰よりも美しかった。
寂しげに潜められた眉も、悲しく潤んだ碧眼も、ぎゅっと結ばれた桃色の唇も、すべてが美しく整っている。
でも……その美しさは、触れてしまった途端に霧散してしまうような危うさを感じさせた。
「シャロン様、道化師が来ました」
僕がシャロンに見惚れていると、侍女の淡々とした声が横から聞こえてきた。慌てて緩んだ表情を引き締め、なんとか仕事の顔に戻したとき、シャロンは振り返ったところだった。
「まぁ、ヴァイス。今日も来てくれたのね!」
シャロンの少し嬉しそうな声色に、ちょっとだけ心が躍る。
「もちろんでございます、シャロン伯爵令嬢様。いやはや、貴方様は今日も美しい」
僕が深々と一礼してみせると、シャロンはくすりと笑った。シャロンの哀しそうな表情が崩れたことが、万雷の喝采を浴びるよりも嬉しかった。
「まぁ、お世辞はいらないわ。私、病気持ちだもの」
「いやいや、ご謙遜を。
某は東の帝国から西の王国まで、さまざまな王宮へ招かれてきましたが、シャロン様の右に出る美貌の持ち主はいらっしゃりませんでした」
僕は真実を語ったが、やはり世辞にとられてしまったのだろう。シャロンの表情は変わらない。むしろ、悪化していた。シャロンは少しだけ頬を膨らませると、どこか咎めるような口調で話し始めた。
「ヴァイス。何度も言うようだけど、それは失礼よ。
帝国の姫君のダンスは人の目を奪うほど美しいと聞いたことがありますし、この国の公爵令嬢なんて『三国一の宝石』と謳われるほど美しい方よ。
それに比べて、私なんて……ほら、手はボロボロだし、もう満足に立つこともできないもの。視力だって、どんどん……」
シャロンは言葉を重ねるたびに、表情を暗くしていく。
僕は慌てて――でも、慌てた様子など綺麗に隠して――おどけたように口を挟んだ。
「あぁ、シャロン様。貴方様は勘違いなさっている。
帝国の姫君はダンスこそお上手ですが、いかんせん。その眼は蛇のように細く鋭い。
公爵令嬢は確かに美しい宝石のような御方ですが、声が潰れた蛙のよう。
シャロン様、貴方の碧眼は深い森のように静かで柔らかく、声は小鳥のように優しく聴きやすい。あの2人にない美しさをお持ちではありませんか!」
僕はそう言いながら、胸ポケットから書状を取り出した。
「元気を出してくだされ、シャロン様。
ほら、ご覧になってください。某、エドワード・モンブラン侯爵閣下から書状をお預かりしてまいりました」
その途端、シャロンの顔が一気に華やいだ。頬は紅をさしたように赤く染まり、寂しげな碧眼に強い光が宿る。シャロンは、僕から受け取った書状を大切に抱きしめた。
「まぁ、嬉しいわ! ありがとう、ヴァイス」
「いえいえ、このようなこと容易いことでございます。
エドワード様は、しきりに『あぁ! 未来の妻、我の最愛の女性、シャロンを見舞いに行けず胸が痛い。道化ばかり見舞いへ訪れて、嫉妬のあまり心が張り裂けそうだ。仕事など放り出して、早馬で貴女の元まで馳せたいのに!』と口にしておりました」
僕がエドワードの声色や仕草を真似てみせれば、シャロンは耳まで赤く染まった。よほど恥ずかしかったのだろう。書状で顔を隠しながら、消え入りそうな声で
「あの人ったら……ヴァイスにそんなことを……他の人にも、そんな恥ずかしい言葉、みなさまに言いふらしているのかしら?」
と尋ねてきた。
僕は、知っている。シャロンは恥ずかしがりながらも、本当はエドワードの愛が嬉しくてしかたないということを――。
だから、僕は微笑んでみせた。
「それは、シャロン様のご想像にお任せします」
「いじわるね、ヴァイス。本当のことを話して頂戴?」
「おや、言ってよろしいのですか? そうですね、昨日はギース将軍の夜会で、シャロン様のことを――」
「いや! やっぱり、やめて! 聴きたくないわ!!」
