9.星の指輪
「すごい……これ、全部本物の宝石ですか?」
ベル様の魔法によって何もない空間に現れた、宝物庫の扉。
もらった鍵で開いた先は、七色の宝石や、金ピカの杯、輝く銀の剣などが雑多に置かれた、ギラギラと光を放つ部屋だった。
まるで、竜宮城みたいだ。
「多分な。あまりこういった類には関心がないから、お前の方がよくわかるだろう。」
「ベル様が集めたものではないのですね。」
「違う。人間が勝手に持ってくるのだ。」
つまり、ここにあるものは全部ベル様への贈り物というわけだ。
「もしかして、お城に毎朝届けられる食材も、人が持ってきてくれているんですか?」
「そうだ。こんな山奥にまで、物好きなやつらだ。」
てっきり、ベル様の支配している魔物が貢いでいるのだと思っていた。ヤクザのみかじめ料、みたいな。
でも真相はだいぶ違ったらしい。
「ベル様は人間に愛されているんですね。」
「…………人間にこの森は寒い。」
だから、なるべく来てほしくない。そう言っているように聞こえて。
相変わらずの、ぶっきらぼうな口ぶり。だけど、きっとその優しさは十分に人間に伝わっているのだろう。
「用が済んだら呼べ。私は書斎にいる。」
「ありがとうございます。」
そんな心優しい魔王から、私は大切なものを盗もうとしている。
ベル様は「理由は聞かない」と言っていたけれど、本当にいいのだろうか。
煌めく金色の光に照らされながら、私の心の陰は晴れないままだった。
* * *
この世界に来て、すでに6日が過ぎていた。
ベル様が去ってから数時間は宝物庫を漁っていたけど、それらしきものは何も見つからなかった。
案内人に、"悲しみ"がどんな姿形をしているのかだけでも聞いておくんだった。
だけど案内人は、折り返しの夜に現れてからは、ずっと姿を消したまま。
肝心なときに出てこないんだから。
「この国は、ずっと雪が降っていますね。」
書斎の窓から見えるのは、いつもと変わらない雪景色。日の落ちはじめた外は、すでに夜に近い濃淡で染められている。
「…………そうだな。退屈か?」
「いえ、ベルガと雪遊びができますから。」
私がこの世界にいられるのも、あと1日と少し。それまでに"悲しみ"を見つけ出さなけば、私は本当の死を迎える。
――だけど、本当はそんなこと、もうどうでもよくなっていた。
世界はきっと、合理的で説明のつく選択だけが最善ではないのだと。私は知ってしまっていたから。
「ベル様は本がお好きですね。」
「…………文字は読めん。」
少しだけ驚く。ベル様は、私がこのお城に来たときからずっと分厚そうな本をめくっていたから。てっきり文字が読めるのだと思っていた。
そんな私の心情が顔に出ていたのか、ベル様は少しだけ不機嫌そうにそっぽを向いた。
「何か文句でもあるか。」
「なぜ、文字が読めないのに本をずっと開いているのですか?」
「……人間が次から次へと持ってくるからな。いつか読めるようになったらいいと、そう思っているだけだ。」
城中の至るところにある本棚。あれも全部、人間がベル様のために持ってきたものだったのか。
多分、人間たちはベル様が文字が読めないことを知らないのだろう。
それどころか私のように、ベル様は読書が好きだと勘違いしてしまっている。
「ふふっ」
「ふん、何が面白い。」
「いいえ……ただ、いつか私も文字が読めるようになったら、ベル様に教えてあげられたのになぁと、そう思っただけです。」
出会った頃はあんなに恐ろしかった魔王様。
それがどうしてか今は、堪らなく可愛くて愛おしいと思える。できるのならこのまま、ベル様とこの城で暮らして、勉強して。一緒に本を読む日が来たらいいのに。
だけど、そのいつかは来ない。
私とベル様の関係に、明後日が訪れることはないのだ。
そうわかっているのに、ついできないことを口にしてしまう。これも、人間という生き物の性なのだろうか。
「それは楽しみにしておくとしよう。」
ベル様が、微かに口の端を緩めた。初めて見る笑顔に切ないものが込み上げて、首元で苦いものがつっかえる。
