【 Section 8.学習 】
《1998年10月25日 9:30AM エルハイト市内 第六検死研究所》
世の人々と同じように、検死官ロベルト・シュルツも日曜日には休息をとる。勤勉かつ他人嫌いな彼であっても、その点については他人と変わらない。
今日がその日曜日だ。新聞や読みきれずに溜めてあった工学論文を、まとめて読める貴重なひととき。ロベルト・シュルツは、リビングでくつろぎながら活字に目を通していた。
「君を―― 忘れじ。―― 愛しき君を――」
窓を磨きながら鼻歌を歌っているIV-11-01-MARIAの歌声がふと気になって、シュルツは無言で彼女を睨んだ。
MARIAはシュルツの視線に気づかず、相変わらず上機嫌で歌い続けている。
「――その幾千の 眠りを越えて。我は忘れじ、愛しき君を」
カナリアのように澄んだ、美しい声。だがシュルツは、歌が聞きたい気分でもない。もし聞くのならラジオでいつも流しているクラシック番組のほうが、よほど耳に馴染むのだが。
シュルツの口から嫌味がこぼれた。
「……いつもいつも、君はその歌ばかり歌っているな。ずいぶんと懐古趣味な歌だが、君はそれしか知らないのか?」
「え? あら。わたし、また歌ってました?」
無意識に歌っていました、と言ってIV-11-01-MARIAは照れ笑いをした。
料理をしながら。掃除をしながら。彼女はよくその歌を口ずさむ。初めて出会ったあのときも、同じ歌を歌っていた。
シュルツは新聞に目を戻しながら、皮肉を吐いた。
「料理に掃除に子守唄か。君は検死官ではなく、子守とでも暮らすほうが適しているな」
MARIAはシュルツの言葉を皮肉と気づかず、
「いいえ、ドクター。わたしはあなたと暮らします。それが父の遺言ですから」
晴れやかな顔をして、窓の向こうの青空を覗きながらそう答えた。シュルツは無言で肩をすくめる。
IV-11-01-MARIAがこの第六検死研究所に来てからもうじき一ヶ月になる。彼女は毎日、料理や掃除ばかりを喜んでやっている。文句の一つも言わず、それはそれは楽しそうに。――ロボットなのだから、文句を言わないのは当然なのだが。
「ドクター、コーヒーを淹れますね?」
窓みがきを終えたIV-11-01-MARIAが、ふり返りながらそう言った。
返事もせず無表情に新聞を読み続けているシュルツを見て、MARIAはニコニコうなずいた。シュルツの沈黙が肯定を意味するのだということを、彼女はすでに理解している。
掃除道具を片付けて、彼女はエプロンを締めてコーヒーミルを取り出した。
――本当に、人間の家政婦がいるのと何ら変わらない。
ここ最近、給仕ロボットIII-08-29-SULLAは地下倉庫から出てこない。MARIAに仕事を明け渡すため、自分は倉庫で控えているのだ。実は先日、MARIAが『あなたにはお休みしていてほしいの。私に仕事をさせてね?』と廊下でIII-08-29-SULLAに“命令”している現場をシュルツは見てしまった。その日以来、III-08-29-SULLAは倉庫で眠り続けている。MARIAはシュルツに内緒でやってのけたつもりらしいが、シュルツは全部知っていた。MARIAから家事を取り上げると、『何か仕事をさせてください!』とせがまれて鬱陶しいから、知らないふりをしているだけだ。
いつも通りの比率で豆を混ぜながら、MARIAは唐突に言った。
「ドクター。あの歌は子守唄じゃありませんよ?」
シュルツが首を傾げると、
「君を――忘れじ――愛しき君を。これは、映画の挿入歌なんです」
「映画?」
「戦前の映画です。ご存じですか? 『君を忘れじ』というタイトルなんですけど」
きらきらと顔を輝かせながらMARIAは続けた。
「父がこの映画をとても気に入っていました。父とわたしの住んでいたクレハの街が舞台なんです。お話も映像も、とてもすてきで……」
「ロボットのくせに、君のスピーチは冗長だな」
うんざりしたように、シュルツは話を遮った。
「まったく興味が湧かないのだが――」
「ちょっと見てみたら、すぐに興味が湧きますよ? 本当にすてきなんですから。わたしも、あの物語が大好きなんです」
