Halloween Night
作者:たこやきいちご
吸血鬼と狩人、永遠の追いかけっこを題材にしてみました。狩人が獲物を追いかけるのは当然として、吸血鬼だって狩人に追いかけて欲しいんじゃないのかな……と。
彼ら、基本、暇ですからね。
おたのしみいただければ幸いです。
こつこつと杖の先で雨に濡れた石畳を歌わせながら、青年は、夜なお明るい華やかなコヴェント・ガーデンの一角、キングス・ストリートを東向きに、軽やかな足取りで家路をたどっていた。
舞台が始まる前に降っていた雨はすでに止み、薄曇りの空、雲の切れ目からは、ときおり、猫の瞳のような三日月が顔を覗かせている。
十月も終わりに近い夜、雨上がりの風は身体に冷たくまとわりつくようで、上着がなければ凍えてしまう。
ロイヤル・オペラ・ハウスにほど近いその場所には、今宵の舞台を堪能し、余韻を楽しむべく遊歩する紳士淑女のさざめきと、帰宅を急ぐ馬車の轍の音で騒然としていた。
その喧噪のなか、ひとり歩みを進める青年は、すこしばかり周囲の風景から浮き上がっているように見える。
襟の折り返しの艶も美しい漆黒の燕尾服に、白蠟の如き蒼冷めたウィングカラーのシャツ。
シャツと揃いの白のタイ、ダブルブレストのウェストコート、鍔の反りも美しいシルクハット、白真珠のカフリンクス、白の革手袋。
象牙の握りのついた黒檀の杖を持ち、一点、鮮やかな深紅のポケットチーフを胸に飾ったその姿は、非の打ちどころなく貴顕紳士そのものだ。
しかし、端整でありながらもどこか野性味のある鷲の如き顔立ちは青年のものであったが、その表情には、年老いた達観が染みついていた。
痩せてはいたが精悍な身体つきとは印象を異にする蒼白い肌、不自然なほど紅い唇。
彼の不自然さを敢えて形容するならば、貴族的な装いの内側に秘められた、見る者の魂を密やかにおののかせる違和感……と、言ったところだろうか。
おりしも、彼を追い抜こうとした馬車馬が、突然、首を大きく振って蹈鞴を踏み、御者を慌てさせていた。
むろん、御者は馬がなにを嫌がっているのか、気づかなかっただろうが。
「げにも御しがたきは太古の野生……それに引き替え、人間ときたら」
だれに語るともなく呟いたその唇の端に覗く、月光に曝された骨の如き皓い牙。
*
彼の屋敷はパーフリートにあった。
二十年ほどまえ、初めてイギリスを訪れたとき、居を構えた場所である。
ロンドンの中心地、シティからは十二マイルと、ずいぶんと離れた場所であったから、いまにして思えば、少々、不便な場所だ。
不便ではあっても、そのぶん閑静で人の目を気にせずに振る舞えたから、青年はその場所を最初の棲処に選び、購入したことを後悔してはいない。
余談ではあるが青年の外見から言って、二十年前の彼はまだ幼年学校に入ったばかりだったはずだが、『青年がその場所を最初の棲処に選び、購入した』のは間違いではない。
なぜなら、青年は二十年前からまったく老いていないのだ。
二十年前の彼を知る者が、いまの彼を見れば、その、まるで老いていない……むしろ若返ってすら見えるようすに驚くことだろう。
もっとも彼の素性をよく知る者にとっては、さもありなん、頷くばかりだろうが。
そう……彼は、本当の意味で老いることがないのだった。
時として、老いて見せることもありはするが。
ともあれ、彼の今いる場所からパーフリートの屋敷まで、普通の若い男性の足で歩いて四時間。
どこかで馬車を拾わねばならない。
『すこし薹のたった雌馬なら、暴れることもあるまい』
