【 Section 1.蝶舞う園で 君を待つ 】
《1998年9月30日 4:00PM エルハイト市内 第六検死研究所》
目の前に横たわっているのは、もはやただの鉄クズに過ぎない。
ディスプレイや操作盤などの機材が居並ぶ部屋の中央には、手術台のような大台がひとつ置かれている。台の上で横たわるのは、つい先ほど運び込まれてきたロボットの“亡骸”だ。ロベルト・シュルツは鋼鉄製の亡骸を見下ろして、独りで仕事を続けていた。
BGМに流しているのは、いつもと同じラジオ局の、いつもと同じクラシック番組。緩急ゆたかな旋律に耳を傾けながら、シュルツは作業を進めていく。このとき流れていた曲は、モーツァルトの『鎮魂歌』だった。彼の仕事とって、これ以上ないほど相応しい曲だ。目の前に横たわる亡骸への手向けのように、荘厳な鎮魂歌が流れ続ける。
「……もっとも、ロボットがモーツァルトを理解できるか知らんがな」
銀色の髪を掻きあげて、シュルツは皮肉をつぶやいた。
最高級の銀糸のような頭髪と。冴え冴えと青く、寒空のように冷たい瞳。その顔立ちはすれ違う女を見惚れさせるほど美しいが、人間的な温もりがない。すらりと背筋を伸ばした白衣姿からは、他人を近寄らせない雰囲気が漂っていた。
“ロボット検死解剖官”――それがロベルト・シュルツの職業だ。破壊されたロボットの“死体”を解剖して、死因特定と死亡時の状況解析を行うのだ。毎日二十体前後の死体が、シュルツのもとに届けられる。今日はこれで二十六体目だ。
シリコングローブをはめた手で、シュルツは細い金属針を取った。繊細な手つきで、半球型の頭脳回路の表面をなぞっていく。
同時に、正面ディスプレイが映像を映し始めた。破壊されたロボットの、最期の視覚記録を再生しているのだ。
ディスプレイの中に映っていたのは、何人もの人間たち。五人。六人。いや、全部で七人だ。シュルツは、ひとりひとりの画像を保存しながら映像を観察していった。人間たちは手に手に鈍器を握りしめ、血走った目でこちらに殴りかかってくる。
――野蛮な連中だ。
冷ややかな眼差しで観察を続ける。映像は左右に乱れ、このロボットが逃げ惑っていたのが分かった。
ロボットは、頭脳の中枢に刻み込まれたロボット工学三原則の規定によって、可能な限り自分自身を守るような行動を選び取る。しかし自己防衛のためであっても、人間に反撃することはできない。だからこのような集団暴行を受ければ、最終的には死ぬしかない。
逃げ惑う。捕えられて、引きずり倒される。雨やあられと降り注ぐ、殴打。殴打。殴打。『化け物め』『死ね』――人間たちのそんな粗暴な叫びが、無音のディスプレイから聞こえてくるかのようだった。
画面が明滅したのは、視覚センサーがそのとき故障したためだろう。ひび割れた画像に映り込んだ金属製の腕――このロボット自身の腕だ。救いを求めるように差し伸ばされた腕は、誰に届くこともなく宙を泳ぎ、再び地面に落ちていく。映像は次第に光を失って、ついには暗転した。このロボットの、最期の瞬間だ。
シュルツはディスプレイから書類へと視線を移し、万年筆を手に取った。書の教本のように整った筆致で、真白い書類に黒のインクを走らせていく。
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《検死報告書》
状態:外傷性の不可逆的損傷。
死因:複数の人間による外傷行為に起因する、
陽電子回路“脳幹”領域の破損。(別途資料を参照されたし)
三原則逸脱兆候:検出されず。
備考:特筆すべき事項なし。
総論:異常なし。
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異常なし。
異常なし。
こんなにも“死”で溢れているというのに、いつもいつも『異常なし』とは皮肉なものだ。この状況こそ異常なのではないかと思うが、指摘したところで意味がない。
シュルツは長い息を吐いた。
今日の検死が、ようやくすべて終わったのだ。軽く伸びをして、両手のシリコングローブを取り外す。
「――――ッ」
グローブを外すとき、右手の指先がわずかに痛んだ。最近、しばしば痛みが走る。
指先をちらりと睨みつけてから、脱いだ白衣を几帳面な手つきで壁に掛けた。検死報告書の束を抱えて、検死室をあとにする。
