労働の後は居酒屋へゴー
私服に着替えて通用口を出る頃には、空に星が瞬いていた。
「あー、まだ塩素くせぇ…」
いわゆる漂白剤の匂いである。指や髪の毛に匂いが染み付いてしまっている。
「しばらく落ちませんよ、これは」
「それより作業着が斑になっちまったよ」
「元々汚れてたんだから、それは大丈夫ですよ」
「悲しくなるからそれは言うな!」
危険性がなくなってから、薬注装置を分解清掃して二時間余り。その後、手分けして後片付けと報告書の作成。途中、他の設備スタッフも遅番で来ていたが、やりかけの仕事を時間だから「はい、交代」と言うわけにはいかない。
幸い致命傷になるほどの故障はなかったから、一緒に床の清掃を手伝わされた件のスタッフも、厳重注意で済むだろう。組織上部署が違えば系統も違うから、その辺は我々の管轄外だ。まぁ古市に怒鳴られながら水搔きをしてたから、反省くらいはしてるだろう。
「どうする? 晩飯でも食ってくか?」
「そうですね。帰って作るのもかったるいし」
有難い事に給料は出たばかりだったから、馴染みの居酒屋へと足を向けた。
「あー、今日は参った」
「久しぶりにひどい目にあいましたねー」
「喉もまだいてえよ」
「大丈夫ですか? 酒なんか飲んで」
「いいんだよ、これは。アルコール消毒なんだから」
「ハイハイ」
温かいおしぼりで手を拭い、一夜干しのホッケに箸を入れる。
肉体労働後の気だるい身体に、冷たいビールが染みわたっていくのが心地良かった。
「でもまあ、大事に至らなくて良かったけどな」
「ですねー」
「死ぬかと思ったぜ」
「大体、古市先輩はなんでも闇雲に突っ込む癖があるし」
「知るか! 体が先に動くんだよ!」
「あれでしょ、2,3年前に蒸気管が吹いた時も、一人で走ってって…」
「やな事覚えてるなあ、お前…」
心底嫌そうに顔をしかめるのが面白い。
「あの時も煙もくもくでしたもん。忘れられませんよ」
「どうせ、誰かがバルブ閉めなきゃならなかったろうが!」
「まあ、そうなんですけどね」
つい、にやにや笑ってしまったから、からかわれているのが分かったらしい。
ぐいっと酎ハイをあおると、不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。
「怒ったんですか? やだなあ、軽い冗談ですよ」
「うるせい」
本気で拗ねている。こう言うところが結構可愛いなんて言ったら、真っ赤になって怒るんだろうな。言わないけど。
「古市先輩」
「………」
「先輩、聞いてます?」
「………」
「おっとこんな処に特大モンキーが」
「何でだよ!」
特大サイズのモンキーレンチもパイレン同様殺傷能力充分である。もちろん、こんなところに持ち歩いているわけは無いけれど。単なるハッタリである。
「あ、やっとこっち向いた」
「~~~~~!!!」
「昼間、屋上で」
「あ?」
「何か言いかけたでしょ? あれ、何だったんですか?」
「………」
「マイナスドライバも使いようによっては」
これは本当に持っていた。目とかに突き刺すと結構痛いはずだ。
「何でそんなもんが鞄から出てくるんだよ!」
「護身用です。一応、女子ですから」
ニッコリ笑った私に、古市は大きくため息を吐く。
マイナスドライバを目の前に差し出したのが功を奏したのか、古市はぽつりぽつりと話しだした。
初めから素直にしゃべりゃ良いのに。
「…だからさあ、俺は結局こう言う裏方仕事が好きなんだなあ、と思って…」
「ふい?」
「地味だし! こう、誰かに目の前で喜ばれる様な仕事でもないけど…! なんて言うか…それでも、屋上からうちのビルを見下ろしたり、帰りに見上げたりすると…」
「すると?」
「………」
「すると?」
「その、つまり、…俺達が、このビルを守ってるんだなぁ、とか思ったりして…」
照れているのか、目元がほんのり赤くなっている。
「古市先輩…」
「今日みたいのは勘弁だけどな」
仏頂面なのも照れ隠しだろう。
「………」
「笑いたきゃ笑えよ!」
「あははははは」
「笑うな!」
「冗談ですよ。笑いません」
「今、笑ったくせに!」
「忘れて下さい」
クサい事を言った自覚はあるのだろう。耳も真っ赤になっているのは、アルコールのせいだけではあるまい。
それでも、言わんとしている事は自分にだって分かる。
建物中を走る配管や電気コード、安全を守る幾重ものシステム。皆が意識せず何気なく使っている様々な設備が、当たり前に動く事が我々の大事な仕事なのだ。
「かっこいいですよ、古市先輩」
「うるせー」
「本当です」
「失言だった! 忘れろ! おっちゃん、泡盛ロックで!」
自棄になって酒をあおるこの人の、可愛い事と言ったらどうしよう。
「良かったですね」
「何がだよ」
「失恋の痛みからは立ち直ったようで」
「はぐっ!!!」
胸を搔き毟るようにして突っ伏すところを見ると、うっかり傷口を広げてしまっただろうか。
「すみません、今のも忘れて下さい」
「お前なぁ…」
「今日は奢りますから! おっちゃん、ジャーマンポテトとイカリング追加!」
「へい!」
いつもの親父が景気良く返事した。
「そもそも、お前が!」
「何ですか?」
何となくふわふわと楽しいのは、酒のまわりが早いのだろう。空きっ腹に結構飲んだしな。
「…まだ落ち込んでたら、慰めてくれるとでも言うのかよ」
こちらを見ずに、ぼそぼそと古市がすごい事を言った。