シャロンは、子どものように耳を塞いだ。
「分かりました、それでは止めましょう」
「……えっ?」
僕が話を止めようとすれば、シャロンは不満そうに顔を歪めさせた。なんやかんや恥ずかしがりながらも、やはり聴きたかったのだろう。僕は「冗談ですよ」とおどけると、懇切丁寧になにが起きたのか身振り手振りで演じてみせた。シャロンは「いや!」「もう、エドワード様の口を縫いつけたいわ!」など恥ずかしがりながらも、口元は笑っていた。彼女の儚い雰囲気は変わりないが、僕の演技を見ている間、シャロンは病気を忘れたかのようだった。
しかし――その楽しい演劇の時間も、いずれ幕を降ろさなければならない。
西日が差し込み始め、僕の帰る時間が近づいたころ、シャロンの顔から笑みが消えた。
「ねぇ、ヴァイス。私ね、そう長くないと思うの」
シャロンは窓の外を見つめながら、ぽつりと言葉を漏らした。
「誰も教えてくれないけど、自分の身体のことだもの。きっと、長くないわ」
唐突の告白に、僕は一瞬、ほんの一瞬だけ色をなくした。
もちろん、すぐに道化の仮面を被りなおしたのだが、シャロンに見破られてしまったらしい。
「たぶん、冬は越せない」
シャロンは、枯葉が風に舞い落ちていく様子を眺めている。その横顔は、ひどく哀愁を帯びたものだった。僕は声を張り上げ、おどけたように、だけど真摯に言葉を伝える。
「なにをおっしゃいますか、シャロン様!
弱きになってはなりませんぞ? シャロン様がお亡くなりになられたら、エドワード様が大変悲しみになられます!」
「そうね、あの人が悲しむわ」
シャロンは小さく呟いた。さきほどまで彼女の碧眼は寂しげな色を帯びていたが、生き抜こうとする光が戻っていた。夕暮れ時の光を浴びて、シャロンの姿は淡い橙色に輝く。僕は美しさに、つい我を忘れて見入ってしまった。
「神様」
そんな僕の様子にシャロンは気付かず、静かに祈りの言葉を告げ始めていた。
「神様、どうかエドワード様の お仕事が、無事に終わりますように。
彼が再び会いに来てくれるまで、私の命が尽きませんように」
神に願うのは、エドワードへの愛。
エドワードから届いたと信じる手紙を握りしめて、愛する者の無事を祈る。
その横顔は陽光に照らされ、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「……シャロン様」
シャロンは信じている。エドワードのことを、欠片も疑っていない。
いや、疑ってしまったが最後、彼女は生きる支えを失ってしまう。
「シャロン様が望むのであれば、エドワード様を連れて来ましょうか?」
「いいのよ、ヴァイス。エドワード様は忙しいし……それにね、こうして待っている時間も好きだもの。
だって、たくさん待てば待った分だけ、再会した時の喜びが増すじゃない?」
シャロンは、僕の手を握る。シャロンの手は、どの貴婦人よりも柔らかい。そして、ほんのり甘い香りが漂ってくる。たぶん、これがシャロンの香りなのだろう。あぁ、この柔らかさも甘い香りも、あと少しで失われてしまう。そう思うと、余計に彼女の生きている間――一瞬、一秒を大切にしなければならないという使命感に駆られた。
「かしこまりました、シャロン様。それでは、2人でエドワード様がいらっしゃる日を待ちましょうか」
「そうね、ヴァイス。……貴方が来てくれて、本当に楽しかったわ。いつも、ありがとう」
彼女が死んでしまったら、こうして自分に笑顔を向けてくれることはない。
だから、僕はシャロンを生き続けさせるために、エドワードのふりをして手紙を書き続ける。
「お褒め預かり光栄です、シャロン様」
そのために、愛する人を欺くことになっても。
※
「ちくしょーが!!」