『すてき』で『大好き』。自信たっぷりにそう言い切ったMARIAを、シュルツは黙って眺めていた。IV-11-01-MARIAはしばしば、今のように人間的嗜好を口にすることがある。
ロボットには嗜好など存在しない。彼女の嗜好は、死んだ所有者の模倣に過ぎないのだ。だがそうと知っているシュルツでさえも、彼女自身がその映画を気に入っているのかと錯覚しそうになる。本当に、見事な模倣だ。
IV-11-01-MARIAは、あの天才ロボット工学者トマス・アドラー博士が自ら手掛けたヒューマノイドだ。その真価は計り知れない。家事ばかりをさせているのは惜しいほどの能力を、実際には持っていることだろう。
挽いたばかりのコーヒーの香りをかいで嬉しそうな顔をしているMARIAを眺めながら、シュルツはトマス・アドラー博士の言葉を思い出していた。
『君の検死を、IV-11-01-MARIAに教えてやってはもらえないか?』
『すぐに学ばせてやってくれとは言わない。彼女の有能さを確信し、頼もしい助手になり得ると判断した時点で徐々に教えてやってほしい』
普通ならば、絶対に受け入れられない依頼だ。ロボット検死は、検死官の免許を有する人間のみが行うものだ。無免許の人間に手伝わせるのも、ロボットを使うのも違法である。
だが……ヒューマノイドであるIV-11-01-MARIAをかくまっている時点で、自分はすでに法を犯しているのだ。極東の国には『毒を食らわば皿まで』ということわざがあるらしいが、まさにそのような心持ちだった。
シュルツは新聞に目を落とした。毎日どこかで、ロボットが人間に“殺される”事件が起きている。IV-11-01-MARIAにも、時期を見て外の世界を教えてなければならないだろう。ヒューマノイドが素性を隠して生きるには、外の世界は厳しすぎる。もしも恩師の言う通り、検死が役に立つのなら――
そんなことを思いながら、シュルツはMARIAに呼びかけた。
「……IV-11-01」
「はい?」
「ロボット工学三原則を暗唱してみせろ」
彼女に検死をさせるか否か。実技研修前の口頭試問のように、シュルツは彼女にいくつかロボット工学の基礎を答えさせることにした。
だが、MARIAにとっては唐突な質問だった。コーヒーの粉をドリッパーに入れながら、ぽかんとした顔をしている。
「え?」
「原文そのままで。意訳はいらない。当然、覚えているだろう?」
なぜ暗唱するのか分からないまま、MARIAはシュルツに従った。カナリアが歌うように澄んだ声で三原則を歌い上げる。
「わかりました。じゃあ――
第一条ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条ロボットは、前掲第一条及び第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなければならない。
以上です」
シュルツはうなずき、質問を続ける。
「では次に、ロボットの定義を。そしてロボットの形状別分類を述べてみろ」
彼の口調は、まるで教師のようだった。
「はい」
一方のMARIAは、優秀な生徒のようだ。ニコニコ笑って、よどみなく答える。
「一九四七年の国際連合ロボット協議会の定義したところによると、ロボットとは『頭脳の中枢に陽電子回路を搭載し、稼働後には人間の命令を受けずとも人間の意向に沿った自律動作を行うことが可能な機械』とされています。なので、つねに人間の指示を待っているタイプの機械は、どんなに優れた機能があってもロボットとは言いません」
シュルツは黙ってうなずくと、MARIAはふたたび歌い始めた。
「では次に、ロボットの形状別分類についてお答えしますね。あらゆるロボットは、外見で『モノ型』と『非モノ型』に分類できます。モノ型は、人間以外の物の形をしたロボット。非モノ型というのは、人間を模したロボットです」
答えながら、MARIAはコーヒーの粉をいつもどおりの十八.六秒きっかり蒸らしてから、ドリッパーに湯を注いだ。
「非モノ型には、具体的にはどのような型があるか述べてみろ」
手早く丁寧に。いつも通りの流速でドリッパーにひと注ぎ。MARIAの手元から、かぐわしい香りが広がる。