休憩室のソファに腰を下ろしたシュルツは、つぶやくようにこう言った。
「――SULLA。入れ」
と、その声を待っていたかのようなタイミングで、給仕ロボットが淹れたてのコーヒーを運んできた。
金属製の腕。キャタピラの足。失笑するほど古臭いそのロボットは、一九七〇年代に造られた旧式の給仕専用ロボットだ。
SULLAと呼ばれた給仕ロボットは、シュルツの前にコーヒーを運んだ。
ロボット嫌いのシュルツだが、コーヒーについてはロボットに任せるのが正解だと思っている。人間に淹れさせるのと違って、ロボットの淹れたコーヒーは味にブレがない。SULLAの用意したコーヒーを、シュルツは無言で口に含んだ――馴れ親しんだ、いつも通りの味だった。
香りと味を楽しんでから、一呼吸。冷めきった目で書類を見つめて、
「まったく……いつまで経っても」
ため息まじりにつぶやいた。
「この世の中は、馬鹿ばかりだな」
この世は異常だ。馬鹿と、クズと、能無しばかりが蔓延っている。ロボット破壊事件が後を絶たないのは、その最たる証拠だ――シュルツは常々そう考えている。彼の視線の先にある書類の一件一件が、ロボットの検死報告書だ。一ページの厚さは0.1ミリ程度だが、すべて積み重ねて今月分の報告書を綴じたら煉瓦一本の厚みと同じくらいになった。
――職にあぶれた生活困窮者が暴徒と化して、労働中のロボットを襲う。
――あるいは“反ロボット主義”なる思想の持ち主が、ロボットをむやみに怖れて排斥する。
そんな事例ばかりだった。
ロボットが初めて造られた十九世紀末以降、人間は矛盾を抱えながらロボットを利用し続けてきた。便利な道具として使いつつ、『人間を脅かす危険がある』と訴えてロボットを憎むのだ。
文句の一つも言わずに働き、正確で従順なロボット。役に立たないはずがない。時代を経るごと進化を続け、最近では安価な物でも運動・思考ともに人間を凌ぐ性能を備えるようになった。だから事業者は、人間労働者よりロボットを使いたがる。そしてロボットは、人間労働者に憎まれる。
憎まれても侮辱されても、ロボットは決して人間に背かない。だが人間は、彼らの従順性に不気味さを感じるのだ。『無抵抗な木偶人形め』と蔑みながら、同時に『本当は、人間に反逆する隙を狙っているのではないか』と心のどこかで怖れている。
「……気に入らないからと言って、壊してどうするんだ?」
シュルツは報告書の束をぱらぱらとめくりながら、蔑むようにつぶやいた。
「まさに“思考停止”だな。その程度の知恵しかないから、ロボットなんぞに職を奪われるんだ。十九世紀の超旧式ロボットでさえ、連中よりは幾分まともな頭脳を持っていただろう」
飽きたように書類をテーブルに置き、シュルツは大きく伸びをした。
「本当にロボットを支配したいのならば。“あの事件”を、解明するべきだというのに……」
あの事件を起こしたロボットの頭脳に、どんな“精神異常”が生じていたのか解明したい。それが、検死官ロベルト・シュルツの願いだ。
――なぜ、ロボットが人間を殺せたのだろうか?
その理由を、シュルツは知らない。世界中の誰も知らない。十四年前に起こった、ヒューマノイドの自爆事件――あの事件は、“C/Fe事件”と名付けられている。
三原則第一条の拘束により、ロボットは絶対に人間に危害を加えられないはずなのだ。にもかかわらずその日、一体のヒューマノイドが二千人の人間を巻き込んで自爆した。ロボットが人間に反逆した、世界でただひとつの事例。それがC/Fe事件だった。
「…………」
シュルツは右手を見つめていた。
C/Fe事件のことを思うと、痛みがますます強くなる。眉を寄せ、ロベルト・シュルツは険しい目つきで指先を睨んだ。
ロベルト・シュルツは、ロボットが嫌いだ。だが彼は安易な思考停止に陥ったりしない。検死官として何千でも何万でもロボットの死体を漁って、いつか真相を解明してやるのだと決めていた。それが彼なりの、ロボットへの復讐なのだ。
「……復讐、か」
いつの間にか拳を握りしめていたことに気づいて、シュルツは自嘲の笑みをこぼした。
「トマス先生がお聞きになったら、さぞや悲しむだろうな」
給仕ロボットが空になったコーヒーカップを下げて退室するのを眺めながら、シュルツはため息をついていた。
――トマス先生は、ご無事だろうか?
