第17話:「見ーたーな♡」
午後の授業が終わったあと、俺はなぜか気になって、志乃の机をちらりと見た。
彼女は既に教室を出ていて、周囲に誰もいなかった。
(……あれ?)
机の中に、薄い冊子のようなものが見えた。
『Silent Layer 取扱説明書(※個人制作/非公式)』
表紙には、口に✕マークの絆創膏を貼った謎のキャラ「声なしくん」が、親指を立てて笑っていた。
怖いよ。普通に怖い。
(……なんだこれ)
思わずページをめくってしまう。
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◆はじめに こんにちは、開発者の志乃です。
本アプリは、「世界の雑音を減らしたい」という個人的な理想をベースに開発されました。
つまり、うるさい人の声を消すためです。
◆対応機種
・スマートフォン(※ただし持ち主の倫理感は対応していません)
◆主な機能
・リアルタイム音声除去機能(Ver.βなのでたまに心も削れます)
・音声合成(使用者の“本音”を自動生成!たぶん悪意多め)
・モブ騒音最適化(クラスメイトのざわめきを90%カット)
◆注意事項
・副作用として孤独を感じる場合があります。
・周囲の人間関係が破壊される可能性がありますが、志乃は一切の責任を負いません。
・“心が強い人”以外には推奨しません。あと、レンくんにはちょっと強すぎたかも。
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俺はそっと冊子を閉じた。
(マジで、趣味悪いなこの子……)
でも、ちょっとだけ笑ってしまった。
(「たぶん悪意多め」ってなんだよ……)
そう思って笑いかけた瞬間――
「見ーたーな♡」
背後から不意に声が飛んできた。
「うわっ!!?」
俺は思わず、椅子をひっくり返しそうになった。
振り返ると、そこに志乃が立っていた。
いつもの吸い込まれるような瞳で、口元だけはいたずらっぽく笑っていた。
「それ、非公開資料なんだけどなぁ~? 盗み見って、悪い子だよ?」
「ち、ちちち違う! たまたま、机の中に……入ってて……っ!」
「へぇー。たまたま、見ちゃったんだ?」
「うん、いや、あの……その……ごめんなさい!」
両手を上げて謝った俺を見て、志乃はくすっと笑った。
「ふふ、まあいいけど。空也くんなら、特別に許してあげる」
その声は、いつもよりほんの少しだけ、楽しそうに聞こえた。
放課後。
靴箱の前で、俺は改めて彼女を待っていた。
教室で聞くのは怖かった。みんなの前で、彼女の目を見る勇気がなかった。
でも今は……聞かなきゃいけない気がした。
やがて足音が近づく。
「空也くん?」
いつもと同じ声。けれど、今日はそれが妙に遠く感じた。
「……志乃、レンのこと。何かした?」
彼女は少しだけ首をかしげた。
「どうして?」
「……声が、出なくなってて。しかもスマホから、変な声が勝手に流れて……あれ、あのアプリ、志乃が……」
志乃は少しだけ沈黙して、ふっと笑った。
「ううん、私は何もしてないよ。ただ――“設定”はしたかも」
「設定って……何を?」
「レンくん自身が選んだ“言葉”だよ。彼が普段どんな声を出してるか、どんな音を立ててるか、私はちゃんと録音してたから。ね、自然でしょ?」
そして志乃は、まるで独り言のように、ぽつりと続けた。
「……発話時の周波数傾向って、無意識に個人差が出るんだよ。
特に怒りや優越感を感じてるときって、声帯の収縮が変わって、波形も尖ってくるの。
面白いよね、音って」
彼女の目は、どこか遠くを見ていた。まるで、実験の経過を確認する研究者のようだった。
「彼の“声”を元に、彼らしい“音”をつくっただけ。
レンくんの“本音”、みんなにちゃんと伝えてるだけだよ」
俺はその言葉に、どこか引っかかりを覚えた。
普通なら怖いはずだった。異常だと思うべきだった。
けど、志乃の口調はあくまで静かで、優しかった。
「空也くんは、大丈夫だよ。ちゃんと“綺麗な声”だから」
その一言が、胸にすっと入り込んできた。
(……俺の声は、残してくれる)
レンとは違う。
そう思った瞬間、自分でも気づかぬうちに、少しだけ息が楽になっていた。
(……いや、何を安心してんだよ)
頭のどこかではそう突っ込んでいたけど、
心の奥では、志乃に“選ばれている”ことを喜んでいる自分が、確かにいた。