【 Section 37.穏やかな時間(後編)】
《1998年12月20日 9:45AM エルハイト市内 ビアンカ・メグレー孤児院》
吐息を白く色づかせ、マリアは急ぎ足だった。
十二月の空気は冷たい。だけれどそんな冷たさは、少しも苦にならなかった。
――急がなきゃ。クリス、きっと待ってるわ。
今ごろクリスは面会室で、マリアが来るのを首を長くして待っていることだろう。そう思うと、マリアの心も温まる。早く行かなきゃ。早く会いたい。マリアは、“ビアンカ・メグレー孤児院”に到着した。
門前で、クリスへの面会を申し出た。するとマリアを面会室に連れて行くために、年老いた先生がひとりやって来た。いつもの流れだ。すっかり顔見知りになったその先生と、会話をかわしながら面会室に向かうのが日課のようになっていた。
「マリアさん、ありがとうございます。あなたが来てくれるようになってから、クリスは本当に明るくなったんですよ」
先生はゆったりと歩きながら、そう言った。
マリアは先生の横顔を見た。丸眼鏡と目じりのしわが印象的な、穏やかな雰囲気の老年女性だ。先生は、遠い昔をふり返るような表情をしていた。
「誰にも心を開けない子だったんです。……無理もありません。あの子は幼いとき、とても怖い思いをしたから」
「怖い思い……ですか?」
過去を悔いるような表情で、先生は眉を寄せていた。
「クリスはね。五歳のときに、ヒューマノイドに拉致されたことがあるんです」
「え? ……拉致?」
思わずマリアは問い返していた。――拉致? クリスが教えてくれた思い出話とは、ずいぶん違う。
「はい。ちょうどあの子が五歳になった、クリスマスの日でした。子供たちみんなを連れて街に出ていたとき、あの子は一人ではぐれてしまいまして……」
迷子になったクリスは、逃亡中のヒューマノイドたちに拉致されてしまった――先生は、悲しげな顔でそう告げた。
「そのヒューマノイドの男女は、クリスを拉致して自分たちの息子であるかのように装い、三年間も偽の家族を演じていたのです。最終的に当局が彼らを回収し、クリスを保護してくれたのですが……」
マリアは沈黙した。理解してしまったからだ――この先生も、ヒューマノイドを嫌っているのだと。
――偽物の家族?
違う。クリスは、その“夫婦”をパパ・ママと呼んでいるのに。誰より大事な家族だったと思っているのに。
クリスが何と訴えても、この先生は聞く耳を持たなかったのだろう。この先生だけではなく、たぶん誰ひとり、クリスの言葉を信じなかったのだ。
「マリアさん、あなたは『狼に育てられた少女』の話を知っていますか? クリスはまるで、その少女のようです。人間には心を開けず、ロボットばかりに固執してしまう。あの子の心を開いた人間は、あなたが初めてなんですよ」
先生はゆっくりと歩を進めながら、少し嬉しそうにこう言った。
「あの子がこれから、いろいろな人間に心を開いてくれるようになるといいけれど」
先生の歩く速さに合わせ、マリアもゆっくり並んで歩いた。
なにか言うべきか、否か。
しばらく判断に迷っていたが、マリアはやがて、つぶやくようにぽつりと言った。
「……だいじょうぶ。クリスは、ちゃんと心を開いてくれますよ」
言葉を選ぶようにして、マリアはぽつり、ぽつりと告げた。
「……もしも。皆があの子の言葉を、ちゃんと信じてくれるなら。クリスはきっと、皆に心を開くと思います」
* * *
「マリア!」
面会室に入るやいなや、クリスは彼女に飛びついて来た。
「遅いよマリア! ずっと待ってたんだから」
クリスの姿は、母親に甘える子供のようだ。マリアにしがみつきながら、とろけるような笑顔を浮かべていた。それを見て、マリアの顔も自然とほころぶ。
「待たせてごめんね、クリス。――それと、ロビィも。お待たせ」
クリスの肩の上に座っていた手のひらサイズのロボットが、挨拶のように片手を上げた。
クリスはマリアの手を引いて、力強く歩き出す。
「マリア! 勉強おしえて。学習室、取っといたんだ」