当代きっての天才ロボット工学者、トマス・アドラー。シュルツの恩師であり、親代わりであり、命の恩人だ。
しかしその恩師とは三年前から接触が取れない。治安当局によって危険人物と認定されたアドラー博士は三年前に召喚され、今では当局監視下にある。
――当局は何を考えている? あのトマス先生を危険人物とは、笑わせる。
シュルツの顔はふたたび険しくなっていた。
アドラー博士が危険人物と判断されたのは、彼がロボット友愛主義者であり、“完全ヒト型ロボット(ヒューマノイド)”の開発者でもあったためだろう。
ヒューマノイド。乱暴な言い方をするならば、それは『人間の皮をかぶったロボット』だ。ヒューマノイドも他のロボットも、内部構造は変わらない。だがヒューマノイドは他とは違い、人間のようにほほえみ、人間的な仕草をする。その“温もり”がいつの日か人間とロボットの溝を埋めてくれることを、アドラー博士は願っていた。
だが現実は残酷だ。
世界唯一の人間殺戮事例となったC/Fe事件を引き起こしたのは、ヒューマノイドだった。ゆえに国内ではヒューマノイドは全面的に禁止されることとなり、アドラー博士はしばしば『悪魔の科学者』と批判されることになってしまった。
「……だが。C/Fe事件と召喚の時期が隔たりすぎている」
事件から十年以上たったある日、恩師は唐突に当局に召喚され、そのまま帰ってこなかった。当局の動きになんらかの政治的事情があると考えるのは、邪推ではないだろう。
――先生はおそらく、反ロボット主義者どもの思惑に巻き込まれたのだ。
恩師は今年で七十六歳だ。足も悪く、決して健康とは言えない。恩師への当局の仕打ちを思うと、胸が灼けつきそうになる。そして、何の役にも立てない自分の無能さにも。
悶々と巡らせていた思いを遮ったのは、コツ、コツ、というノックの音だった。給仕ロボットが何かを伝えるために戻って来たのだ。
「SULLA、入れ」
SULLAの金属腕には、封筒が挟まれていた。
「……郵便か」
シュルツは無表情に封筒を受け取った。封筒には汚れはないが、なぜか古びていた。差出人の名に目を落とし――シュルツは、凍りついた。
Thomas Adler
「トマス先生……!?」
差出人は、トマス・アドラー。誰より大事な恩師の名だった。
シュルツは顔色を変えた。恩師から郵便が届くなど、ありえないことである。
すばやく封を切り、中の手紙に目を馳せた。
読み終わるのと走り出すのは、同時だった。
研究所から滑り出し、車のアクセルを踏み込んだ。左右に過ぎ去る景色も速く、最短距離で目的地を目指す。
一般道から高速道路へ。早鐘を打つ心臓は、車速とともに速くなる。
手紙の文面は、非常に簡素なものだった。ハンドルを切りながら、ロベルト・シュルツはその文面を思い返した。
『ロベルト。――罪深き私を、どうか許してほしい』
文面を読む恩師の声が、脳の奥から聞こえる気がした。
『君に多大な迷惑をかけると知りながら、このような手紙を書かせてもらった』
追い越された車はまるで静物のように、背後に取り残されていく。
『この手紙を受け取ったら、すぐにヒルメリア墓碑公園に向かってほしい』
――墓碑公園? なぜ、そんなところに?
市外にあるヒルメリア墓碑公園までは、高速道路を利用すれば三十分ほどの距離だ。だが、すでに時刻は午後の五時。人々の帰宅時刻に差しかかり、道路が渋滞し始めていた。
「……ちッ」
いらだち紛れに、舌打ちをする。
夕暮れに、染まり始めた車の群れ。シュルツは合間を縫うように、車線を変えて走り続けた。
『墓碑公園の中央……“あの事件”の爆心地点に建つ慰霊碑のもとへ。可能な限り、早く来てもらえないだろうか?』
温もりと、少し癖のあるあの筆致。手紙の文字は、まぎれもなく恩師トマス・アドラー博士のものだった。
『君にしか、頼めないことがある』
――私にしか頼めないこと?
シュルツには、心当たりなどなかった。自分が恩師の役に立ったことなど、今まで一度でもあっただろうか?
