はじめてのしつれん
作者:吸血花
「もうすぐ幸せになるよ」とは、父がよく口にしていた言葉だった。
夜の妖精が舞っている。辺りは一層暗く、妖精たちがいそいそと鱗粉を撒いている。
そこは路地裏だった。街灯はない。闇に生きる者の通り道に、明かりは必要ない。そのためか、そこは殊更外界と遮断されて見える。恐怖に逃げていった妖精が、多くの鱗粉を置き忘れてしまったのだろう。ただでさえ不安を煽る闇が、今にも足元を絡めとろうとしていた。
さて、その一角だ。
その鱗粉を身に纏っている者がいる。一人の女を抱き起こし、悲しみに首に口付けをしている。
否、それは口付けではなかった。
影が女の白い首から離れ、赤いワインを口の端から零す。名残惜しそうに舐めとられる女の喉首には、キスマークの代わりに四つの穴があった。
――初めて見たとき、リーズは不思議と彼女だけを目で追っていた。
足元をおろそかに、どこかここではないどこかを見つめるようなその瞳に目を奪われた。それは彼女があまりにも小さかったから。雪のようなリーズとは正反対の小麦色の肌を隠すように、厚いケープを羽織っていた彼女は、実際のものよりも小さく見えた。
窓から飛んできた黒い蝙蝠が、リーズの作り物染みた指に足をかける。彼女の様子を、きーきーと可愛らしい声で伝えてくれる。彼女は今日も一人らしい。できることなら、己の手でその孤独を癒してあげたいとリーズは切に思った。
彼女はあまり家を出ないようだ。リーズとすれ違った直後に歩けないほどの怪我をしたらしく、家に籠りきりらしい。獰猛な浮浪者にでも遭ったのだろう。見つけ次第悪夢を見せてやることをリーズは決意した。
「――あの子は、なんて名前なのかしら」
「ウーティスです」
「ウーティス? それが本当にあの子の名前なの?」
「わたしが貴女に嘘をつくわけありません。わたしはこんなにも貴女に心を奪われているんですから」
夜遅くにリーズを迎えたアリッサは瞳の奥に赤い光を湛えている。うっとりとリーズの顔を見上げる様は、まるで恋に落ちた女のようであった。石膏と見まごうほどに白いリーズの両手がアリッサの顔を柔らかく挟む。もし、彼女に正常な意識があったのであれば、あまりの冷たさに背筋までもを凍らせていたであろう。
「嬉しいわアリッサ。でも、なら親は意味を知らないのでしょうね。だって、ウーティスなんて人につける名前じゃないわ」
「いいえ、違いますリーズ。あの子が自分でそう呼んでいるんです。あの子がそう呼ばれたいから、そう呼ばれるようになったんです」
「では、あの子の本当の名前は?」
「知りません。きっと、誰も知らない。もしかしたら、あの子も知らないかもしれない。ああっ、でもわたしが貴女のことを忘れることは決してありません、リーズ」
「……そうね、私も、あなたのことは決して忘れないわ」
リーズの手がアリッサの肌に沿って下っていく。その手はアリッサの首を晒しだすことで止まった。爛々と輝くリーズの瞳が、アリッサの少し焼けた首筋を狙い定めている。
「――アリッサ。理知的なあなたが好きよ。愛してるわ」
リーズの口から覗く四つの白い牙がアリッサの首に突き刺さる。途端に、アリッサの嬌声が挙がった。リーズの喉が鳴るたびに、アリッサの艶めかしい声がリーズの髪をくすぐる。その顔は恍惚に赤らめている。徐々に朱が色を失うと、アリッサは眠ったようにその動きを止めた。リーズの口がアリッサから離れた。唇を濡らす赤色は、リーズが幼い頃から愛用していた口紅だった。
リーズはアリッサを床に寝かせると、少し物足りなさを感じている自分に気が付いた。
味に損傷はない。それどころか、ここ最近では格別に美味な部類だった。だというのに、いったいどこに不満を持つというのか。