僕は蜜色に染まった王都を歩きながら、おもいっきり石を蹴り飛ばした。
「……シャロン様、本当にエドワードの馬鹿侯爵のことが好きなんだな……」
僕は、エドワードの顔を思い浮かべる。
シャロンは、エドワード・モンブラン侯爵の婚約者候補筆頭であり、エドワードの寵愛を1番受けていた。
そう、受けていたのだ。
エドワードは、シャロンが不治の病にかかり、もう治らないと分かった途端、シャロンの見舞いを一切しなくなった。さまざまな夜会を渡り歩き、見目麗しい令嬢を侍らせている。僕が夜会でエドワードを見かけるたびに、おどけたふりをしながら『一度、シャロン様を尋ねてはどうです?』と促してみる。でも、エドワードは取り合ってくれない。それどころか『あいつがいるせいで、他の令嬢と結婚できない。下手に婚約破棄を告げに行って、シャロンの病に感染したら嫌だし、お前から上手く伝えておいてくれないか?』と逆に頼まれる始末。
「あー、もう! なんで、あんな男がモテるんだよ!! 顔か!? 家柄か!?」
僕は、だんだんイライラしてきた。
どうして、シャロンは家柄と顔だけが取り柄の男に惚れているのだろう。僕の方が、絶対にシャロンを愛している。いっそのこと、夜中にシャロンをさらってしまおうか? と邪な考えが脳裏を横切る。でも、そんな考えはすぐに萎んでしまった。
「でも……顔は変えられないし、道化師が伯爵令嬢を幸せにできるわけがない、か」
僕がシャロンにしてあげられることは、せいぜい「エドワードからの書状」を偽造することと、エドワードの様子を虚実交えながら演じることだけだ。でも、それだけでは限界に近い。
『神様、どうかエドワード様のお仕事が、無事に終わりますように』
そう言いながら祈る横顔は、酷くやつれていた。
もう彼女の支えは、エドワードだけなのだ。もっと彼女を喜ばせるためには、どうにかしてエドワード本人を連れて来るしかない。
だから――今日という今日は、はっきり「シャロンが待っている」と言ってやろう。その覚悟を決めて、夜会の席へ入り込んだときだった。
「大変だ! エドワード・モンブラン侯爵が落馬して、お亡くなりになったらしいぞ!」
最悪な知らせが、夜会を駆け巡っていた。
僕は仕事も忘れ、その場に突っ立ってしまった。最悪の事態に、僕の目の前は暗くなる。
シャロンは、エドワードのことだけを頼りに生きながらえている。
でも、そのエドワードが死んでしまったら?
シャロンの死期が、早まってしまうかもしれない。シャロン自身、「どうせ長くない命なのですから、エドワード様に殉じます」と命を絶ってしまう恐れもある。僕の背中に、冷たいモノが流れた。
「そんなの、絶対にダメだ。なんとかしなくちゃ、なんとか……なんとか、エドワードを生き返させないと!」
「それは無理だ」
ふと、耳元で嘲笑うような声が聞こえた。
僕が顔を上げると、そこには黒い男が立っていた。
「死んだ人間は、生き返らない」
黒い。どこを見ても黒い。髪の毛も、コートの色も、手袋も、眼鏡も、なにからなにまで黒一色で、その隙間から覗かせる肌の白さを浮き立たせている。
「お、おまえは……!?」
誰だ? と問おうとしたとき、口の端から覗いた鋭い牙が視界に飛び込んで来た。
これで、相手の正体が分かった。僕は、ごくりとつばを飲み込む。
「吸血鬼、か?」
僕が尋ねると、男は口元の笑みを広げた。
その怪しげな笑みに、僕は男と距離をとることにした。ゆっくり、ゆっくりと後退りする。しかし――
「不躾な呼び方だ。だが、誤りではない。我は不死の王、血の伯爵、そして……まぁ、呼び名などどうでもよい。
さて、我は散歩をしていた。すると、貴様の戯言が耳に飛び込んで来た。だから、やって来た。それだけだ」
吸血鬼は、じりじりと距離を詰めてくる。
