第6話:「鼻鳴(びめい)様と、許された僕」
春の風が吹き抜ける校門前。
しかし、今年は風がなぜか冷たい。
まるで“誰かの息”みたいに、首筋をなぞっていく。
「はい、ティッシュ! 今日も清らかな音でね!」
霧島志乃が“ポケットティッシュ”を配り始めて、もう1週間。
……誰もが受け取っていた。断れなかった。
いや、断った生徒は……いなくなった。
「おはようございます」
「志乃ちゃん、今日のやつ……また新しい香り?」
「……なんか、鼻かむと視線が集まる気がするのは気のせい?」
「え、志乃ちゃんの前で”鼻すする”ってアウトなんだっけ?」
「なんか最近、みんな”鼻すする”の我慢してない?」
志乃が配るティッシュは、ただの”ポケットティッシュ”だ。
でも、みんな少しずつ、“それ以外”で鼻をかむのが怖くなっていった。
誰も決めていないのに、志乃のティッシュ以外を使うと妙な空気になる。
誰かが志乃の前で鼻をすすると、妙に重い空気が教室に流れる。
みんなが一斉にそっちを見る。「静かにしなよ」って視線。
それがだんだんエスカレートして、
「鼻鳴様」って、誰かがふざけて言い出した。
笑いながらも、みんなもう志乃の前で鼻をすすれなくなっていく。
何気なく教室で鼻をすすると、その瞬間、クラス全員の視線が集まるようになった。
「今、聞こえた?」
「……あれ、志乃ちゃんの前で鼻すするのってダメなんだっけ?」
──どこからともなく「鼻音を立てると“彼女”が来る」という噂が流れ始める。
今や校内では、誰も志乃の前で鼻をすすることができない。
誰かがうっかりやってしまうと、クラス中が妙な沈黙に包まれる。
「やば、また“鼻鳴様”来るかもよ……」
冗談めかした声と、それを真に受けてビクつく生徒たち。
本気で信じてるのか、それとも空気を壊したくないだけなのか――。
誰も彼女を本気で怖がっているとは言わないが、
気がつけば「志乃のティッシュ=音の封印」というルールが生まれていた。
そんな空気が、じわじわと校内全体を支配しつつある。
春が終わる頃、生徒たちは徐々に気づき始める。
本来なら、もうティッシュなんて必要ないはずなのに。
なのに、まだ配られている。
毎朝。志乃の笑顔とともに。
そんなある日――。
昼休み、静まり返った教室に、
「……へっくしょい!!」
と、くっきり響くくしゃみの音。
クラス全員の視線が、スローモーションみたいに音の主へ向く。
志乃の視線も、そちらへ。
だが、そのときだけ――志乃の表情が、ほんの一瞬だけふわりと綻ぶ。
佐々木空也。
この学校でただ一人、
霧島志乃に「音を出してもいい」と思われている人間。
「……ごめん、花粉が残っててさ」
空也はいつものように自分のハンカチで鼻をかむ。
その音が、教室の静けさにやけに澄んで響く。
志乃は、ほかの生徒に配る時とはまるで違う、優しく柔らかな声で、
「空也くん。よかったら、これ」
と、彼のためだけに用意したようなティッシュを差し出す。
――それは他の誰にも見せない、特別な笑顔。
でも空也は首を振る。
「ううん、自分のがあるから大丈夫」
志乃はそれ以上勧めない。ただ、静かに彼の返事に微笑むだけ。
そのやりとりに、周りの生徒たちが一瞬だけ息を呑む。
「あれ、志乃ちゃん、空也くんには怒らないんだ……」
「むしろ嬉しそう……?」
実は、志乃は空也の出す音だけが特別だった。
空也のくしゃみも、鼻をかむ音も――余計な雑音のない、澄んだ音を全部ひとりじめしたい。
だからこそ、校内の“雑音”をひとつ残らず消そうとする。
「清らかな音で、お願いしますね」
今日も志乃は言う。
でも、その声は空也にだけ、どこか甘やかすように響く。
教室の片隅で、誰にも許されない音が、今日もただ一人にだけ許されている。
志乃にとって、“静寂を破る特権”は空也のものだった。