8.地下室で
どれくらい泣いていただろうか。
子どものように部屋のベッドに蹲って、涙を啜る。
たった一度のチャンスだったのに、何もかも失ってしまった。機会も、ベル様からの信頼も。
私に残されたのは、魂だけになった体ただひとつ。できることなんて、もう何もない。
この城に来た理由を正直にベル様に打ち開けていれば、何かが変わったのだろうか。
「クゥン」
「……ごめんね、お前もいたね」
私を元気づけるようにもたれかかるベルガの、三つの頭を交代で撫でる。
目を閉じると鮮明に蘇る、"もう二度と目の前に現れるな"と言った、ベル様の剣幕。
やはりあの部屋には、ベル様の大切なものが置かれているのだろう。
「………………どうしよう」
もう一度忍び込むという手段もある。だけど、もしまた見つかったら、今度こそ殺されてしまう。
だけど、奪われた"悲しみ"を取り戻せなければ、どうせ私はあと数日で死ぬのだ。
そう思えば、私の足を止めているものはベル様に対する罪悪感だけで。いや、違う。これは罪悪感なんかじゃない。
突き放されて、幻滅されて。ようやく気付いたもの。
寡黙で愛想のない魔王。本当は人間に興味がある魔王。意地っ張りで不器用で、だけど私を気にかけてくれる。
言葉が少ない分、伝わる優しさの純度は高く。私とベル様とベルガ。二人と一匹で過ごす時間は穏やかで。一緒に過ごした時間はごく僅かのはずのに、なぜか私の心は、その充実をずっと昔から求めていたような、そんな気がしてしまうのだ。
好意という言葉では収まりきらない、目的なんてない感情。だから私は今、こんなにも傷ついていて。こんなにも、涙が止まらない。
でも私は結局、選択を間違えた。
今の私に残された道は二つ。このまま死ぬか、どうにか奪われた"悲しみ"を見つけ出して元の世界に戻り、ベル様への想いを抱いたまま、生きること。
選ぶのなら、後者だった。
再び向かった先は、地下の石の扉。
ベル様の姿はもうない。本棚も動かされたままになっている。
今度こそと、ドアノブに手をかける。石の扉は重たく。だけれども、滑らかに動いた。
「埃くさい……」
陽のあたらない地下室は、思いのほか広々としている。学校の教室3個分くらいはある広さだ。
石造りの部屋で、銀色の鎧や石膏像などがずらりと並べられており、その奥にはさらに地下へと続く通路があるようだった。
ここがベル様の宝物庫なのだろうか。
案内人の言っていた"悲しみ"とは、どんな見た目をしているのだろう。なんとなく、暗い青や緑色の光を想像する。
「ベルガ、吠えたらダメだよ」
「ワン」
早く見つけないと。懐中電灯なんてものはないので、蝋燭の灯りで周りを照らす。
首の折れた天使の像を照らして、思わず悲鳴をあげそうになって、慌てて片手で抑えた。
置かれているものは、中々に不気味なものだった。変な仮面や動物の骨のようなものなど。ベル様の趣味だとは到底思えない。
だけど、怯えている暇はない。
早く盗んでこの城を出よう。
「グルルルルル……」
突然、ベルガが唸るような声をあげた。
「ベルガだめだよっ、静かにして!」
「グウウウウ…………」
何をそんなに鳴いているのだろうか。
聞いたことのない唸り声に、落ち着かせようと手を伸ばす。そして、気づく。
ベルガが、部屋のただ一点を見つめていることに。
「何かいるの?」
ベルガの視線の先の暗闇に、蝋燭を向ける。だけどそこには闇があるだけ。何も見えない。
「気のせいか……」
ぴちゃりと水音がした。
雨漏りか。いや、ここは地下一階だ。雨なんて滴るはずがない。
天井を見上げる。霧のように立ち込める闇の中、黄色い光がふたつ、光った。
「なに、あれ……」
しゅるしゅると、空気の擦れる音。
蝋燭の灯りに黒色の鱗が反射する。鈍い光沢と、鉛色の刺々しい鶏冠。そして、うねるように天井を這う巨大な胴体。
「へ、へび…………」
違う。蛇なんかじゃない。
巨大な口は人間なんて難なく丸呑みできる大きさだ。間違いなく、これは魔物。それも、あの雪男やベルガとは違う。獰猛な瞳に渦巻く明確な殺意。それは、私を捕食しようと狙っている。
「グオオ!!!」
ベルガが、私を守るように前に出ると、三つ頭の大きな狼の魔物に姿を変えた。
だけど、相手の蛇の魔物はベルガの倍は大きい。剥き出しの牙に噛まれでもすれば、ベルガでさえひとたまりもないだろう。
「ベルガだめ!逃げるよ!」
だけどベルガは、一歩も動かなかった。そうしている間にも、蛇の魔物は大きな口を開けてベルガに飛びかかろうとしている。
