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『霧島志乃は音で愛を語る』  作者: 斎賀久遠
第一章:霧島志乃の日常
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第10話:「霧島志乃、授業中の幸福論」

三限目の教室。

時計の針は、じんわりと90分目の終わりへ向かっていた。

外から淡い陽光が差し込み、窓際にたゆたう緑の影。

席の下で、俺の鞄が微かに不安げに揺れている。


室内は重厚な静寂に包まれ、空気そのものが揺るがない。

チョークが黒板を滑り落ちる「カリリ」という音。

誰かのページ捲る音──紙が、乾いた海のさざ波のように響く。

万年筆インクが染み込む音はまだだけど、霧島志乃がすかさず記録している。


志乃の世界では、これが“ごちそう”。

音を“聴く”のではなく、“舌鼓を打つ”かのように。

俺は隣で、なるべく自然に“無音”を装いつつ、横目で彼女を盗み見る。

鼻先まで赤くなってるとか、頬がほんのりそよいでるとか、

志乃の筆記に繋がる「俺」のリアクションにも、彼女の視線は向いているはず──と思いたい。


彼女が開いたノート、そのページには冷静な筆致で“俺の行動ログ”が並ぶ。

──《09:41 左足が微振動。周期1.7秒》

──《09:42 軽い咳。乾燥気味。ミスト推奨》

──《09:43 シャーペンから万年筆へ。心情の切り替え?》

──《09:44 “ふっ”としそうだった。未遂。惜しい》。


惜しいって、なんだよ。

お前、天才的音フェチかよ。

俺の存在を“音”として採点されてるみたいで、背筋が熱い。


志乃愛用の備えは、淡紫色インクの万年筆。

ボディには淡い蒼光も見える。香り付きインクって、どうよ。

もはやこれは“観察ノート”ではなく、感覚ごと撫でられているような──。


「……ねぇ、空也くん」

突然、彼女の声が届く。正確には、声の“気配”が。

微かな息づかいみたいで、教室の静寂にしのび込んできた。


俺の背筋がピンと伸びる音も、どうせ気づかれてるだろうな。


「今日の鉛筆の音、昨日より優しかった。

 もしかしてね……少し、心が落ち着いてる?」


胸がドクン、と跳ねた。

志乃はどこまで“音”で俺を診ようとしてるんだ。


「志乃は音のどこまで聴けるの?マイクでも使ってんの?」

そんなこと口が裂けても聞けない。

だって、そこに答えがあるなら、俺をそんな“音記録”して欲しい気もしてる。


「分かるんだよ。

 空也くんの“音”、感情ごと読めるから」

頬が次第に赤くなる志乃が、耳障りなく笑った。

その笑顔が、教室の照明に薄く照らされて、小動物の脚のように弱々しいのに、胸を責めてくる。


「数学の話、聞いてる…?」

俺が問い返す。

「ううん、全然。今日は“空也観察”の回なの」

きっぱり答える彼女に、俺は二度見したい衝動を抑える。


ノートをスッと捲る音。

その音さえ、映像作品だったらオフボーカル音トラックで使えると思うくらい、透明感がある。


現れたのは、グラフと文字、そして濃い紫のライン。

《空也くんの“ため息”周波数と感情相関図》──とタイトルがある。


「ここ。9:37ぐらいが“今日いちばん尊いゾーン”。

 空也くん、ちょうど深呼吸したでしょ?」


「そういう分析、やめてくれ」

と、俺は声を殺して笑う。

でも、志乃は至って真顔で、くすっと微笑む。

その表情に困惑すると同時に、なんだか、ほっとした。


そして彼女は、わずかに身体を乗り出してペンを取り…差し出してくる。

その動作は、まるで祝福の儀式みたいに見えた。


「これ、今日使ってみて。万年筆…とても、いい“音”がするから」

インクの香りがふわり。俺は震える手でそれを受け取る。

ただの筆記具なのに、温度も湿度も感じるような…

まるで、志乃自身の一部を持たされたかのような、不思議な結合感。

挿絵(By みてみん)

チャイムが鳴る──。

教室全体に解放の気配が走る。

でも、志乃はまだ俺に囁いた。


「……今日の“静けさ”、ほんとに、きれいだった」


一言だけ。

しかし、ディレイのかかった魔法みたいに、俺の胸には長く響いた。


佐々木空也(16)。

人間として“授業”という舞台には乗っているつもりだった。

でも、まぎれもなく──

霧島志乃に、“聴かれている”。

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