ビアンカ・メグレー孤児院の学習室は、長机と長椅子が五列ずつ並んだ、小教室のような部屋だった。その一角を陣取るように、クリスは教本をバリケードのように高く積み上げて何人分かの席を独占していた。石油ストーブの熱が一番よく届く、一番いい場所だ。他の子供は誰もいないから、今はどの席をどう使っても問題ないのだが。
「クリス。あったかい場所を独り占めしちゃだめよ? 他の子が来たら、仲良く分け合わなきゃ。ね?」
「いいじゃん。どういせ他のやつなんか来ないよ。それより早く、勉強べんきょう」
クリスにせがまれ、マリアは困ったように笑いながらコートを脱いで腰かけた。
「……昨日の宿題。ちゃんとできた?」
「もっちろん!」
少年が、誇らしそうにノートを開く。丸っこい字で書かれた文章が、ページいっぱいに書き込まれていた。
マリアはノートを受け取って、一行一行にゆっくりと目を通した。長いまつげをそっと伏せ、淡くほほえみながら読む。彼女の仕草を、少年はうっとりと見つめていた。
やがて彼女は顔を上げ、大輪の花のように笑った。
「すごいわ、クリス。完璧よ」
「やった!」
「昨日の宿題、ちょっと難しかったでしょ? なのにすごいわ。あなたはとても賢いのね」
「そんなことないって。えへへ」
クリスは彼女にすり寄って、甘えるような声で言った。
「マリアが、毎日おしえてくれるからだよ」
上目づかいの笑顔がとてもかわいくて、彼女はクリスの頭をなでた。
そのとき、
「おや、マリアさん。今日も、すみませんね」
学習室に先生がひとり入ってきた。頭髪の少ないその先生を見た瞬間、クリスの態度ががらりと変わる。
「ちぇ。邪魔すんなよ、ハ~ゲっ」
クリスは舌を出して、おちょくるような声で言う。マリアは慌ててクリスの口をふさいだ。
「い、いえ! わたしなんて部外者なのに。良くしてくださって、本当にありがとうございます」
禿げた頭を掻きながら、先生は苦笑していた。
「その子、誰にもなつかないんですよ。あなただけは特別みたいで。つい最近まで、アルファベットさえ満足に書けなかったんですから。あなたのおかげで、見違えるようです」
「マリア~、早く~教えてぇ~」
マリアの指の隙間から、クリスが甘えた声を出す。先生は、笑いながら学習室から出て行った。
「ちょっと……クリスったら!! 先生にあんなこと言ったらダメでしょう? あの先生、傷ついてたわ」
「だいじょぶだよ、あれくらい」
マリアは厳しく叱ったつもりなのだが、涼しい顔で聞き流されてしまった。
「クリス……。あなた、本当は良い子なのに。わたしは他の人にも、あなたが良い子だってことを知ってほしいのに……」
「じゃあ、マリアもここの先生になればいいんだよ。そうしたら、僕はいつでも良い子でいられるよ」
そう、言われて。マリアは悲しそうに笑った。
「それは無理よ。わたしの本当の仕事は、ドクター・シュルツのために働くことだもの」
IV-11-01-MARIAは、ドクター・シュルツのためのロボットだ。シュルツが喜んでくれるなら、自分はどんな仕事でもしてみせる――マリアは、いつだってそう思っている。
だけれどシュルツはマリアを嫌って、何も仕事をさせてくれない。
嫌われていると分かっているから、彼女もまた、シュルツと距離を置くように心がけてきた。本当は悲しい。本当は、もっとシュルツの近くに行きたい。でも迷惑がられると分かっているから、この一か月の間シュルツに話しかけないように努力してきた。笑顔を取り繕っているものの、本当は、毎日胸が張り裂けそうなのだ。
「……マリア?」
クリスに呼ばれて、彼女は我に返った。
「ごめんなさい、ぼーっとしちゃった。えっと。じゃあ、今日はまず算数を勉強しましょう。この前は引き算のお話を少ししたから――その続きからね」
一時間ほど算数を続けて、ふたりは休憩を取ることにした。手のひらサイズのロビィが、ノートの余白に鉛筆の芯をグリグリなすり付けているのを眺めながら、熱い紅茶を並んで飲む。湯気といっしょに緩やかな空気が流れていた。
「勉強、すごくわかりやすいよ。マリアって、すごいね。本当に何でもできるんだ」
「……そんなことないわ」
マリアの顔はまた、悲しげに笑った。
彼女がこういう表情をするのは、ドクター・シュルツのことを考えているときだ。だからクリスは、眉をしかめた。
