第13話:「音を喰む」
昼休み。
教室には弁当の匂いと、箸の音、笑い声が飛び交っていた。
俺、佐々木空也は、弁当を開けている最中だった。
隣の席では、霧島志乃が俺の水筒の蓋を開けていた。
もう当然のように。
「ふむ……今日はレモン水? 昨日のより硬水寄り……声が引っかかりそう」
「……なんで分かるの」
「喉の鳴りが1トーン上がった。
あと、空也くんの水筒、最近開けるとき“キュッ”って鳴らないんだよね。
パッキン劣化?」
「お前、音の呪いかよ」
そんな会話をしていた矢先──
斜め後ろの席から、微妙な空気をまとった声が聞こえた。
「……ねえ、聞いた? 霧島さん、前の学校でヤバいことしてたって」
その声に、別の女子が反応する。
「うん。うちの姉が前の学校の近くだったって……“音、集めてる子”って有名だったらしいよ」
「先生の声、録音してたんだって。しかも、夜中の……」
「しかもね、録音だけじゃないらしい。“分析”してたって。寝息のリズムでストレスとか、咀嚼音で体調とか」
「うわ……マジのやつじゃん……」
女子の視線が、こっそりこちらを刺す。
それでも彼女は、何事もなかったかのように俺の弁当をじっと見ていた。
たぶん、箸の持ち方か咀嚼テンポの観察だろう。
無言のまま。笑顔もなし。ただ“聴いて”いた。
「ねえ、それ録音されてない? 佐々木(空也)くん」
──クラスメートの声に、周囲の空気が一気に冷える。
「いや、霧島(志乃)さん、カバンにチューナーついてるって話だよ?」
「ほんとだ。なんかピカッて……え、録ってる……?」
「先生にも言ったほうがよくない?」
「無理無理無理、私もう無理……」
ざわつく教室の中心で、俺だけが凍っていた。
いや、違う──“俺を中心にして”世界がざわついていた。
そのときだった。
志乃が、ふっと顔を上げた。
「録音中だから、静かにして……ノイズが入るの、嫌いなの」
その一言は、怒鳴り声でもなく、お願いでもなく。
ただの“観察者の報告”だった。
だが、教室全体が一瞬で沈黙した。
音が、止まった。
笑い声も、箸の音も、ヒソヒソ話も。
まるで録音機器の前で、誰もが勝手に“録られる側”に回ったように。
志乃は何も言わず、ふたたび俺の弁当をじっと見つめた。
その目は、口をつける瞬間を待つ、マイクのようだった。
********
それから数時間後、放課後。
俺のスマホに通知が届いた。
【匿名共有:霧島志乃 音声ファイル(旧校舎)】
送信者不明。内容不明。開くべきか、迷った。
けれど、開いてしまった。怖いもの見たさ……というより、“志乃を知りたかった”。
音声ファイルは、三つ。
03_教員室_夜.wav
07_更衣室_独り言.mp3
09_授業中_窓際_観察記録.m4a
俺は一つ、再生した。
──ノイズ混じりの空間音。
風の音。壁時計の秒針の音。そして──
『……今日もまた、同じ靴の音。0.73秒周期。疲れてる? それとも……悩んでる?』
『声に“ト”の子音が強く出てた。怒ってるときの癖だよ、それ』
志乃の声だった。
静かで、耳に張り付くような……感情のない声。
だが恐ろしいのは、その声じゃない。
分析内容の精度だった。
歩くテンポと着地音の左右差から、片足の痛みを推測
小さな咳と呼吸音から、精神的疲労を指摘
声の高さの波形で、緊張と怒りを判別
「……これ、人間がする観察か?」
息を呑んだそのときだった。
俺の背後から、すっと音が消えた。
……いや、音だけじゃない。
気配も、空気も、温度も──何かが、俺を“包んだ”。
肩ごと、首ごと、誰かの腕に拘束される。
まるで格闘技のようなスムーズさ。抵抗する間もない。
「誰だ!?」って声も出なかった。
恐怖で、声帯が“ミュート”された。
だが、鼻先にふっと香る匂い。
柑橘系とラベンダー、少しミルキー。
それは──志乃のシャンプーの匂いだった。
……あ。
安心してんじゃねえよ俺。
でも、あの香りを嗅いだ瞬間、脳内の何かがバグった。
志乃だったらいいや、っていうかむしろ志乃じゃなかったら困る、っていうか、
好き。
「空也くん……呼吸止めたね。すごく綺麗な静寂。この音、好き」
背中に静かに語りかけるその声に、俺の脳がバグる。
「おい、志乃……あの録音、あれは一体……」
「うん、好きな音だけ残したの。誰にも気づかれなかった音。だから愛おしいの」
「……でも、あれはちょっと怖かったぞ。盗聴みたいで……」
「ふふ、でも空也くん、匂いで私って気が付いたんしょ?嬉しいな」
俺の心臓がバクバク言ってる、絶対に志乃にバレてる。
そして志乃は、少し身を寄せながら、ささやくように言った。
「ねえ……すごいドキドキしてるよ。今の鼓動、すごくはやい。
高音に跳ねて、リズムが乱れてる」
──そして、志乃はさらに耳元で、ほとんど吐息のように囁いた。
「……もしかして、好きってバレちゃう音だった?」
俺の背中に、ゾワッと鳥肌が立った。
同時に、耳まで真っ赤になった気がする。
「ねえ……私、音のことになると、自分でもわからなくなるの。
どこまで拾って、どこまで踏み込んで……どこから、壊しちゃうか」
その時、俺を拘束する志乃の腕に力が入った。
「……ねえ、空也くん。わかってくれるよね?」
背筋がひやりとした。
心臓の音がまた、跳ねた。