胞状奇胎(ほうじょうきたい) その1~池~
「連日の記録的な猛暑です。異常な暑さにお気を付けください」
この言葉が、ただでさえ苛立つ神経を逆撫でする。
真夏の容赦ない日差しを浴びた途端、キーンと耳鳴りがしたと同時に、見えない硬質な膜が、私と外気の間に張り巡らされたような気がした。
外界を分厚いレンズ越しに見ているかのように現実感が乏しく、熱気を放つアスファルトの路を、宙に浮かんだ魂がフワフワと雲を踏むような足取りで歩いていた。
この歳になって親に頭を下げてまで借りた金を、指定された口座に振り込んだところだった。
昔、通った小学校の近くには、小さな林がある。
木陰に入れば、少しは涼しかろうと、寄り道してその林に入った。
広葉樹が茂る林の奥に、小さな池があった。
一抱えの大きさの岩で縁を囲ってある、人工の池だ。
向こう岸までは五メートルぐらいで、池は濃い緑に濁っており、浅いはずだが底までを見通せない。
先が見えない、とは、まるで今の私のことだ。
「40万でいいわ。
ひとりで行くから。
あなたは付き添ってくれなくていい。」
幼いころからの友人の鞠子と、たった一度の関係で・・・・。
ならばそういう運命じゃなかったのか?
ふと顔をあげると、池の向こう岸に、人影が見える。
真っ直ぐな白い幹のそばに、白いワンピースを着て、肩まである長い黒髪の、こちらを向き佇む女。
まるで、ぼかしがかかったかのように顔の細かい部分が見えない。
あまりにもありふれた『幽霊女』だな。
陳腐な見た目に、思わず微笑みそうになった。
一体誰のイタズラだ?
超自然な怪奇現象など非科学的なことは、一切信じる必要に駆られず生きてきた私は、その陳腐な幽霊女の正体を確かめたくてたまらなくなった。
『きっと木の幹やコケのたぐいを見間違えたんだろう』
足早に池の周囲を歩き、幽霊女のいた場所に到着した。
もちろん、何もない。
暑さのせいで、脳が誤作動を起こした結果の幻覚だろう。
見るともなく池の中に視線を落とすと、バスケットボールぐらいの大きさの半球形の固まりが浮かんでいる。
緑色の水の中に、茶色く濁った透明の半球形で、表面に白っぽいブツブツした斑点がある、大きいクラゲのような物体。
集団で産んだカエルの卵か?
理科の授業で見たカエルの卵を思い出した。
『集合体恐怖症』(小さな穴の集まりやブツブツしたものに、強い嫌悪感を抱く症状)ならトラウマになるやつだ。
数十個の透明なゼリー状の丸いツブツブの、ひとつずつ全てに、黒い丸いツブツブが入っている。
その一つ一つがカエルの胚で、成長するにつれ、球体にくびれができ、細長くなり、頭や尾ができ、やがてオタマジャクシの形になる。
数十個の全てが、数十匹の生命である。
突然、眩暈を覚えて、一刻も早くそこを立ち去りたくなった。
ネットで調べると、手術費用は10万ぐらいが相場のようだが、40万とはどういうことだ?
いや、病院により手技が異なる、など何らかの理由で費用に差が出るんだろう。
連休を利用した帰省だったので、その日は実家に泊まった。
翌朝、目が覚めると、なぜかあの幽霊女が気になった。
真昼の炎天下、昨日とちょうど同じ時間になるように、またあの池へ向かった。
池の縁に立ち、対岸を眺める。
あぁ!!やっぱりだ!!
またあの、白いワンピース、長い黒髪の、表情がぼやけた女が立っている。
全体的に白い印象、陰気な長い黒髪、判別のつかない顔の細かい部分。
少し違和感があった。
昨日は何も感じなかったが、ワンピースの肩から、腕があるべき場所に、腕がない。
ワンピースの裾から、脚があるべき場所に、脚がない。
だから何だっ!!
今日こそ正体を確かめてやる!
躊躇なく、ドシドシと草を踏み荒らし幽霊女に近づく。
その場所に着くと、やはり何もない。
また幻覚を見たのか?
池の中には、茶色く汚く濁ったゼリー状の、大きいクラゲのようなブヨブヨした塊が浮かんでいた。
水中のヘドロを集めたような、醜い塊。
なんて汚らわしいんだ!
もし鼻を近づければ、肉塊と血が入り交じり腐ったような、鼻が曲がりそうな臭いがしそうだ。
眩暈と吐き気を催し、逃げるようにそこから立ち去った。
明日の朝にはここを発つ。
もう二度とアレを見なくて済む。
(その2へつづく)