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社会科教材室で地図を引っ張り出していた汐里は、がたがたっという音に振り返った。開け放してあったドアを閉めるような音。
案の定、ドアは閉まっている。荷物が多くなるからと開け放しておいたのだが、一体誰が、と思う。
教材室はいろいろなものが置いてあり、薄暗い。しかも、閉められていればとっさに怖いものだ。汐里は教材室の中を見回した。閉めた張本人が中にいるかと思ったのだ。教材室の中には隠れるような場所はほとんどない。
(いない……)
鍵をかけられる音はしなかったな、と思いながら、おそるおそる足を踏み出した。誰がどういうつもりで閉めていったのかは知らないが、怖がっているところを見られるのはいやだった。あとで、怖かった、と、燈子と話しながら笑い合うのはいいけれど。
抱えていた地図を床に置き、片手で抱えながら開いたもう片方の手をドアにかけた時、背後からがたっという音がした。今度こそ心臓が跳ね上がる。
振り返ろうとする動きを封じるかのように、後ろから羽交い締めにされた。
「な……っ」
もがき、声を出そうとするのも口をふさがれてしまう。息苦しさとせり上がってくるような恐怖に汐里は必死で暴れようとした。
(誰!)
声にならない叫びが体内で響いているようだ。こんな目に遭う覚えは全くない。朝の続きにしたところで、この力はどう考えても男の人だ。となればそれはないだろう。
(離せ!)
暴れてむやみに振り回した足のかかとが、相手のすねに当たったようだった。くぐもった声が耳に届く。一緒に、相手の息づかいも聞こえた。鳥肌が立つ。何でこんな目に遭わなければならない。一体どうして。
頭の中をぐるぐるとなぜばかりがまわる。そうしている間にも、ずるずるとドアから引きはがされ、教材室の奥の隅に引きずられていく。相手が何をしたいのか分からない。
汐里を羽交い締めにしている相手の腕が、喉に絡まっていた。徐々に息苦しくなってくる。汐里が暴れるのを抑えるために、無意識に力を込めていっているのだ。汐里の目の前がちかちかと光り始めた。
(イヤダ……)
「汐里、まだか?」
ドアが開き、ぽっかりと教材室の外の明るさの中に人影が現れたのは汐里が息苦しさに意識が遠のきかけている時だった。霞かけた目でその人影を見る。水神だった。
水神は目を見開いた。とっさに何が起こっているのか分からなかった。頭が真っ白になったといってもいい。が、直後に怒りがこみ上げてくる。暗がりの中でぐったりとなった汐里。それを抱える黒い人影。汐里を押さえつけている人物の顔は見えなかった。
「貴様……」
水神の喉から掠れた低い声が出る。それは怒りと共に冷徹さも含んでいた。汐里を傷つけようとした者に対し、どこまでも冷酷になれる、そんな響きが。
「穢らわしい手で汐里に触れるな!」
びりびりと共鳴して怒鳴り声が響く。
汐里を押さえつけていた手が緩み、何の頓着もなく汐里の体を放り出した。そうして、そのまま水神に向かって突進する。放り出された汐里に水神が気をとられた一瞬を縫って、その脇をすり抜けていった。しかし、水神はその顔をしっかりと見ている。
冴えた目が、冷たく細められた。
そうして、水神は汐里に慌てて歩み寄る。教材室に地図を取りに行っただけにしては遅かった。もう社会科の教師は教室に来ている。迎えに出されてよかったと思った。そして、教師が燈子でなく自分の方を指名してくれて。女の燈子では、どうなったか分からない。
「汐里、大丈夫か」
咳き込む汐里をのぞき込みながら、水神はせっぱ詰まった声をかけた。最初、この光景を見た時、心臓をわしづかみにされるほどに怖かった。また、奪われていくのかと。
咳き込む汐里の顔には血の気があった。それが水神を安心させる。目を潤ませ、涙を浮かべながら汐里はようやく落ち着くと、ゆっくりと起き上がってから深呼吸した。
「何なのよ……今の……」
あんな目に遭ってまず最初に文句を言うとは、と思わず苦笑いを浮かべながら水神が汐里に手をかして立たせたところに、いい加減本気で心配になったらしい社会科教師が顔をのぞかせた。ここでさぼったと思われない辺りが汐里と水神の日頃の行いの良さというのだろうか。
社会科教師は少し乱雑に散らかった教材室と、暴れたおかげで髪も制服もぐしゃぐしゃになっている汐里を見ていやな言葉がいくつも頭をよぎった。思わず額に手をやってしまってから、慌てて水神と汐里に駆け寄る。
「おい、どうした。どういうことだ?」
その慌てた声に汐里はちょっと待ってくれとばかりに手を挙げる。まだ息が整っていない。何回かゆっくりと呼吸を繰り返し、やっとの事で社会科教師、小野田に目を向けた。
その間に水神は自分の見たことを話している。
「迎えに来たら、汐里が誰かに押さえ込まれていました。声をかけたら慌てて逃げていきましたが」