人間に馴染んだ動物は、感覚も人間に近くなるものか……異質なものに対して鈍くなることが多い。
経験に照らして、そう思う。
「飛べば、小半時もかからないが……そう急ぐこともない」
歌うように呟いて、小刻みに杖を振って耳に残る楽曲の、切々と哀しい小節を石畳に刻む。
すこしばかり散策を楽しみたい気分だった。
『永久に君を想う』……婚約者の青年みずからの手で胸に杭を打たれるうら若き乙女……その場面で流れていた曲だ。
主旋律は、胸掻き乱す官能的なヴァイオリンの調べ。
今夜の、あの演奏者はよく分かっていた。
死をもたらすことは、究極の愛を与えることに等しい。
そう……『彼女』は、我が愛を捧げる相手として、悪くはなかった。
容姿の美しさ、物腰の優雅さは彼女の血の高貴さにふさわしいものだったし、感情の起伏の激しいところは私の好みに合っていた。
甘やかされて我が儘に育った彼女を組み敷いて、その魂を征服し尽くしたときの高揚……満ち足りた人生とは、ああいう瞬間のことを言うのだろう。
願わくは『彼女』にとっても、私との交歓の時が、彼女の短かった人生において最良のひとときであったことを。
「今夜、『彼女』を演じていた女優の演技は、いささか物足りなかったが……まあ、いい」
楽屋に花束を届けるついでに味見した彼女は、演技の拙さをおぎなってあまりある、その若さにふさわしい華やかで芳醇な味わいだったのだから。
今宵のロイヤル・オペラ・ハウスの演目は、『Dracula』。
一八九七年、ヘンリー・アーヴィングの主演で当たりを取って以後、十五年間……アーヴィングが一九0五年に急死してからも役者を変え、演出を変え、定期的に上演される人気の演目であった。
*
キングス・ストリートの脇道をふたつ抜けて、寂れた街路で客待ちしていた馬車をつかまえた青年は、まだ夜が浅いうちにパーフリートにあるカーファックス屋敷に帰り着いた。
石造りの古い廃屋は、彼が二十年前に購入してからというもの、人を使ってときおり手を入れているのだが……どんなに改修を重ねても、長い歳月の重みに耐えかねるように、その古びた佇まいを拭い去ることができずにいる。
すなわち、現在も購入当時とさして変わらぬ廃屋の味わいを堪能できる屋敷、と言うわけだ。
「このさい、建て替えたほうがいいのだろうか? 地下室をいまよりも広く取って、地上の間取りも今風にして……窓は今のまま、少ない方が好ましいが。……どう思う? レンフィールド」
背後に馴染みの人の気配を感じて、青年は声を掛けた。
「どう思うもなにも、無駄な努力じゃないですかね、旦那さま。このあたりときたら、川のそばの低地だもんで年がら年中湿気が酷くて、地下室なんざすぐに黴だらけになっちまうし……それにどうせまた、ひとつきかふたつきで追い出されるのがオチなんですから」
青年の背後で、厩のそばの薪小屋から持ってきたものだろう、暖炉用の薪を抱えた男が、そう言って諦めたように溜息を吐く。
よいしょとばかりに薪を肩に担ぎなおし、屋敷の古びた玄関を片手で押し開けて「お帰りなさいまし、旦那さま」と、男はずいぶん略式ではあったがお辞儀をしてみせた。
青年に『レンフィールド』と呼ばれた男は、十年ほど前に青年がホワイトチャペルの塵溜めのそばで行き倒れていたところを拾ってきたのだ。
男の本当の名は、ドナルド・フレミングだかドーン・フレディだかドミニク・フロイだか言うのだが……「私の従者なのだから、おまえは『レンフィールド』だ」という青年のひとことで、男の呼び名はレンフィールドに決まってしまった。