脳裏に金色の少女が思い浮かんだ。手入れをすればずっと美しくなるであろう、荒れた金色の髪。
――あの子が欲しい。
小麦色の肌を撫で、子どもと見紛う頼りない首に食らいついてしまいたい。欲求に従ってしまえば、今すぐにでも行える。だが、それでは彼女の魅力が失せてしまう気がした。
どうせならば、今の彼女と触れ合いたい。彼女の笑顔が見たい。小さな手を、己の手で包んであげたい。彼女の視線の先にいたい。彼女の声が聞きたい。愛を与えるのはそれからでいい。
考えれば考えるほど、体を駆ける血という血が沸騰しそうだ。これはまさしく名案に違いないとリーズは思った。
それならば、まずは彼女と話をしなければ。
リーズは歓喜のあまり己の体をかき抱いた。
ウーティス、貴女と話がしたい。
◆ ◆ ◆
父は優しい人だった。頑張れば、頭を撫でてくれる人だった。
いや、今も優しいのだ。ただ、わたしが出来損ないだから優しくなれないだけだ。今だって、父はわたしのために泣いている。
「おとうさん、おとうさん、いたいよ」
ウーティスの訴えを父はくしゃりと顔を歪むことで返した。
「もうすぐ幸せになれるからね。だから、我慢しようね」
父がウーティスの頭を撫でた。今日の父はいつもより優しいが、その口は歪んでいる。
「おとうさん、どうしてわらうの」
最近歯の抜けたウーティスは少し喋りが拙かった。
「お前には笑っているように見えるかい。イザベル」
ウーティスは否定に首を振ろうと思ったが、痛かったのでやめた。
――わたしは、ウーティス。
イザベルじゃないよ、お父さん。わたしはウーティス。ウーティスなの。
父の耳にわたしの言葉は届かない。だってしかたない。この言葉はウーティスが口にしているから。
可哀そうにウーティス。あなたはこんなに痛いのに、お父さんにはあなたが見えない。
わたしはここにいない。痛いのは、ウーティスだけ。
だから、わたしは痛くないの。
ウーティス。ウーティス。お願い、お父さん。わたしの名前を呼んで。
◆ ◆ ◆
どうしたらあの子は喜ぶだろう。どうしたらあの子は笑ってくれるだろう。先の見えない考えばかりが先走るが、今を考えてリーズは笑った。今を考えればいい。今を考えて、彼女に会おう。
ウーティスの家の前まで足を運んで、リーズは扉に手をかけられずにいた。ウーティスの家は古びている。家の壁となる木板は所々欠けており、虫の通り道となっている。空き家と言われれば納得できるほどに、手入れが杜撰だった。
それこそ、扉に手をかけてしまえば家ごと崩れるような白昼夢が一瞬目の前で繰り広げかけたほどだ。
しかし、到底人が住めない様子だったから躊躇したわけではない。リーズは二度も拳で扉を叩いている。家主が迎えてくれないのだ。リーズは招かれなければ家の中には入れない。
中からは軋む音がする。人の動く音だ。ウーティスの声も微かに漏れて聞こえる。虫食いようなこの家だからこそ聞こえるのだ。
「こんばんは。遅くにごめんなさい。実は宿がなくて困っているの。どうか家に入れてください」
嘘だった。ウーティスの声がすすり泣きのようにも聞こえる。嫌な予感がした。
中から足音がリーズの耳に届いた。扉を開けたのは無精ひげが目立つ不潔な男だ。ゴミのような髪を頭に乗せている。
男は上から下へとリーズを舐めるように見る。部屋の奥は暗く何も見えない。が、リーズの目にはそれこそ昼間よりも鮮明に見える。奥には、乱れた様子のまま人形のように手足を伸ばしているウーティスの姿があった。
男は下卑た笑みを顔に貼り付けて、リーズを部屋の中に招く。
「かわいそうに……」
リーズは一つ呟くと、男の胸を手で貫いた。白いリーズの手が赤く濡れる。
もう少し早くに来るべきだったのだ。しかし、過去は変えられない。ウーティスは傷ついてしまった。リーズが貫いた手を抜くと、男は重い体を床に落とした。男は羽を捥がれた虫に似た動きをした後、そのまま動かなくなった。