僕は、ひたすら吸血鬼を一時的にでも無効化して逃げる方法はないかと考える。なにしろ、吸血鬼の弱点は多い。十字架やにんにく、聖水を掲げれば近づいてこないだろうが、あいにく手持ちにない。吸血鬼は陽光を浴びれば皮膚がただれ、死に至ると聞いたことがあった。しかし、もうすっかり日が暮れてしまっている。太陽の光にも、勝機を見出せそうにない。
「戯言だって?」
僕は会話を続けながら、じりじりと後退を続けた。
残された弱点のなかで、僕がすぐに実践できるものは1つだけだ。
吸血鬼は、川や海、堀を渡ることができない。この習性を利用して、逃げればいい。僕は近くの小川を思い浮かべながら、懸命に逃げる道を模索する。小川を越えてしまえば、吸血鬼は追ってくることができないだろう。
でも、物事は思い通りに進まない。
「逃げようと考えるよりも、だ。
まずは、なぜ貴様に我が話しかけたのかを考えるべきだ」
吸血鬼は、僕の考えを見破ったかのように話しかけてきた。僕は、少しでも己に訪れる死を回避しようと、吸血鬼への返答を考える。
「……それは、僕の血を吸いたいからだろう?」
「3点」
吸血鬼は、僕の答案に点数をつけてきた。
それも、限りなく低い点数を。僕は吸血鬼を軽く睨みつけながら、次の回答を探す。
「……なら、お前は僕に憑いて、夜会へ忍び込む気か?」
吸血鬼は、「家人に招かれない限り、その家に入れない」。
だから、夜会に吸血鬼が現れるときは、どこかの貴族に乗り移って紛れ込む。僕は、そこそこに人気のある道化師だ。こじんまりとしたホームパーティーから、王族が主催する公式な夜会まで呼ばれている。ぼくに憑くことが出来れば、王族の血を吸うことだって可能なのだ。
「20点。まだ赤点だ」
吸血鬼は、つまらなそうに言い放つ。
僕に憑くことが目的とはいわず、血を吸うことでもない。ならば、いったい何が目的なのだろうか。僕には、これ以上の回答を想像できなかった。
「ふむ、それではヒントを出そう。
貴様が出入りする場所は、夜会だけか?」
「いや、そんなわけ――……まさか!!」
僕が出入りする場所は、主に3つ。
1つ目は、当たり前のようだけど自宅。
2つ目は、これも当たり前だけど夜会。
そして、3つ目は――
「化け物め! 貴様、シャロン・ベルジュラック伯爵令嬢の血を吸うつもりか!!」
その考えに至った瞬間、僕の理性が弾き飛んだ。
僕は胸ポケットから拳銃を取り出すと、吸血鬼の眉間に向けた。
吸血鬼の心臓を止めるためには、銀の弾丸で撃ち抜くしかない。僕の銃身に詰められているのは、なんの変哲もない鉛の弾だ。それでも、さすがに脳を木っ端微塵にすれば逃げるだけの時間を稼ぎ、シャロンが吸血鬼に狙われていることを誰かに伝えることができるだろう。
「くたばれ、化け物!!」
僕は、引き金をひく。
地を揺らす破裂音のあと、僕は反動で大きく仰け反るはめになった。吸血鬼の口より上は吹っ飛び、紅い大輪の華が咲いていた。
「よし!」
いまのうちに、走ろう。小川は、目と鼻の先だ。全力で走れば、3分で川を越せる。僕が駆け出そうとしたときだった。吸血鬼の身体から飛び出してきた蛇が、僕の足に絡み付く。僕の足はもつれてしまい、情けなく転んでしまった。
「困るな」
吸血鬼の半壊した口が動く。
僕が振り返ると、すでに右目のあたりまで元通りに修復されていた。
「脳は複雑なのだ。治すのが難しい」
さして苦労している様子も見せずに、吸血鬼は淡々と語る。僕は再び銃口を吸血鬼に向けようとしたが、蛇の尻尾が僕の手を強打する。僕は、銃を落してしまった。
「別に、シャロン・ベルジュラック伯爵令嬢の血を吸いに行くわけではない。
三国一とまで謳われる美貌を拝みたいと思ったことはあるがな」
「嘘をつくな! シャロン様の血を吸うつもりだろ。血を吸って、吸血鬼にするつもりだな、化物!!」