男にしても死にかけていたところを助けてくれた命の恩人であり、かつ衣食住を与えてくれる有り難い雇用主の青年が、自分のことをなんと呼ぼうと構わなかったから、敢えて訂正していない。
ものごころついた頃に親に売られ、煙突掃除から始まって船荷の積み卸し、船の石炭夫、どぶさらい、物乞い……あまりいい人生を歩んでこれなかった元の名に、それほど愛着があるわけでもなかった。
気になることと言えば、レンフィールドはたぶんファミリーネームのほうだから、ファーストネームはなんだろう……ということくらいだ。
「旦那さまのご指示どおり、荷造りは済ませました。……で、今回はどちらに出国なさるんで?」
玄関広間の脇にある暖炉のそばに薪を積み上げ、「どうなさいますんで?」とばかりに、主のほうを振り返った。
石造りの室内は締め切っているというのに骨まで染みる寒さで、屋敷の建つ土地柄のせいか湿気が酷い。
主は暖房など要らないと言うが、湿気で黴びた壁を掃除するのはレンフィールドの役だったから、レンフィールドはすこしでも黴取りの掃除をしなくて済むように、毎日せっせと炉の世話をして部屋を暖め、屋敷の湿気を暖炉から追い出している。
だいたい以前、主が南米を旅したときに、気紛れに拾ってきた血吸コウモリだのアルマジロだのを屋敷で飼っているものだから、今夜のような雨上がりでいつも以上に冷えそうな夜には、室内の保温に気を遣う必要があるのだ……
「当面必要のない荷物は馬車に積み込んでおくように。行き先はまだ決めてはいないが、十一月一日にイギリスを発つ」
杖を置き、シルクハットを帽子掛け引っかけながらの素っ気ない返事に、レンフィールドはふたたび溜息を吐く。
「そんなのんびりしたこと仰ってなさると、また押しかけてきますよ……まあ、それも旦那さまにとっちゃ望むところなんでしょうがね」
また旦那さまの悪癖が出たか……やれやれと肩を竦めはするが、所詮、レンフィールドは従僕に過ぎない。
これ以上の抗弁は禁じ手だ。
「それはそうと、今夜は遅いお帰りでございましたね。てっきり次の行き先の旅券の手配でもなさってるのかと思ってたんですが」
いろいろ思うところはあっても、充分な生活の糧を与えてくれてなおかつ、それなりに好き勝手をさせてくれるこの主のことを、レンフィールドは慕っていた。
「いまロイヤル・オペラ・ハウスにかかっている舞台を観てきた。あとは……食事だな。そうそう、明日の昼、ヤードの連中が屋敷の近くの川に沈んだ乗合馬車と御者の死体のことで聞き込みに来るかも知れない。事件にせよ事故にせよ、私のあずかり知らぬことだから、いつものとおり、適当にあしらっておいてくれ」
カフリンクスとタイをはずし、青年は普通ならば主人の部屋のあるはずの上階ではなく、地下へ通じている階段へ足を向けた。
「あとは頼む」
レンフィールドの応えも確かめずに、青年は地下へと姿を消した。
主の後ろ姿を見送りながら、レンフィールドは神妙に頭を垂れ……いつものとおり、気にしないことにした。
彼の主が、屋敷ではぜったいに食事をしないこと、昼間は地下室で……なぜか悪趣味なことに柩の中で眠っていること、十年前初めて会った時から、まるで歳を取ったように見えないこと……気にし始めれば切りがない。
「しかし旦那さまももの好きな方だね。ご自分がいつもやっつけられる舞台をご覧になって、なにが楽しいんだか」
レンフィールドは舞台を観たことはないが、聞くところによるとその物語では、彼の主人は非常に邪悪な、人間ですらない怪物として描かれているというではないか!
