第7話:「静かなる頂(いただき)で、君の寝息を」
春の遠足。
クラス全員が浮き足立つ年に一度の小イベント。
……なのに、どうして俺は登山道を黙々と登っているんだ?
「空也くん、どう? 登山コース、いい選択だったでしょ?」
そう言ってくるのは、我がクラス副委員長にして静寂の魔女、霧島志乃。
いや、俺は“市内の美術館見学”って意見を出したはずなんだけど?
でもその意見は議事録にも書かれず、無事にガチ6時間登山コースが決定した。
どうして?
それは、霧島志乃が副委員長だからだ。
.......…おれは委員長なのだが。
「というわけで、バス内は特別に“音、許可します”。」
出発前、志乃が不意に言い出した。
許可……って、何? 空気?
行きのバスは盛り上がった。
カラオケマイクが回され、イントロと笑い声が混ざる。
普段は音を監視している志乃が、今日だけ「音OK」だなんて。
みんな不思議がってたけど、志乃の計画の中ではそれすら前菜だった。
目的は──バス帰りの“静寂空間”を手に入れること。
そして迎えた下山後。
疲労困憊のクラスメイトたちは、帰りのバスで即・就寝。
薄暗い車内、微かなエンジン音、眠りに沈む生徒たち。
……でも、問題がひとつだけあった。
「グォ……ぐるるる……っ」
イビキ。
しかも複数。
志乃の眉が、ピクリと動いた。
空也の寝息が、かき消されていく。
それは彼女にとって、世界のノイズに愛する旋律が飲まれていくようなものだった。
志乃は、無言で立ち上がる。
片手に自作の“静寂ティッシュ”を持って。
「すみません、ちょっと……起きてくださいね」
眠る生徒の肩を、静かに揺らす。
ひとり、またひとり。
次々に、“音の発信源”が消されていく。
しかし最後の障害が、明美だった。
クラスのムードメーカー、ちょっと大きめの声の女子。
そして、全力イビキ型の睡眠魔獣。
志乃は明美の隣に、音もなく腰を下ろした。
明美のイビキは、一定のリズムを刻んでいた。ドゥ…ゴゴゴ…ピーヒャラ…という複雑な変拍子。
志乃はしばらく、その“音楽”に眉をしかめた後、自作の静寂ティッシュを取り出す。
しかし、それを鼻にそっと当てようとした瞬間――
明美:「グバァァァ!!」
イビキがフェーズ2に進化した。
志乃は一度、目を閉じた。呼吸を整えた。瞑想でもしているかのように。
そして次の瞬間、明美の耳元で、ありえないほど滑らかな囁きが響いた。
「静かにできないなら……起きててくださいね?」
その声は、ノイズキャンセリングの最終兵器のようだった。
明美はガバッと起き、志乃と目が合う。
志乃は笑っていた。声もなく、完璧な口角のカーブだけで。
明美「ご、ごめん……私、寝てた……?」
志乃「はい。でも、もう大丈夫です」
明美「……何が?」
志乃「もう、“あなたの音”は聞こえませんから」
明美はそれ以降、寝るのが怖くなった。
明美は以後、一睡もできなかった。
空也の寝息は、再び澄んだ空気の中で聞こえ始める。
志乃は満足げに、席に戻った。
バス車内は、静かだった。
でもそれは、安らぎの静寂ではない。
イビキを咎められた者たちはうつろな目で車窓を眺め、
担任教師は「俺、なんで登山許可したんだろ……」と一人で後悔していた。
だけど。
志乃だけは、静寂の中で満ち足りたように目を閉じていた。
静かに、空也の寝息だけを聴きながら――。
*
遠足アンケートより:
「もう二度とこんな遠足はゴメンです」
「一瞬たりとも鼻がすすれなかった」
「ティッシュを断ったら、目を見開かれた」
志乃のアンケート回答:
「音の管理は、ほぼ理想通りに進行。次回は登山時間を7時間に伸ばしたい。」
静寂の支配者は、今日も着々と、クラスの“音”を掌握していく。