第9話:「優しさの調律」
「霧島さんって、普通にめっちゃ綺麗だよね」
「髪も肌もすごいよ。なんかもう完成されてる」
「でも隣の席、空也なんだよね……ちょっと意外。うちらに見えない魅力とかあるのかな」
放課後、帰り支度をしながら俺はクラスの片隅で女子グループが騒いでるのを聞いていた。
「ねぇ霧島さん、一緒に駅まで帰らな──」
「ごめん、無理」
志乃、即答。
それもすごい冷たくて、テンプレすら使わない。
顔も向けず、言い終わる前にスパッと切った。
(……冷たッ)
声をかけた女子たちは、一瞬固まり、
乾いた笑いでごまかしながら教室を出ていった。
それから数分後。
下駄箱で靴を履いていると、志乃が先に靴を履いて、こっちを見ていた。
(……いつの間に!?)
「空也くん、帰ろっか。今日はちょっと風が強いね」
――その声は、さっきの「無理」と同じ人間から発されたとは信じがたいほど、甘やかだった。
優しさの擬態。毒の膜で包んだシロップみたいに。
「さっきの断り方、もうちょっとなんかこう……もうちょい柔らかくとか……」
「え? でもあの人たち、空也くんじゃないでしょ」
「それは、まあ……」
「空也くんの音じゃない。だから、いらないの」
言い切ったその声は、まるで誰かを処分する時のトーンだった。
しかもそれを“仕方ないよね”のテンションで。
「“いらない音”ってさ、普通、人間に言うか?」
「人間? ううん、ただの“騒音”。録音しても耳が痛くなる」
――おいおい、さらっと言ってるけど、それ、ほぼホラー。
「ねえ、もしかして空也くんも、私の“音”集めてるの?」
ふと、志乃が顔を近づけてきた。鼻先が触れそうな距離。
そのとき、ふわっと前髪が揺れて、彼女が小さく目を瞬かせる。
「だったら、嬉しいなぁ」
いたずらを仕掛けた猫みたいな笑みを浮かべながら、
スカートの端をきゅっと握って、そっと体を揺らす。
「私、空也くんの音なら、毎晩聴いてても飽きないもん。
むしろ、ずっと再生したい。
巻き戻して、繰り返して、全部……私だけのものにして」
その目に浮かんだのは、優しさじゃなかった。
コレクターの、それも偏執的な収集家の視線だった。
「他の音が混ざるの、嫌なんだ。ノイズになるから。
だから……静かにしないとね。全部、私の音だけにしたいの」
笑ってるのに、声が震えていた。狂気の共鳴。
耳を塞いでも、たぶん聞こえてくる。
空也は気づいた。
この子の“音楽”には、エンディングがない。永遠に続く、不協和の旋律。
言葉の意味を処理しきれないまま、俺たちは並んで歩き出す。
途中、彼女がふっと立ち止まった。
そして俺の歩き方をじっと見つめる。
「……右足の着地、ちょっと強い。 たぶん、昨日より疲れてる」
「……お前は俺の何なんだよ」
志乃はほんの少し微笑んで、言った。
「観測者で、ファンで──」
「あと、たぶん……演奏者」
「え?」
「だって、空也くんは、
わたしだけの“楽器”だもん」
「…………楽器って、人に使う言葉じゃないだろ普通……」
「え? でもわたし、空也くんの音を聴いてるだけで、調律できちゃうんだよ?
寝息のリズムも、咳払いも、歩くテンポも……
ちゃんとわたしの“好みの音”になってきてる」
「なってきてるって、おい待て、俺そんな努力した覚え──」
「うん。努力はしてないよね」
「でも、だいじょうぶ。音って、慣れるから」
(いやいやいや、なにが?)
俺は頭をかきむしりながら、
その“意味がわかるようでわからない”会話を飲み込んだ。
空也が軽く咳払いすると、志乃がぴくっと顔を上げた。
「……うるさくなかった? ごめんね、変なこと言った」
そう言って、少しだけ目を伏せる。
その声は、どこまでも普通で、どこまでも優しかった。
彼女にとって、世界は“音”でできている。
そして俺は、たった一つの旋律でできた──
志乃専用の楽器。
佐々木空也(16)、人権、調律済みです。