しかもその舞台の原作本は、主人を実際に知っている人物が、主人をモデルにして書いたとも聴く。
よくもまあそんな酷い話を名誉毀損で訴えもせずに野放しになさっているとは……旦那さまはつくづく、もの好きで寛大な方だと思う。
*
そう……レンフィールドの主の名は、ドラキュラ、と言うのだった。
異国の……オーストリアの爵位を持っていて、たしか「伯爵」だったはずだが……レンフィールドは青年みずから、この称号を用いたところを見たことはなかった。
いつのことだったか、独り言のように「我が来歴は、ハプスブルクの血よりもよほど古いのだよ」……そう呟いていたことをレンフィールドは覚えているが、それがなにを意味するのかは、彼には分からなかった。
*
十月最後の日
朝から降り続いていた霧雨は、昼には土砂降りになり、万聖節の前夜祭……ハロウィンのお祭り気分を殺いでしまっている。
厚い雨雲に塗り込められた薄暗い昼下がり。
パーフリートのカーファックス屋敷はその、折からの土砂降りの雨に降り込められ、古びた廃屋の佇まいをいつも以上に際立たせて、ひっそりと静まりかえっていた。
*
土砂降りの雨音に紛れて馬の蹄の音がし、屋敷の近くで止んだ。
乱暴に屋敷の玄関を押し開け、ばたばたと室内に走り込む複数の足音。
さほど時を置かず、派手な音を立てて居間の扉が開く。
椅子に深く腰掛け、あかあかと燃える暖炉を横目に、退屈そうに本をめくっていた青年は、突然、部屋に駆け込んできた闖入者に、ちらりと目を遣った。
闖入者は、一見して二十歳になるかならずかといったところの娘であった。
身に纏う暗紅色の外套からも、結いまとめた栗色の髪からも雨の雫が滴り、足許に水たまりができている。
彼女が雨に祟られ、たまたま目に留めたカーファックス屋敷に雨宿りを請うために訪れたわけではないことは、一見して分かる。
理知的な蒼灰の瞳に宿る意志の煌めき。
手にはファブリックナショナル社の自動拳銃、ブローニングM1900を構えている。
対して、青年は黒のスラックスにサスペンダー、糊の効いたワイシャツ姿。
ワイシャツの袖口はカフリンクスで留めないままで、ずいぶんと寛いだ格好であった。
当然ながら、身に武器など帯びてはいない。
「どうしてあなたがここに居るの!」
たっぷりと非難の響きのする娘の言葉に、青年は深く溜息。
「……ここは私の所有する屋敷で、しかもこんな土砂降りの日に出歩くのは、君以外の者にとっては億劫だろう? 法的にも常識的にも、私がここに居ることはおかしくないはずだが」
淡々と……しかしどこか楽しげに青年が答えた。
唇の端に覗くのは、八重歯と言うには存在感のありすぎる皓い牙。
「レンフィールド! なにか彼女の髪を乾かすものを持ってきなさい」
暖炉のそばでアルマジロと一緒に火の番をしていたレンフィールドが立ち上がり、アルマジロを抱えて部屋を出る。
しばらくして、アルマジロの代わりに別室から持ってきたのはよく乾いたタオルだ。
役目を果たした従僕は暖炉の番には戻らず、そのまま部屋を出て行った。
「それで髪を拭うといい。暖炉のそばの椅子に腰掛けていれば小一時間で乾くはずだ」
そう言って、自分の座っている椅子と差し向かいに位置する空いた椅子を指し示した。
「多少、礼儀を欠いている気がしなくはないが、滝のような雨を押して訪れてくれた妙齢の女性をすげなく追い返すほど、私は無粋な真似をするつもりはない。ゆっくりしていくといい」
唇の端に仄かな笑みを漂わせて、青年は言葉を続ける。
娘は従僕の手からタオルは受け取ったものの、居間の入り口からは動かなかった。
怒りゆえか羞恥ゆえか、ほんのりと朱に染まったまなじり。
花びらのような唇を噛みしめて、青年を睨みつけている。
ふたたび、ばたばたと足音がし、今度は男たちが三人、居間の入り口に現れた。
室内に端然と佇む青年の姿を見留めた瞬間、息を呑む者、苦虫を噛みつぶしたような顔をする者、手で顔を覆う者……たじろぎの見えたのは一瞬で、すぐさま手に持つ拳銃を構え直し、ぴたりと青年に銃口を向ける。
そのさまは、出払っていたと思っていた住人に思わず出くわし、口封じの覚悟を決めた押し込み強盗のようだった。
「……あなたは、昼間は柩で眠っているものだと……」
娘が呟いた。
「間違っていないが、いつもそうだと思っていたなら認識を改めた方が良い。君のおじいさまの友人、ブラム・ストーカー氏もそのあたりのことはきちんと書き留めていたはずだが」
手に持っていた本をぱらぱらとめくり、ページを開いて机の上に置いた。
娘は険しい視線で青年をひたと睨みつけたまま、擦り足で机のそばまで歩み寄ると、本を手に取り、後退って本に目を落とした。
本はブラム・ストーカーの書いた「Dracula」の初版本であった。
青年が示したページには、ヘルシング教授と仲間たちが昼間、ドラキュラ伯爵が根城のひとつとしていたピカデリーの屋敷に侵入し、伯爵の柩を浄めたあと……伯爵と出会う場面が描かれている。
ジョナサン・ハーカーの果敢な攻撃を躱し、聖餅の威力に怯んだドラキュラは窓を破り屋外に脱出、呪いの言葉を吐いて逃げる……そういう場面だった。
シーンの時間帯は午後遅く、日没の迫るころ……だが、日は沈んでいない。
そう……ドラキュラは昼間、屋外で活動しているのだ!
