日常のひとコマ、あるいは日常的な闘い
「一真、今日は打ち込みはいいから、古市の手伝いを頼む」
「分かりました」
設備課課長、坂下さんから直接声がかかったのは、データを打ち込んでいた午後の事だった。監視パソコンが収集している日々のデータを打ち込んでまとめるのは、通常業務ではあるが、緊急性はない。
「悪いな。屋上の冷却塔の動きが悪いから、一緒に見てくれ」
「はい」
課長に返事をしてから振り返って古市を見ると、彼は作業着に着替えて、必要な工具を鞄に詰めている。
「先輩、こっちも着替えた方がいいですか?」
「いや、一真は制御盤の方を頼む」
「了解」
必要な事だけ言うと、さっさと行ってしまった。その態度がいつもより素っ気ないと感じるのは気のせいではないだろう。
(まぁ、仕事に支障を来すほどバカじゃないだろ)
あまり深く考えてもしょうがないので、そのまま私は制御盤のある機械室へと向かった。
「結局、フロート弁の固着ですか」
内線用のPHSで連絡を取り合いながら機械を動かしつつ、不調の原因は水位調整部品の動作不良だと判明した。
「おう。フロートのアームが固まっちまってた。三方弁じゃなくて助かったな」
「電気部品の取り寄せとなったら、また金かかっちゃいますもんね」
「課長の頭がまた薄くなっちまう」
ニヤリと悪態を付けるのは安心したからだった。とかく設備は金喰い虫なのだ。小さな部品でも、ものによっては五桁から七、八桁簡単にかかってしまうし、だからと言って生産性があるわけでもないから、自分たちで直る範囲ならそれに越した事はない。なまじ最近色々劣化の時期が重なっているので、尚更である。
合流してアームの固着を直し、ついでに他で使用しているフロート弁の正常動作も確認して作業を終えた。
冷却塔のある屋上は、普段施錠されているので人気はない。マスターキーでいつでもどこでも入れるのは、設備の特権と言える。
外壁に並び、手すりにもたれて休憩しながら、ふと古市は胸ポケットを探って舌打ちした。タバコだと気づいて、自分のを差し出す。恐らく着替えた制服のポケットに入れっ放しなのだろう。
古市は、少し迷った素振りを見せたが、何も言わず受け取った。
ライターの火を差し出すと、旨そうに煙を大きく吐き出す。
「つくづく、屋上だけは最高だよな、うちのビル」
「ですね」
地上80メートル程の屋上は、この辺りでは一番高く、視界を遮るものは何もない。今日は天気も良く、風が心地よかった。
「…一真ぁ」
「何ですか?」
「………」
「先輩?」
「俺さぁ…」
「はい」
「…いや、何でもない」
「………」
「待て! 分かった! 言う! だからそのパイレンを下ろせ!」
うちで使う最大のパイプレンチは、全長50センチくらいでゆうに5、6キロはある。殺傷能力は充分と言えるだろう。言いかけて止められると、精神衛生上とても気持ち悪い。
「…つまり、その、俺は―」
古市が何か言いかけた時、胸ポケットの内線PHSが鳴った。
『古市、動けるか?』
受話器越しにも課長の大きなだみ声が響いてくる。
「大丈夫ですけど、何かあったんスか?」
『プールのバイトが薬品間違えやがった。茂木は別件で点検口に潜ってて手が離せん。6階の濾過機室行ってくれ』
「! 分かりました!」
古市の顔付きが一変する。緊急事態の匂いをかぎとって、咄嗟に身構えた。
「一真、6階だ!」
「了解」
詳細は移動しながら聞けばいい。行動は迅速且つ的確が基本。手元の道具を素早く纏めると、私達は屋上階段からキャットウォークを駆け降りた。
トラブルは多発する。
何もない時の設備課は暇なくらいだが、何故か起こる時は一斉に起こる。それが連動か単発かは別として。他の設備員は、電気配線の不調に対応しているらしい。
我々が駆けつけた時、機械室は白っぽいガスが充満していた。
入り口で、スポーツクラブのスタッフジャージを着た若い男が泣きべそをかいている。
「古市さん、すいません、俺…清澄剤と塩素剤間違えて…」
うわ、塩素とは最悪な。家庭用の洗剤にも「混ぜるな危険」と書かれるありふれた危険薬品である。即ち、有毒性のガスが出ていると言う事だ。皮膚摂取はないだろうが、目に軽く刺激痛があった。
「分かった。俺が入るからドア閉めてろ。一真は現状報告!」
「先輩、マスク取ってきます」
「間に合わねぇよ!」
私の制止も聞かず、首にかけていたタオルを顔に巻くと、古市はそのまま飛び込んだ。
「ったく! あの人は!」
大きく舌打ちを打つと、急いで取って返し、監視室に置いてある簡易防護マスクとアイバイザーを取ってくる。
「先輩、これ!」
「おう! 薬注装置はストロークで止めた。あとは希釈すんぞ!」
「了解。課長には説明して、ガラリの強制排気は頼んできました」
「客に影響は?」
「今のところ大丈夫です」
間違えて入れられたのは清澄剤のタンクである。塩素の薬注装置は止めていないから、プールの塩素濃度は下がっていない。中央でデータのモニタリングもしてるから、何かあれば連絡がある筈だ。幸い機械室はバックヤードにあるから、ガスが客側に流れる心配もなかった。表にも機械室はあるから、そちらならやばかっただろう。
清澄剤に関しては、常注量が低いから止めても急に水が濁る事はないが、混ざった薬が配管やチューブを傷めたら、おおがかりな部品交換が必要になってしまう。中和剤なんてないから、こうなったらひたすら水で薄めて流すしかない。床はコンクリで排水口もあるから、水浸しになっても問題はなかった。
奥にある水道からホースを引っ張って、タンクに水を流す。開栓器を全開にしてからホースを固定し、制御盤に異常がないのを確認してから、ガスが薄まるまで一旦退避し、再び安全を確認して機械室に入れる様になるまでは結局一時間を要してしまった。
トラブルは多発します。本当です。