「ねぇ、マリア。前から聞きたかったんだけどさ。あんなおっさんの、どこが好きなの?」
「へ!?」
唐突に切り出され、マリアはすっとんきょうな声を上げた。
「な。なにを言うのとつぜん!」
「好きなんでしょ? ドクター・シュルツが。で、どこが良いの? あれの」
侮蔑とも憎しみともつかない声で、クリスはシュルツを“あれ”呼ばわりした。
「どこって……」
はぐらかすこともできたはずだ。だけれどマリアは、馬鹿正直だ。
「ぜ……全部よ」
「たとえば?」
たとえば、って……
「えっと。たとえば……優しいところとか」
「優しい!? どこが」
「いろいろなこと、わたしに教えてくれたもの。本の読み方とか、人ごみの歩き方とか」
「そんなの誰でも教えられるよ!」
「でも……」
マリアは一生懸命、シュルツの美点を探そうとした。
「声も好きよ。姿勢も良いし。コーヒーの飲み方が綺麗だし。髪と目の色もすてき。顔も、とっても……」
わたし、何を言っているんだろう。――彼女自身も、わけが分からなくなっていた。
「と、ともかく……ぜんぶ好きなの!」
白い肌を唐辛子のように赤くして、マリアはそんなふうに締めくくった。
呆れた顔で、クリスは彼女を眺めている。
「それってさ。他に選べる男がいないから、好きなっちゃったんだよ。きっと」
マリアが予想もしていなかった言葉が、子供の口から飛び出した。
「え?」
クリスはやけに達観した顔で、嘆かわしそうに首をふっている。
「マリアは男を見る目がないなぁ。あのベイカーって奴もダメだからね、あいつの家なんて絶対行っちゃダメだよ?」
目を白黒させてマリアが混乱していると、
「僕にしときなよ!」
間髪入れずにクリスは言った。
「あと五年くらいしたら、僕が一番いい男になるよ? それに僕、すっごい政治家とかになっちゃおうかと思ってるんだ。賢くなって、偉くなって、ロボットと人間をもっと仲良くさせるんだ。そしたらマリアも、きっと――」
明るい空気を引き裂いたのは、大音響のサイレンだった。
甲高い、耳をつんざく鋭い音響。マリアとクリスは驚きに身をこわばらせた。いや、このふたりだけではない。学舎の中にいた全員。いや、その外も。誰も彼もがサイレンを聞き、何が起きたか分からずに緊張していた。
《すべての市民は、活動を停止せよ。繰り返す。すべての市民は、活動を停止せよ》
サイレンが止み、代わりに高圧的な声が響いた。
《こちらは連邦刑事庁ロボット危機管理局である》
「……当局?」
マリアは、思わずつぶやいた。
《只今より、エルハイト市第五から第十一街区を閉鎖し、全市民のC/Fe検査を執行する。該当街区の全市民は、あらゆる活動を停止せよ。指示に従わない者は、連邦刑事庁ロボット危機管理局の権限において、直ちに逮捕・拘束する。なお、ヒューマノイドの隠匿を行った者に対しても、ロボット管理法第六十九条第三項の定めるところにより懲役九年処罰の対象となる。繰り返す――》
「なに、これ……?」
「――ヒューマノイド狩りだ」
ぽかんとしているマリアとは対照的に、クリスは真っ青な顔をしていた。
「ヒューマノイド狩り?」
体中の血がすべて消え失せてしまったかのように青ざめて、クリスはガクガクふるえている。
マリアは窓から、中庭に誰かが入ってくるのを見た。黒いジャケットを着た見知らぬ男が一名と、その男の背後に連なる十数体の亜ヒト型ロボット。――あの亜ヒト型は知っている。当局捜査官のブラジウス・ベイカーがいつも従えているのと同じ、I-05-31-PRIMUSだ。
孤児院の院長と思しき人物が学舎から出て、男に向かって頭を下げた。
男の大きな声が、学習室の中まで届いた。
「すべての職員と児童のリストを提出しろ。施設内のすべての者を、十分以内にここに並ばせるんだ。一人ずつC/Fe検査を――」
クリスはマリアの手をつかみ、ものすごい勢いで走り出していた。
「ク……クリス!? ちょっ――」
「逃げなきゃ。逃げなきゃマリア!!」
追われておびえる小さなネズミ。マリアを引っ張るクリスの姿は、小さなネズミのようだった。