全部、私のせいだ。
私はまた、判断を間違えた。
ベル様だけでなく、ベルガまでも私は失ってしまうのか。自分のせいで。ベル様に嘘をついて、自分の気持ちと真剣に向き合わなかったから。
蛇の魔物が、ベルガに飛びかかる。
ベルガが死んじゃう。私のために。
もう、判断を間違えたくはない。後悔だって、したくない。
「ベルガっ!」
咄嗟に体が動いていた。
自分を守ろうとしてくれた巨犬の前に進み出る。迫る大蛇。燻んだ黄色の瞳と、殺意を浮かべた細い黒の瞳孔が、鈍い光を放った。
巨大な鋭い牙が、私のお腹に深々と突き刺さる。
――そのはずだった。
「だから、弱いものは嫌いなんだ」
迸る光は一瞬で。
気がつくと細い腕が私の体を抱え上げていた。
「ベル様っ……」
どうしてここにいるの。聞きたいことは山々だったが、今はそれどころではない。
獲物を取られた大蛇は、威嚇するようにベル様の方を睨んでいる。
だけど、どうしてだろう。ベル様に抱えられた私は、恐怖なんて一瞬の間に吹き飛んでいた。
「貴様、私にも歯向かうというのか。なるほど、魔獣の王を語るか」
いつの間にか、ベル様のもう片方の腕の中には元の姿に戻ったベルガがすっぽりと収まっていて。右腕に私。左腕にベルガ。抱えられたベルガの瞳と、目が合う。
私たち二人とも、ベル様に子守りされてるみたいだね。
私たちの大好きな人。世界で一番、慕っている声。
「この世界の王は、私ひとりだ」
ベル様のひと言とともに、大蛇は一瞬にして何千もの欠片に刻まれるのだった。
「…………ありがとうございます。」
そっと床に下ろされる。その振る舞いは優しかった。
「あれはバジリスクだ。この部屋は地下通路で遠くの山に繋がっている。そこに棲みついていたのだろう。」
外套にへばりついた魔物の返り血に、ベル様が不快そうに眉を顰める。
「風呂に入るぞ」
頷いて、ベル様の隣をベルガと歩く。
静かな廊下。黙ったまま、足音だけが響く。
だけど言葉がなくても、寡黙な魔王の心の指し示すものは、十分に伝わっていた。
* * *
湯気の向こうで、朝日の気配が金色に輝いていた。
私の向かいでお湯に浸かるベル様は、天井をじっと見上げていた。
「何かを探しているのだろう」
ずっと飲み込んでいた言葉を話すような、呟く声だった。
命まで助けてもらったのだ。もうベル様に隠し事はしたくなかった。
覚悟を決めて、口を開く。
「その、実は――――」
「理由は聞かん。お前にこれをやる」
ベル様の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
そして私の手のひらに、小さな鍵を握らせた。
「これは……?」
「城の宝物庫の鍵だ。深くは聞かない。明日場所を案内してやるから、それを使え」
それだけ言うと、お湯に身を委ねるようにベル様は瞳を閉じた。
なぜ、私にそこまでしてくれるのか。勝手に忍び込んで、迷子だと嘘までついているのに。
「どうして……?」
「私は王だからな。わからないからいいことがある、そう言っていたのはお前だろう。」
あんなの、出まかせだったのに。全然論理的じゃないのに。
ベル様の誠実な眼差しに、胸が痛む。私がひどく醜いものに思えて、なぜ城に忍び込んだのだと問いただされる方が、何倍も楽なくらいだった。
だけどベル様は、それ以上は何も追求してこなかった。
「危険なことは、私がいるときだけにしろ。でないとどうしても、冷静ではいられなくなってしまう。」
静かに俯くベル様に、言葉よりも強いものが胸を締め付ける。
ようやく気づく、怒りの理由。どれほど大切に思われていたのか。そして、その思いを裏切った自分の愚かさに。
「……ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
「ベル様に心配かけたから……」
触れる肌からはお湯よりも熱いものが伝わって、何かが溢れるように込み上げた。
「悪い気はしないが、困るな。なんと返せばいいのか分からない。」
「人は大切な人に許してほしいときにも、謝るんですよ。」
「そうか………………では、お前を許そう。」
ベル様の手のひらが、私の頬を包むように触れた。柔らかな指の感触に任せるように、頬を擦り寄せる。
登り始めた朝日。浴室が黄金色に染まる。
あと二日しか、この美しい瞳を見る事は叶わない。
それでも、構わないと。
細められるベル様の瞳に、目を閉じた。