「ウーティス、ウーティス? もう大丈夫よ。もう痛くないわ」
リーズがウーティスに近づくが、少女の視線は動かなくなった男へと向けられていた。
知らない女がウーティスの前に立っている。その手は臓物でもかき混ぜたかのように真っ赤だ。雪原に似た髪に反して、その赤色は浮いていた。
――なぜ、父が倒れているのだろう。
ウーティスは小首を傾げた。
――それは女の人がお父さんを奪ったから。
イザベルがウーティスの疑問に答えた。それを知った少女は恐怖を感じた。
父はウーティスの全てだ。イザベルの全てだ。
だというのに、なぜ目の前の女は父を奪ったのか。痛みがいないと言うのか。
―― 可愛いイザベル。上手にできたね ――
頑張れば、父は褒めてくれた。
ウーティスの足元には、先ほど父がウーティスを脅した包丁があった。
ウーティスは自らリーズの胸に飛び込んだ。
抱きしめると同時に、とん、と軽いものがリーズの中に入り込む。リーズが自身の胸を見下ろすと、そこには錆びれた包丁が刺さっていた。しかし、そこに痛みはない。この程度のものでリーズが傷つくことはないからだ。
「かえして」
ウーティスが震えた。口の端が切れているのか、そこから血の雫が零れている。
その声は淡々としていたが、まるで悲鳴のようにリーズには聞こえた。
「ウーティス?」
「うーてぃすはずっといたいの。いたくなきゃいけないの。いたくないことなんてないんだよ。なのに、なんでうーてぃすをこわすようなことをするの」
ウーティスはリーズの胸に刺さった包丁を抜き、それをまた刺した。肉の感触もないそれを、幾度と回数を重ねて刺していく。ウーティスの顔はざんばらな髪に隠れて見えない。
リーズは当惑していた。助けたと思った少女が己を殺そうとしているのだ。このままでは話すことすらままならない。なぜ、彼女は私を拒絶するのだ。
「ウーティス、落ち着いて。だめよ、刺しちゃ」
「かえして……」
ウーティスはなおも言葉を連ねる。リーズの言葉などには耳を貸さない。その羽虫のごとき小さな声には、確かに憎悪が含まれている。刃が、すとんと刺さる。
「おとうさんを、かえしてよ」
――ああ、もう遅かったのだ。
リーズはウーティスの手を握った。床に、彼女の手の内にあったものが軽い音を立てて落ちる。
涙に濡れる瞳は、リーズに似て少し赤みがかった色をしていた。人が見れば、土色だと言うだろうが、リーズには自身の半身を持つ少女のように思えてならなかった。
彼女の瞳は無垢だ。その視線の先にはリーズがいる。だが、彼女はリーズを見つめていない。
とても残念だった。私を見つめてくれる彼女が欲しかったのに。
リーズは焦がれていた首に口付ける。濃密な甘みを含んだ葡萄酒に似た味が口いっぱいに広がった。
思ったとおり、少女の血潮のなんと美味なことだろう。飲めば飲むほど喉が渇く。舌に浸すほど焦がれる思いがやまない。
ウーティスは体を震わせた。頭がふわふわとした。全身から全てを抜き取られるようだった。このまま自分は消えてしまうのではないかとすら思った。
(あれ)
辛うじて動いていたウーティスの思考が止まる。消えるとは、なんだろう。ウーティスとされる少女に、消えるなどという在るものの至福が得られるのだろうか。
少女をイザベルと呼ぶ父はもういない。だれも、彼女をイザベルと呼べない。イザベルはいないのだ。
ウーティス。ウーティス。わたしはウーティス。
じゃあ、イザベルはどこへ行ったのだろう。少女は一粒だけ残った理性で、疑問を覚えた。
リーズはウーティスだったものから口を放した。
気づけば、少女は動かなくなっていた。
リーズは動けなくなっていた。
――初めての失恋だった。