「顔は見たのか?」
せき込むように小野田は尋ねる。自分が行かせたことでこんなことがあっては、自分の責任問題にもなる。それ以上に、校内でそんな問題が起こること自体が腹立たしい。それでは、安心して生活できる校内ではなくなってしまう。
しかし、水神はゆっくりと首を振った。
「すみません、動転していて」
水神も動転などすることがあるのか、と思いながら小野田は汐里を見る。髪と制服を整えながら、やっと落ち着いたようだった。自分が頼んだことから招いたことだ。申し訳ないとしか言いようがない。
ただ、見ていない、と言った水神の目が冷たく冴え渡っていることには、小野田は気づかない。水神の目はしっかりと、汐里に触れた不埒者の姿を記憶していた。
「神納、大丈夫か?」
「……大丈夫です。もう、大丈夫。すみません、遅くて」
先に謝られ、小野田は言葉に窮した。状況的にそれを責めることはできないのだ。それよりも、今の言葉はこのまま授業に出るつもりだということか。そちらの方が意外だった。
「いや、こっちこそ悪かった。頼んだせいだからな」
「いえ……先生、授業」
「出るのか?」
水神と小野田の声が重なった。呆れた声、と言っていいかもしれない。立ち直りが早いにもほどがある。教室に入るにも、あんなことがあった後では気持ちの整理も大変なのではないのか。
が、汐里にしてみれば教室の方が安心だった。あんなにたくさん人がいるのだから。それに、あまりこの話を広めて欲しくない。騒ぎになるのはいやだった。いかに自分が被害者でも、その中心にいて、人から色々と言われるのはいやだ。
「先生、この件、伏せておけませんか」
「何?」
問い返してから、何となく小野田も察した。それを望むならそうしてやりたい。
「校長たちには報告しないといけないぞ」
いやだ、と言うように汐里の目が上がった。水神も何か言いたげな目をしている。小野田は困ったように顔をしかめた。確かに、ここにいる者が口をふさいでいればすむ話なのだ。しかし、これですめばいい。次に何かあったらどうする。その時にこんなことが実はあったと言っても遅いのだ。それなりの対応をしたい。
しかし、事が事だけに、当事者の汐里がここまで嫌がっていてはどうすることもできないように思えた。後になって校長たちに知れれば、自分は責められるだろう。が、肝心の汐里の気持ちを汲んでやらなくてはいけない。小野田はそう思えた。
顔に苦笑が浮かぶ。自分のいうことが正しいのか正しくないのかは分からないが、少なくとも、一番怖い思いをした少女が少し、気を楽にできるのは確かなのだろう。
「分かった。でも、何かあったら困る。しっかり気をつけるんだぞ」
汐里が悪かったわけではない。それでも、気をつけろといわなければいけない。それがプレッシャーになってしまうかと思ったが、汐里は笑って頷いた。まだ、顔が少し引きつっているが。
三人で教室に戻ろうとしたところで汐里がしゃがみ込んでしまった。慌てて振り返る水神と小野田に、汐里がどこか苦笑いを浮かべた顔を上げる。
「足を挫いたみたいです……」
「だってお前……今まで何も」
呆れて言う水神に、汐里は笑ってごまかした。
「じっとしていたら分からなかったみたいで……。暴れて相手をけっ飛ばした時にでもやったのかな……」
呟くように言った最後の台詞に、思わず水神と小野田は顔を見合わせた。しっかり、やれる限りの仕返しはしていたというわけだ。まあ、それで仕返しと言うことはできないだろうが、一見おとなしそうでぼんやりしている汐里からはちょっと想像しにくい光景だ。
ただ、水神はすぐに納得して笑ってしまったが。
「保健室に行くか……。先生、みんなには地図が大きくてバランス崩してこけた汐里が足挫いたとでも言っておいて下さい」
「ちょっと……水神君?」
それはちょっと、いくら言い訳にしてもひどいんじゃないか、と顔をしかめる汐里に水神はにっこりと笑う。その顔に汐里は引きつった。
小野田の方は目を見開いている。水神の笑顔、などなかなか見れるものではない。確かにいつも笑顔は見せているが、ある一線から決して人を寄せ付けまいとしているように見えた。
しかし、汐里の方はその笑顔が怖い。いくぶん、怒っているのだ。
「で、歩けるのか?」
呆れたように尋ねる水神に、汐里は苦笑いを返した。
「肩かして」
「おんぶしてってやろうか?抱き上げていってやってもいいぞ」
「……恥ずかしいからやめて……肩でいいってば」
まったく、と言いながら水神は座り込んでいる汐里に手を伸ばす。ぐいっと引いて立ち上がらせながら、汐里に肩をかした。
「じゃあ先生、すみません。お願いします」
汐里はぺこっと頭を下げると、びっこをひきながら水神と並んでゆっくり廊下を保健室の方へ向かう。
その背中を見送りながら、小野田はやれやれ、と思いながら重い気分で転がっている地図を拾い上げた。