「嘘ではない。ふむ……そもそも、君は我々を誤解しているらしい」
吸血鬼は血濡れた頭を右手で撫でながら、しゃがみ込んだ。
「我らの吸血とは、人間にとっての食事であり、一種の快楽だ。それ以外の何物でもない。
だから、血を吸ったところで、その相手が吸血鬼になることはない。せいぜい、干からびて貧血になるくらいだ」
吸血鬼は僕と視線を合わせながら、静かに語りだす。僕は「シャロン様が貧血にでもなられた日には、それこそ彼女は死んでしまう」と訴えようとしたのだが、話そうとした途端、猿ぐつわをはめられてしまった。おかげで質問もすることが出来ず、ただ吸血鬼を睨みつけることしか出来ない。
「だが、その逆は『人間の死』を意味する。
我らの血は猛毒だ。たった一滴、口へと流し込むだけで、その末路は生ける屍」
吸血鬼は、ナイフを取り出した。
鋭利なナイフは、忌々しく歪んだ僕の顔を映し出していた。
「しかし……稀に毒への耐性を持つ人間もいる。その人間は、吸血鬼へと変貌する。
二度と太陽の下を歩けない代わりに、夜の王として君臨することが出来る」
吸血鬼は、ナイフで白い指を傷つけた。
傷口からは血が滲み、ぽたり……ぽたり……と地面に滴り落ちる。暗闇に包まれているというのに、その赤い色だけは不自然なくらい浮き立って見えた。僕は、ごくりと唾を飲み込む。
なんて、鮮やかな色なのだろう。
「蛇や狼を眷属とし、生ける屍を操り、自由自在に姿を変え、弾丸を受けても再生する強靭な肉体を持った存在――それが、我々。君曰く、吸血鬼だ」
吸血鬼から流れ落ちる液体が、魅力的に輝いている。
けっして、彼の言葉に惑わされたわけではない。むしろ、彼の言葉は胡散臭くてたまらなかった。でも、身体の芯から欲している。あの、甘くて美味そうな吸血鬼の血を。これは、僕の目が、感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
僕は……吸血鬼に、惑わされているのだろうか?
「よろこべ、道化師。おまえを吸血鬼として認めてやろう。
お前が我らが一員になれば、容易に夜会や貴族の館で血の晩餐を行うことができるしな。
さぁ、遠慮することはないぞ。この血を飲むが良い」
「ぐ、こ、断る。僕は、人間だ!」
吸血鬼の指に飛びつきそうになる意志を抑えこみ、なんとか拒否の言葉を口にする。
「そうか、残念だ」
吸血鬼は蛇のように赤い舌を動かしながら、大仰に笑っていた。
「吸血鬼は、己の姿を自由自在に変えることが出来る。お前も吸血鬼になれば……」
吸血鬼は裂けた口を僕の耳元に近づけると、ねっとしりとした声色で呪いの言葉を吐いた。
「エドワード・モンブラン侯爵に変身することが出来るのに」
※
僕は、吸血鬼になった。
エドワード・モンブランに変身して、シャロンを励ますために。
それから、5か月が経過した。
吸血鬼の血を舐めてからも、僕の仕事は変わらない。
基本、僕の仕事は夜だ。貴族様方の主催する夜会やホームパーティ、サロンパーティーで、僕は狂言回しの道化をする。そこに、こっそり吸血鬼仲間を招き入れることなんて、貴族を騙すより簡単だった。夜会に招かれた吸血鬼たちは、酔った貴族を中心に血を吸う。貴族の中には血を吸いすぎて倒れたり、血を吸おうとして悲鳴をあげたりした奴もいたが、基本「酔ったんだろう? 飲み過ぎるなよ」で終わり、血を吸われた本人も「そうか、そうなのかなー」程度で終わった。だから、たいした騒ぎにはならない。
大きく変わったのは、シャロンを訪ねる時間帯だった。吸血鬼になってから、太陽の光を浴びると肌が焼けるように痛んだ。だから、日傘をさして夕方に向かう。おっかなびっくり夕暮れ時の道を歩きながら、シャロンを励ましに向かうのだ。
シャロンは、まだエドワードが死んだことを知らされていない。