「実際、その本の記述はなかなか正確だ。君のおじいさまは当然としてハーカー夫人を含め、日記の記述はみな、卓越した観察眼と理論的な思考で構成されている。ただ、結末だけは事実と違うことが書いてあるが」
ブラム・ストーカーの書いたその小説では、イギリスを脱出したドラキュラは森の彼方の地……トランシルヴァニアにある自分の居城を目の前にして、クインシー・モリスの犠牲によって滅ぼされたことになっている。
事実は、違う。
クインシー・モリスがジプシーたちの攻撃で致命傷を受けたことは間違いないが、ドラキュラは逃げ切ったのだ。
ドラキュラを滅ぼした……そう結末が改変されているのは不当であると、青年は非難の声を挙げるつもりはなかった。
人間だれしも、『正義の味方』が活躍する物語を好むものだ。
そしてまた、青年は勉強不足の彼女を責めるつもりもなかった。
祖父の死に直面し、祖父の衣鉢を継ぐと決意した彼女を、青年は賞賛こそすれ、貶めるような真似をすることはけっしてない。
彼女が祖父の代わりに青年を追い始めて一年足らず……青年は「ドラキュラは昼間に行動できない」と誤解するように、自身の行動を演出し、巧妙に印象を誘導してきた。
もちろん、ヘルシング教授とともに戦い、過去を知る仲間が彼女にはついている。
だが、人間の記憶ほど信用できないものはない。
現在の印象に引きずられ、二十年前の記憶が曖昧になる……よくあることだ。
『それを怖れ、教授は友人に頼んで事件の記録を書き留めさせたのだろうが……無駄だったわけだ』
ミス・ヘルシング……娘が本を机の端に置き、拳銃を構えなおす。
「……昼間行動できたとしても、関係ないわ」
感情を抑えた声音で、みずからに言い聞かせるように呟き、銃口をまっすぐに青年に向けた。
タオルが床に落ちる。
「その凜々しさは、まさにおじいさま譲りだね、ミス・ヘルシング。惜しむらくは、少々震えているところだが。まあ、それは寒さのせいだとしておこうか」
引き金にかけた指を震わせる娘の姿に、男たちが目覚めた。
一斉に銃を撃つ。
至近距離で放たれた三発の銃弾を、青年は間髪、避けて見せた。
そして獣の獰猛さで侵入者の群に突っ込むと、剣を、ククリナイフを抜いて青年の心臓を狙う男たちの足を払い、頸椎を一撃し、みぞおちに拳を撃ち込んで気絶させた。
三人の男たちが……ものの数秒で倒されてゆくさまを目の当たりにし、娘は呆然とした眼差しで、しかし気丈にも銃口だけは青年に向けて、ただ立ち尽くすのみ。
ここにいまは亡きクインシー・モリスがいたならば、あるいは吸血鬼狩りの頭脳であり、優れた指揮官であったヘルシング教授がいたならば、結果は変わっていただろうが。
いま、ミス・ヘルシングを護るのは、弁護士であり、貴族であり、医師であった。
そして、ミス・ヘルシングには圧倒的に経験が足りなかったのだ。
「シャーロック・ホームズだったか……日本の武術を駆使して素手で敵と戦う描写に興味が湧いてね。いつか君に披露しようと思って、こっそり型を習っていた。付け焼き刃にしてはなかなかだったろう?」
娘は身体の奥底から湧き上がる恐怖を必死に抑えながら、素早く床に倒れ伏す仲間たちの胸が動いていることを……気を失っているだけで呼吸があることを確認し、覚悟を決めたように「なにが目的なの?」と青年に問うた。
「もちろん、君が目的だ」
青年は深紅の唇を歪め、毒蛇の微笑を浮かべて答える。