「はい。『亜ヒト型』と『完全ヒト型』があります。亜ヒト型というのは、たとえば金属のボディで出来た、III-08-29-SULLAのようなロボットですね。手足や頭を持って、人間のような形をしていますけれど、人間そのものとはまったく違います。一方、完全ヒト型というのは――」
「君のような、ヒューマノイドのことだ」
シュルツが遮り、割って入る。
MARIAはほほえみのままうなずいた。
「ええ」
「完全ヒト型ロボットは、そのまま“ヒューマノイド”と同義だ。一九七五年にトマス・アドラー博士が世界で初めて開発に成功し、そして八年前の一九九〇年に、この連邦では全例廃棄が定められた」
「ええ。そのように、記憶しています」
なぜそんなことを突然問うんだろう、とでも言いたげだ。MARIAは淹れたてのコーヒーを、シュルツの前に置いた。
シュルツはカップに口をつけ、無言でそれを飲み始める。最後のひと口まで飲んでから、ため息まじりに言った。
「では質問は、次で最後だ。……私の職業を。“検死官”の業務内容とその目的を答えてみろ」
「ロボット検死解剖官――通称“検死官”は、ロボット保護法第24条第1項に定められる職務です。不可逆的損傷に陥ったロボットの中でも、とくに事件性のある症例を解剖し、頭脳を解析して死因をさぐります。死因が外傷性破壊である場合には、加害者情報を頭脳から引き出して、連邦刑事庁ロボット危機管理局に提出します」
「では検死官の仕事は、なんの為にある?」
「ロボットを守るために」
「それは違う」
シュルツは間髪入れずに否定した。まるで、MARIAの答えを予想していたかのようだった。
「? あら……? でも、書架の本にはそう書いてありましたけど?」
「そんなものは、建前だ。検死は、ロボットを安全な奴隷として使い続けるために行うんだ」
MARIAは紺碧色の大きな瞳をしばたたかせ、首を傾げた。
「どういうことです?」
「本音と建て前。ロボット検死には二つの局面がある」
立てた二本の指を一本ずつ折りながら、シュルツは説明を加えた。
「表向きの理由は、ロボット破壊犯を器物損壊罪に問うことだ。だが検死の真の目的は、ロボットの頭脳に起きうる異常を解明するところにある」
MARIAは静かに耳を傾けていた。
「ロボットには感情など存在しないというのが定説だ。だが頭脳の不具合によってロボット工学三原則に逸脱し、人間への“反発感情”を持ったと考察される事例がごく稀にある。……十四年前のC/Fe事件はその最たる例だ。C/Fe事件の詳細は政府が機密扱いしているため、いまだに未解明だが。あの事件以来、人間はますますロボットを恐れるようになってしまった」
無意識のうち、シュルツは右腕をさすっていた。
「それでも人間はロボットに依存せざるを得ない。ロボット労働力がなければ、この社会は立ち行かないんだ。だから検死官という職業が生まれた。殺されたロボットの頭脳を調べて異常の有無を確認する。万一、異常があれば、頭脳をさらに徹底的に解明する。どのように造られどのような状況に置かれたロボットが、人間に“反発感情”を持ちうるのか。隅から隅まで記憶を洗い出し、ロボットの危険性を排除する。それが、検死官の仕事だ」
ロベルト・シュルツはMARIAに向けて、皮肉な口調でこう結んだ。
「……そんな私の職業を手伝うというのだから、君は非常に変わっている。本当に、私から検死を学ぶつもりなのか?」
MARIAはようやく理解した。これまでの会話は、MARIAに検死を手伝わせるかどうか判断するためのものだったのだ。彼女は緊張したようすで淡く頬を染めしながら、目を輝かせていた。
「はい。お手伝い、させてほしいです」
シュルツがうなずく。
「これまで社会のさまざまな業種で、人間からロボットへと労働力が置き換えられていったが。“検死”は今後も、人間がするべき業務でありつづけるだろう。そんな検死を、ロボットである君が行うというのだから、奇妙だな」
ため息をつきながら、重い腰を上げた。
「IV-11-01、君に明日から検死を教えよう。君は世界で初めての、“ロボットの検死を行うロボット”になる」