屋敷内には箝口令が敷かれ、だれも「エドワードが死んだ」と口にしない。どうやら、彼の生死が彼女の容態に関わってくると判断したのは、僕だけではなかったらしい。だから、僕が届ける「エドワードの手紙」も黙認されていた。そう、まだ手紙なのだ。「エドワードに変身する」と言うのは簡単だが、実際は細胞からなにまで1から変身しなければならない。その過程は苦痛極まりなく、全身を針で刺されているような痛みを感じるのだ。なので、僕は僕の姿のまま、毎日見舞いに訪れていた。
「でも、その苦労も終わる」
僕は、自信満々にシャロンの寝室をノックする。
5か月経過して、僕はエドワード・モンブランに変身することが出来るようになった。
もともと、道化師としてエドワードの声色や性格はマスターしている。きっと、誰が見ても「エドワード・モンブラン侯爵」以外の何者でもない。僕はエドワードに完璧な変身すると、シャロンの部屋をくぐった。
「あぁ、待たせて申し訳ない! 麗しのシャロン!!」
「その声は……エドワード様っ!?」
シャロンの声が弾む。
僕に聞かせたことのない色合いの声に、ちょっと嫉妬心が芽生えた。
「本当に、エドワード様?」
「他の誰に視えましょうか? エドワード・モンブラン、御側せながら参上いたしました、我が愛しの姫」
そう言いながら、シャロンの細腕を手に取る。シャロンの腕は、枯れ木に布をかぶせたように痩せてしまっている。これは、もう先が長くない……そう考えると、胸が痛くなった。
「エドワード様、ふふ……私を迎えに来てくれたのね」
シャロンは優しく呟くと、手を重ねてきた。
「私、知ってるの。あなたが、もう死んでしまっているということ」
「な、なにを言っているのだ、シャロンよ?」
「私の目はね、ほとんど視えないの。でも、代わりに耳は良くなったの。だからね、侍女の話が聞こえてくるのよ……もう、エドワード様が死んでしまったってことを」
僕は驚きのあまり、何も言えなくなってしまっていた。シャロンは、知っていた。エドワードが既に死んでしまっているという事実を、すでに知ってしたのだ。でも、そんな様子を微塵も見せてこなかったはずだ。昨日だって、エドワードの手紙を嬉しそうに受け取り、喜びの言葉を送ってくれたはずだ。
「私ね、最初……あなたに殉して死のうと思ったの」
シャロンは、静かに言葉を続けていく。
「でもね、貴方が死んでからも手紙が届いたのよ。ヴァイスがね、代筆してくれていたの。私のために、毎日……毎日」
シャロンの頬に、赤みがさしているのは気のせいだろうか。
暗闇の中、うっすらと紅く色づき始めていた。なぜ、エドワードではなく、自分の話になるのだろうか。なぜ、せっかく想い人が現れたというのに、別の男のことを語るのだろう。
「ごめんなさい、エドワード様」
シャロンの唇が、小さく揺れる。
「私ね、ヴァイスに恋してしまったの。私には、貴方がいるのに……」
次の瞬間、僕はシャロンに抱きついていた。
エドワードの姿のまま、僕のことを「恋している」と断言してくれたシャロンを。
「……シャロン」
抱きしめたとき、鼻孔を甘い香りがさすった。シャロン自身の香りと、そして彼女の中に流れる甘い血の匂い。僕は匂いに顔を埋めていると、彼女の白い首筋が目に入った。その病的なまでの白さが美しく、とても儚くて、寂しい気持ちが胸に膨らんだ。
「シャロンは、まだ生きたい?」
この首筋に噛みつけば、彼女は吸血鬼になる。
そうすれば、きっと病気が治る。僕のことを好きだと言ってくれた女性と一緒に、永遠の時を生きることが出来るのだ。
「僕が力を使えば、ヴァイスと一緒に永遠に生きることが出来るんだ」
僕は、貴方の血が欲しい。
僕は、貴方に血を流しこみたい。
僕は、貴方を吸血鬼にしたい。
