幽玄の月下美人(ゆうげんのげっかびじん)その1~つぼみ~
【あらすじ】
開業の祝い花として贈られた月下美人を目にした私は、頭の片隅にある、忘れてしまっていた遠い過去の、淡い恋の記憶を取り戻した。
夢のような一夜の逢瀬で旅立った彼女が、再び私の目の前に現れたとき、心の奥に押し隠した、苦い後悔もまた鮮明に脳裏によみがえった。
幽玄の彼女は自責の念が創り出した幻か、それとも現実の存在か?
やっと、念願の自分の店が持てた。
今日は記念すべき、その開業の日だ。
「お届け物で~~す、ハンコをここにお願いします」
「あっご苦労様です」
店先で配達員から品物を受け取った。
友人たちが贈ってくれた祝い花は、胡蝶蘭や百合や薔薇など、豪華絢爛な花を賑やかにアレンジしたものが多い。
だが、今受け取ったこの植物は、緑色の昆布のような幅広で長い葉が、十枚ほど土から直接、生えているように見える、一見すると奇妙な植物だった。
『月下美人・・・・だ』
サボテンの仲間で、夏に、たった一夜だけ咲く花。
葉のように見える葉状茎の縁にある刺から、蛇の頭のような蕾がのびダランと下に垂れていた。
月下美人の花は、開花すると20㎝ほどの大きな花冠になる。
透けるように白い花弁が幾重にも重なり、それぞれが優美な曲線を描き放射状に並ぶ。
夜闇に紛れ、誰に見せるでもなく静謐に絢爛な美に心惹かれ、魅せられ、そのもっと奥に何があるのか?と興味を掻き立てられ、視線を誘導される。
花の中心にはたっぷりと花粉を含んだ雄蕊が輪状に並び、中央には雌蕊がニュッと前に飛び出し、潤んだ先端をイソギンチャクの触手のように広げ、受粉を切望している。
花からは強い芳香が漂い、甘い蜜の予感がする。
朝には、花弁を閉じ、雌蕊に他家受粉が起きていなければ、萎れ、疲れ果てたように散ってしまう。
皺のよったシーツの上に、しどけなくのびた、透けるように白い、蒼い血管の浮いた、華奢な腕を思い出した。
あれは何年前だったか、ある植物園の特別展示で、月下美人の開花を見る機会があった。
その日は汗でシャツが肌にべっとりとくっつくぐらい、蒸し暑い夜だった。
肥料や花の芳香の混じった有機的な匂いに、生物たちの生死を賭けた戦いが、まさにこの刹那にも、木の洞や葉陰といったそこかしこで繰り広げられている気がして、ピリッと身が引き締まった。
様々な地域の植物が一カ所集められている違和感に、まるでアンリ・ルソーの描いた『蛇使いの女』の世界へ迷い込んだような錯覚を覚えた。
初めて見る月下美人の蒼白い花弁の、諦めたような無気力な儚さの裏に秘めた、貪欲な生命力を剥きだしに誘う強い芳香に、矛盾した面白さを感じていると、か細い女の声で
「コウモリではないのに、なぜ私たちはこの花に惹きつけられるのかしら?」
声の方を見ると、痩せた女性が立っていた。
髪は後ろでお団子にして、夜なのにつば広の白い帽子をかぶり、足首までの長さの、白い袖なしのワンピース姿の女が、誰にともなく話しかけたようだった。
「一夜で受粉しなければ枯れて死んでしまうという必死さが、見る者にも伝わるからじゃないかな?」
私が答えると、その女性は不思議そうに首を傾げた。
「あのぉっっ!!これ下さい!」
私の夢想を、ハキハキと甲高い少女の声が打ち破った。
「は、はいっ!すいません!」
ハッ!と我に返り、少女の差し出す日日草の寄せ植えの会計を済ませた。
「ねぇ、月下美人、気に入りました?お花屋さんの開業祝?にお花を贈るってあってます?」
少女は微笑みながら、イタズラが成功した子供みたいに楽しげに呟いた。
彼女の顔をよく見ると、透けるような白い肌に、丸く秀でた額、薄茶色の長い髪を後ろで束ねた姿は、瓜二つだった。
甘ったるい強い香水の匂いまで同じなのに、リボンとベストにプリーツスカートの、高校生のような制服姿に違和感があった。
ズキンッ!
こめかみに刺すような痛みが走った。
薄茶色の緩やかに波打つ長い髪が、白い枕カバーに放射状に広がり、その中心にある白い生気のない顔には、しどけなく開いた唇が赤く潤んでいた。
『彼女のはずがない。あの頃、彼女はすでに二十代半ばだった。』
ズキズキと刺すような痛みを和らげるために、目頭をつまみながらその少女に向かって
「あの、少し体調が悪いので、今日はもう店を閉めようかと思います。」
少女は一瞬表情を曇らせ口の端に笑みを浮かべ
「じゃ、帰ります!・・・・でも、また来るかも!」
そういうと、クルリと背を向けて帰っていった。
その夜、寝室の枕元に置いてある月下美人を何気なく見ると、蕾が少しずつ上を向いてきたようだった。
『あと数日で開花しそうだな』
眠りにつくと、夢に彼女が出てきた。
「私、月下美人のように一夜の逢瀬のあと、枯れて死んでしまってもいいの」
髪の色と同じ、薄い茶色の、生気のない物憂げな瞳で私を見つめながら彼女が呟いた。
ドクッ!
目覚めると、動悸が激しく息苦しい。
『なぜ?!
・・・・なぜ、私だけが生き残ってしまったんだっ!!』
(その2へつづく)