「じつのところ、今夜、私のほうから君を訪れようと思っていたのだよ。ハロウィンの来訪者として……私ほどふさわしい者もないと自負しているのだがね」
娘が引き金を引いた。
その銃弾はたしかに青年の左胸の下……胸と腹の境目あたりに撃ち込まれ、シャツに血の華を咲かせる。
だが、それだけだった。
青年が素早く距離を詰め、有無を言わさず娘の腰を抱いた。
「私を滅ぼすには、首を切断するか、心臓を一撃するかだ。それ以外の傷は、夜の訪れとともに癒える」
拳銃を持つ腕を捻りあげ、娘が堪らず、銃を床に取り落とすのを確認し、その白い手首に唇を寄せた。
「半日、早くなったが始めようか……今宵が君にとって、人生でもっとも印象深いハロウィンであらんことを!」
娘は青年の唇に零れる皓い牙が長く、長く延びるさまを目の当たりにした。
そしてその牙が、無慈悲にも自分の手首に沈んでゆくさまを。
*
「見たところ、怪我をなさっておられるようですがね、医者に寄りますか?」
港へ向かう馬車を走らせながら、御者台のレンフィールドはとなりに座る主の身を案じた。
「必要ない。ずいぶん血は出ているが、なに、ただの掠り傷だ」
篠突く雨はあいかわらずだが、御者台にはしっかりした雨除けがついていて、厚手の外套を着込んでおけば、そう酷く濡れることはない。
「港へはもうすこし急いだほうがいいんでしょうが……この雨じゃ、今日はこれ以上、馬を急がせるのは無理でさね、旦那さま。道が悪すぎて踏み外してしまいますでね」
「心配ない、レンフィールド。足止めを用意しておいた。彼らが我々をすぐに追いかけてくることはない」
先日の舞台でルーシー役を演じていた女優、御者の男……ここ数日のうちに青年が『死の向こうがわ』に引き入れた者たち。
彼らを閉じ込めていた地下室の鍵を、青年は屋敷を出る際、開けておいた。
『今はまだ昼間とはいえ、こちらがわの住人になってから一滴の血も啜っていない餓えた者たちだ。それなりに楽しんでもらえると思うのだがね……ミス・ヘルシング』
青年は頬杖を突き、滝のような雨を眺め遣りながら、うっそりと微笑んだ。
「しっかし、旦那さま……あいつら、とんでもないやつらだと思いますよ。いつもいつも旦那さまをつけまわして、勝手に屋敷に上がり込んでくるわ、物は壊すわ銃を撃つわ旦那さまに怪我をさせるわ……酷いことをしくさってね。旦那さまがお怒りにならないのが不思議でならないんでさ」
義憤に駆られて怒るレンフィールドをちらりと見遣り、「退屈しのぎにちょうどいいのだよ」と、青年は言って目を閉じた。
『私が滅びぬ限り、私のつけた牙の痕が消えることはけっしてない。君の血に混じった闇の毒が、すこしずつ君の清らかな魂を蝕んでゆく気配に怯えながら……私を追っておいで、ミス・ヘルシング。これまでよりも熱烈に。……愛しい男を追う情熱と狂気をもって』
「その狂熱こそ、我が花嫁にふさわしい」
青年の幽かな呟きは、遙か北のほうで鳴り始めた遠雷の音に紛れて、従僕の耳には届かなかった。
「この世はなんと猥雑で醜悪で……かくも美しい。そう……この私が存えるに値するほど!」
*
天より降り注ぐ雨。
それは慈悲深きものの哀しみの涙であっただろうか。
天に響く雷。
それはおおいなるものの怒りの刃であっただろうか。
だが、それらはいまだ『彼』には届かない。
ハロウィンの夜が訪れ、万聖節の朝がやって来ても。
*
雨は、いまだ降り止まない。
陽光を遮る厚い雨雲が垂れ込める空の下、世界はいまだ闇に閉ざされていた。
THE END