同じ吸血鬼として、永久に夜の世界を生きていこう。そうすれば、僕も愛しい人と一緒に居られるし、シャロンも恋した男と末永く暮らすことが出来る。僕は細くて折れそうな体を抱きしめながら、シャロンの返答を待つ。シャロンは、驚いたように目を開けて、そして壊れそうな微笑を浮かべた。
「ごめんなさい、エドワード様」
それは、拒否の言葉だった。
「人はね、いつか死ぬものよ。だからね、恋をするの」
シャロンは語る。
その声が、ひどく遠くで感じる。
「死ぬと分かっているからね、世界が明るく感じるの。なんでもない葉っぱの緑も、あたりまえの空の青さも、すっかり枯れてしまった葉っぱであっても、本当に一瞬、一瞬がね、とても恋しく感じるのよ。
だからこそ、その一瞬一瞬の命を大事に想ってくれるヴァイスに……私は恋してるのだと思う」
きっと永遠に未来を生きていくとなったとき、ヴァイスを好きでいられる自信がない。
なんて、傲慢な告白だろう。なんて、残酷な別れの言葉なのだろう。僕は、「そんなこと、嘘だ!」と証明するかのように、首筋に牙を突き立てる。僕は、シャロンを愛している。シャロンも、僕を愛している。エドワードよりもずっと、ずっと2人は愛し合っているのだ。ならば、このまま2人で吸血鬼として永遠に生きる道を選べば、きっと永久に幸せなのに。
そう、幸せなのに……
「私は、永遠なんて欲しくないの」
人間は、吸血鬼を拒絶する。
僕を見つめる意志の強そうな碧眼が、儚げな印象まで吹き飛ばしていた。それは彼女の本心で、きっと、僕が真実を告げても拒絶される。
気がつけば、僕の頬を一筋の涙が伝っていた。その涙に気付いたとき、僕はシャロンの首筋から牙を放していた。
「分かったよ」
僕は、シャロンが好きだ。
美しくて、優しい。彼女が笑うと、冷たい心が温かくなる。くらりとするような甘い香りに、優しい心。そして、ひどく壊れやすい脆い体を持つ貴方は、まるで砂糖菓子だと思う。でも、彼女は砂糖菓子のような心と身体だったが、瞳だけは違った。吹けば飛んでしまうほど儚い命なのに、強い意志を感じさせる。その碧眼の奥には、揺るがない信念のようなものが宿っているのだ。
貴方が恋した相手は、最初にエドワード。彼相手では、道化師程度が敵う相手ではなく、次に彼女が恋した相手は人間の道化師。これも、永遠を生きる吸血鬼では相手にならない。
どんなに努力しても、どれほど貴方を愛したとしても、僕はシャロン・ベルラジュックを手に入れることが出来ない。
どこまで行っても、僕にとって儚い砂糖菓子は尊い高嶺の花だった。
あぁ、そんな彼女の尊さに、僕は惚れていたんだ。
だから、無理やり永遠を押しつけることはできない。そんなこと、きっと彼女は望まない。彼女が望まないなら、僕は消えるだけだ。僕は涙を軽く拭うと、シャロンに微笑みかける。
「さよなら、シャロン」
それは、別離の微笑。
二度と恋が叶わないと、いや、叶えてはならないと固く誓う別れの笑み。
「ありがとう」
僕は、明日も貴方への愛を隠しながら、エドワードからの手紙を届けよう。
貴方の恋心を知らないふりをして、貴方が恋する道化師を演じ続けよう。次の日も、その次の日も、貴方が朽ちて果てるまで、僕は夕暮れ時に尋ねるのだ。貴方と過ごせる一秒一秒、一瞬一瞬を大切に過ごせば、近い未来で貴方が世界から消えてしまっても、惜しくはない。僕のなかには貴方との想い出が残っている。それで十分だ。
吸血鬼は貴方が恋した世界で、砂糖菓子の夢をみる。
彼女と過ごした日々は、きっと美しく愛おしい夢になるだろう。永遠の時を夢に耽るなんて、馬鹿な道化師かもしれないけど、それでもかまわない。だって、幾億もの昼と夜が過ぎ去ろうとも、この想いが色褪せることなんてないはずだから。
永久に。
作者:寺町朱穂