つんと痺れた鼻先。このままベル様を見ていたら涙が溢れてしまいそうで、横顔から視線を逸らす。
触れた感情はどれも、この世界に来るまでは知ることもないものだった。
「どうかしたのか?」
「ベル様と、こうやって一緒にいられることがうれしくて。」
この時間が永遠に続けばいいのに。そう願わずにはいられなかった。
ベル様はわずかに黙ると、立ち上がって外套を羽織った。
「少し散歩をしよう……ベルガ、お前はお留守番だ。」
「クゥン」
散歩という言葉に反応して真っ先に起き上がったベルガが、不貞腐れたように寝そべる。
「散歩、ですか……?」
「ああ。お前に見せたいものがある。」
私の返事も聞かずに部屋を出て行ってしまうベル様。その背中を追いかける。
私に見せたいもの。何もピンと来るものはない。
だけれど、例えそれが何であれベル様と外を歩くというだけで、私の胸は跳ねた。
きっとこれが私の人生で、最初で最後のデートになるのだから。
* * *
森を抜けた先。ベル様が連れて行ってくれた場所は、突き出すような崖の先端。夜空へと漕ぎ出す船のように、満天の星空が一望できる場所だった。
「あそこにあるのが、人の街だ。」
ベル様の視線の先。遠くの丘に、ぼんやりと光るものを見つける。暗くて、建物ひとつひとつまではよく見えないけど、なかなか大きそうな街だった。
「弱いものは嫌いだ。人間は、弱いのに自らを顧みない。」
だからベル様は、人間たちを守っているのだろう。
バジリスクから、私を守ってくれたように。
「お前もそうだった。弱いのに魔王のもとを一人で訪れ、口うるさく風呂へ入れと言う。敵うはずのない魔物を前に、ベルガすらも守ろうとして。」
赤い眼差しが、遠くを見るように私を見つめる。
「全てが思い通りになる世界は容易い。だが、どうしてかお前に振り回される日々は、楽しいものだった。」
ただ静かに、私は見つめ返していた。
いつからだろう。
その瞳を見るたびに、胸が締め付けられるようになったのは。
そしていつから、ベル様は気がついていたのだろう。
「……そろそろなのだろう?お前が元の世界に戻るのは。」
静かな森の中。
隠すものを失った涙が、音もなく頬を伝った。
こんなに幸せで、こんなに悲しいことはあるのだろうか。
ベル様が私の頬に触れる。伝う涙を掬うように、指で撫でた。
「お前はいつも、わかりやすいから。」
困ったように微笑むベル様に、胸の真ん中が締め付けられる。心がここにあるのだと、主張しているようだった。
この世界の魔王が、もっと恐ろしかったらよかったのに。
もっと冷たくて、酷いやつだったら、好きになることはなかった。こんなに苦しい思いをすることは、なかった。何の躊躇いもなく、奪われたものを盗み出せたのに。元の世界に戻れたのに。
だけど同時に、ベル様でよかったと。
出会えてよかったと。
痛いくらいに、心が叫んでいた。
「泣くな……ほら、顔をあげてくれ。見せたいものがあると言っただろう。」
ベル様に手を繋がれて、顔をあげる。
横たわる、冬の澄んだ夜空。
そこでは、消えそうな光が無数の線を描いていた。
「流れ星……」
儚い光の尾を引いて、銀の星が降る。遠い世界とこの世界に線を結ぶように、遠く遠く、長い線を。
手を繋いだまま、私は散りばめられた星の海を泳ぐ光に、ただ見惚れていた。
この景色を、一生忘れることのないように。
星を見る度に、繋いだ手のひらのぬくもりを、ずっと覚えていられるように。
「お前の名前はなんと言うのだ。」
「レイ、です。」
「そうか……レイ。お前にこれをやろう。」
ベル様が、繋いでいた私の左手の薬指に、銀色の指輪をはめた。
冷んやりとした小さなリングは、真ん中に青緑色の小さな石が三つ、オリオン座のベルトのように嵌められていた。
「よく似合っている。」
星空に、左手を翳す。
薬指で輝く光は淡く。繊細に私を照らして。
夜の闇を流れる星たちが、まるで私たちを静かに祝福しているようだった。