恩師が当局に召喚されたのは、三年前のことだ。大学院の博士課程を修了したばかりだったシュルツは、連行されてゆく恩師の背中を、ただ見送ることしかできなかった。
『そんな顔をしないでおくれ、ロベルト。これは人間社会の総意が下した結論だ。私はそれに、従うよ』
歯噛みしていたシュルツに向けて、恩師は悲しく笑って言った。
『……だが私が成し得なかった夢を、いつか君が果たしてくれたら嬉しい』
恩師の夢。それは、人間とロボットとの共存だ。
ロベルト・シュルツには、うなずくことなど出来なかった。恩師はロボットを愛しているが、シュルツはそうではないからだ。顔を曇らせた彼を見て、恩師は悲しく首を振った。
『いや……すまなかった。無理強いは、出来ないな』
杖を突く、老いた足取り。痩せた背中が遠のいていく。
『ありがとう、ロベルト。君と過ごせた十年間は、とても幸せだった』
恩師が最後に残した声を、シュルツは今でも忘れない。
シュルツがヒルメリア墓碑公園に着いときには、夕日も落ちかけ辺りは薄闇に濡れはじめていた。車を降りるや走り出す。慰霊碑の立つ、丘の上まで。
ヒューマノイドによる自爆事件――“C/Fe事件”は、この場所で起きた。広大な跡地が、そっくりそのまま一つの公園として残されているのだ。
犠牲者の墓は丘の上に集められ、慰霊碑はその頂上に立っている。シュルツは、ゆるい傾斜を駆け上っていった。十字架の群れを視界の端に流しながら、頂上を目指して急ぐ。
整然と区画された墓地には他に人もなく、ただただ広くて静かだった。周囲の景色がひっそりと、夜の闇へと濡れていく。
誰一人いない孤独な墓地を、ひたすら走る。膝元に茂るバラの垣根を走り抜けると、夜だというのに立羽蝶がひらひらと舞いだした。
息を上がらせ、額に汗をにじませ。ようやく慰霊碑の場所へたどりつく。敷石で舗装された五十メートル四方の空間の、中心に立つ白亜の塔が慰霊碑だ。
シュルツは足を止めた。
首を傾げて眉を寄せる。
――誰だ?
慰霊碑のもとに、誰かが立っている。
街灯の明かりはまだついていないが、石碑に背を預けて立つ若い女の後ろ姿が、宵闇の中に見えていた。
「君を…… 忘れじ。……愛しき君を」
女はささやくようにして、なにかの歌を口ずさんでいた。
クラシックな風合いのブラウスとスカートに包まれた、ほっそりとした後ろ姿。月影のような色をした淡い金髪は、腰の長さまであった。足元に置いてあるのは、小さめの旅行鞄だ。
「……いずくにか おわする君を ……我は、忘れじ」
女が少しうつむいて、横顔が見えた――とても不安そうな顔をしている。年齢は、おそらく二十歳前後だろう。
舞い遊ぶ蝶が一頭、女の手元に近づいた。女がそっと手を差し伸べると、白い手のひらの上に蝶がとまった。
さみしげだった表情が、かすかに微笑むのが見えた。憂えた美貌を見た瞬間、シュルツはダ・ヴィンチの描く聖母の顔を思い起こしていた。
「……愛しき 君の その温もりを」
女は、両手をゆっくりと泳がせて蝶たちと戯れ始める。だがすぐに手を止め、ぎゅっと自らを抱きしめた。その姿は、凍てつく冬に耐える蝶のさなぎのようだった。
何者とも知れないその女を、シュルツは睨むように凝視していた。夜の闇は、ますます深く。かすかに残っていた夕暮れが、完全に闇に飲み込まれた――周囲の街灯が一斉に灯ったのは、そのときだった。
暗がりに沈む慰霊碑を浮かび上がらせるかのように、金色に輝く無数の灯。金の光に導かれ、女はようやくシュルツの視線に気づいた。
「!」
月影色の金髪が、明かりに照らされさらりと流れた。時間の流れが止まったように、女はふり向いたまま静止している。
他に人のない丘の上。差し向かいあう二人の間に、どれほどの時間が流れただろう。
「――あなたは」
バラの花弁に似たくちびるを、女は開いてつぶやいた。
「あなたは。ロベルト・シュルツ博士ですね?」
聖母のような静的な気配をまとっていたその女は、ふいに幼子のように笑った。親をようやく見つけて安心しきった迷子のように、泣き出しそうな笑顔でシュルツに駆け寄り抱きついた。
何が起きたか、シュルツには理解できなかった。
「会いたかった……! ずっと、ずっと、わたしはあなたに会いたかったです。ドクター・シュルツ!」
先ほどまでの静かな気配はどこへやら。春陽のようにみずみずしい笑みを浮かべて、女はシュルツを見つめていた。シュルツの背中に回していた両腕をゆるめ、今度は彼の両手をきつく握りしめる。
シュルツの瞳をまっすぐ見つめ、女は瞬きもせずに言った。
「わたし――あなたのお役に立てるよう、精いっぱい頑張りますから……」
表情も硬く沈黙しているシュルツとは、女の様子は対照的だ。
「今からわたしは、あなたの物です」
聖母の美貌に子供のような幼い笑顔を浮かべながら。
幸せを噛みしめるようにして、女は声をふるわせていた――