第一話:「ぷぅ~」
春の風が教室のカーテンを揺らす。
静かな朝。新しい年度。少しだけ背伸びしたクラスの空気。
俺――佐々木空也は、その空気の中に、そっと溶け込んでいた。
目立たず、話さず、干渉せず。
そうして十六年、それなりに生きてきた。
なのに。
「霧島志乃さん、転校生です。仲良くしてあげてくださいねー」
ホームルームで紹介されたその少女は、
完璧すぎて怖いくらいだった。
黒髪ストレート。白い肌。細い指。
制服はまるでモデルが着こなしているようで、
目を伏せたその表情からは、謎めいた静けさが滲んでいた。
彼女は空いていた俺の隣の席に座った。
クラス中の視線が、俺に突き刺さった。
「このやろう」「爆発しろ」などの念が、無言で伝わってくる気がした。
俺は机に視線を落としたまま、地味に息をひそめた。
それで終わればよかったんだ。
それが始まりだった。
---次の日の朝。
担任が言った。
「じゃあ今日の号令は、佐々木くんと霧島さん、お願いね」
嘘だろ。
よりにもよって、昨日できたての“神と平民”コンビで号令?
俺は立ち上がる。
隣で、霧島もしずかに立つ。
「起立、礼、着s──」
ぷぅ~~..…。
完全なる放屁。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、爆発が起きた。
教室全体がドッと湧いた。
男子も女子も「出たぞ!」「マジか!」と笑い転げる。
先生も黒板に背を向けて、肩を震わせてる。
俺は笑えなかった。
あまりにも意表を突かれたのと、
何より、その音が発せられたのが霧島志乃だったから。
ちら、と横を見る。
霧島しのは、真っ赤だった。
顔面から首元まで真紅に染まって、
うつむいたまま、肩を小さく震わせていた。
それだけなら、まぁ、事故だと済ませられた。
しかし。
彼女は俺に目を向けた。
その瞳は、期待にきらめいていた。
なぜか。
「……笑ってくれるって、思ったのに」
誰にも届かないような声で、ぽつりと。
俺は動けなかった。
いや、何なら息すらできてなかった。
放課後。ほとんどの生徒が帰ったあと。
鞄に教科書を入れようとしていた俺の背後に、気配が立った。
「空也くん」
その声に、心臓が一瞬だけドラムロールを打つ。
振り返ると、そこには霧島志乃。
窓からの光で逆光になって、表情が読めない。
「ねぇ……どうして君は、笑わなかったの?」
声は穏やか。
でも、言葉の刃先は鋭かった。
俺は言葉に詰まった。
何か気の利いた答えを出そうと、口の中で考えた。
でも何も出てこなかった。
「みんな笑ってたのに。先生もこらえてたのに。
……私、けっこう頑張ったのにな」
「いや、頑張ったって、なにを……?」
「今日の“ぷぅ”、湿度もタイミングも完璧だった。
練習、したんだよ?」
“練習”って何!?
「それでね……笑ってくれなかった君が、
いちばん印象に残ったの。
だから――気になってるの。どうして?」
沈黙。
世界が、“音”を待っている。
俺の脳がぐるぐるしてる間に、彼女は一歩近づいた。
制服の袖が俺の手に少し触れる。
「……君のために、もっと音を工夫してみるね」
彼女は、それだけ言って帰っていった。
教室にひとり残された俺は、
自分が今、なにかの“儀式”に巻き込まれたような気がしてならなかった。
【To Be Continued】