6.雪ウサギ
この世界に来てから三日が経った。
それでも、外の雪は相変わらず降り止まなかった。
魔王に奪われた"悲しみ"を取り戻す。それが私の最大の目標で、最も優先すべきこと。
そのはずだったのだけど――。
「ベル様、骨は食べないでください!」
「ベルガ喧嘩しないの!ちゃんとエサ箱三つあるでしょ!」
「ベル様なんで裸なんですか!?服?服はいま洗ってます!こらベルガ!裸のベル様に変身するな!」
随分と忙しいものである。
ことの始まりは今朝。
「お前、料理というものはできるのか?」
カチカチのパンをお湯に浸しながら齧っていると、ベル様に話しかけられた。
ベル様は今日も長い足を組んで、重たそうな本を読んでいる。昨日と違うのは、私がパンを齧りはじめてもダイニングルームから立ち去らなかったこと。気まぐれだろうか。
「人並みにですが、作れますよ。」
味噌汁と野菜炒め、それと調理実習で習った生姜焼き定食くらいであれば作れる。
「……ついてこい。」
そう言われて連れて行かれた先は、城の一階。厨房のような場所だった。テレビで見たような中華鍋や釜戸が並んでいる。
「好きに使え」
「食材は……」
「そこにある」
魔王城には、てっきりカチカチのパンしかないものだと思っていた。
だけど、ベル様が指差した先の扉は、開くと貯蔵庫のようになっていて、肉や魚、野菜のような葉ものから根菜まで。カゴに入って無造作に置かれている。自然の冷蔵庫のようなもので、かなりの量がある。
「これ全部、ベル様が集めたんですか……?」
「勝手に城の前に置いていくのだ」
誰が?そう聞きたかったけれど、ベル様は身を翻して、厨房からいなくなってしまった。
残されたのは、私と大量の食材。それと調理器具。
「…………ご飯を作れということか。」
かくして、張り詰めていたはずの魔王城潜入捜査は、専業主婦よろしく。朝から騒がしいものになったのである。
「朝から騒々しいぞ。」
「ベル様、早く服を着てください!」
料理を作ったついでに、洗濯もしていた。もちろん洗濯機はないので手洗いである。
そしてどうせ洗濯するのならと、ベル様の服も一緒に洗いますよと申し出た。そこまでは良かったのだけど。
ベル様はその場で衣服を脱ぎ始め、どういうわけか、そのまま裸で過ごしているのである。
足を組んで座っていなければ、大変なところまで見えてしまうところだった。いや、ベルガのせいで大分色々と見えてしまった気もするけど。
煩悩を払うように、もみ洗いに専念する。
「服ならいま、お前が洗濯しているではないか。」
「この一着しかないんですか!?」
いつから洗ってないのだろう。嫌な匂いはしないが、お湯をためた桶はみるみる灰色に染まっている。何かしらの魔法のせいだと信じたい。
「当然だ。なぜ二つも作る必要がある?」
「洗濯するからですよ!魔法で何か着てくださいっ」
「いちいち細かいことを気にするやつだ」
そう言い終わる頃には、ベル様の全身は見慣れた黒色の外套で覆われている。
「いつかお風呂にも入ってもらいますからね!」
「ふん」
魔法とは便利なものだ。もしかして洗濯だって魔法でできるのではないだろうか。
元いた世界にも魔法があったら、きっと楽だっただろうに……いや、どうだろう。現代文、数学、化学、日本史。そこに魔法なんてものを詰め込まれたら、最悪だ。
とにかく。
やっと落ち着いた視界に、ほっと安心する。
「せっかく作るなら、デザイン変えたらいいのに。」
「なぜそんなことをする」
「おしゃれというか……」
ベル様の身につけている外套がおしゃれではないかと言われたら、そんなことは決してない。中世の英国紳士か、男装の麗人。そんな言葉がぱっと浮かぶくらいにはさまになっている。
だけど、せっかくスタイルがいいのだから、覆ってしまうのは勿体無い。そんな、年中体重の僅かな増減や、足の長さの数センチの違いに頭を悩ましている、いち女子高生としての意見であった。
「おしゃれ?なんだそれは」
「いや、なんでもないです……」
何を言っているんだ、私は。相手は魔王なんだ。友達じゃないんだぞ。
そもそも料理も洗濯も、すっかり目的から逸脱していないか?いや、これは魔王の懐に入るため。きちんとした理由があるのだ。
「気になる。話せ。おしゃれとはなんだ」
ベル様に迫られて、視線を彷徨わせながら言葉を選ぶ。いざ聞かれると、説明が難しいものだった。
「人は、着飾るのを楽しむんです。目的はいろいろあるけど、自分をよく見せるために似合う服を着たり、人を楽しませるために華やかな服を着たり。」
「お前はおしゃれをするのか?」
「いちおう、人並みには……」
女子高生にとって、私服がおしゃれかどうかはそれだけで一定のアドバンテージになる。逆もまた然り。
「私にもさせろ。お前に配慮が足りないと思われるのは不快だ」
ベル様が手を振って、洗濯しているわたしの前に紙を飛ばす。
私の知っている紙とは少し違う、分厚くてしっとりとした質感の紙だった。
ここにデザインしろということか。ご丁寧に万年筆まである。
弱った。絵はそこまで得意ではないのだ。初めて握る万年筆は少し紙に触れただけで、黒い染みを作る。
「こう、首まであって……ぴったりしていて、セーターみたいな感じ……」
魔王城で何をやっているんだろうか。
さすがに目的に対する意味が見出せないと、頭を悩ませる。だけど私の描くペン先をまじまじと見つめるベル様に、何とも言い難い感情が湧く。
ひと通り描き終えた私の大作は、中々に悲惨なものだった。
肩なんてロボットみたいに突き出てるし、腕が異様に長いし。だけどベル様には伝わったようで。
「なるほど、こうか」
そう言って、ベル様の姿が変わる。
小さい頃に見た、魔法少女のアニメの変身シーンのようにキラキラとしたものではなく、葉が色を変えるような自然さだった。
「どうだ?おしゃれというものができているか」
「そうですね……」
首元までをぴっちりと覆う、黒色のタイトなセーター。同じく、真っ黒のスラックス。何の捻りもない、ただ万年筆で塗り潰しただけの服装だった。
だけど、外套の上からでは決して窺い知れない、ベル様の華奢な線が強調されたその姿は、ブランドショップのショーウィンドウに並んでいるマネキンのように、美しかった。
「どうかしたか?」
「いや、美人ってずるいなと……」
「何だそれは」
呆れたように呟くと、ベル様はダイニングルームから出て行ってしまった。
ずるい、なんていうのは照れ隠しで。
私はただ、気品纏うその姿に見惚れてしまっていたのだ。
* * *
三日目になると、城の構造もある程度は把握できるもので。
お風呂に浸かりながら、考えを巡らせる。
怪しい部屋はいくつかあったけれど、最も怪しいのはお城の地下。一階から階段で繋がるその部屋は、扉を隠すように本棚が置かれていて、奥の扉は石でできていた。
何かを隠している可能性は十二分にある。明日にでも忍び込んでみるか。
ベル様に見つからないといいけれど。
浴槽にもたれかかって、目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、着替えたあとのベル様の姿。
「………………綺麗だったな」
「何がだ?」
「ぶががっ」
突然の声に、カニのように泡を吹き出しながら浴槽に沈む。慌てて体を隠して浴室の入り口を見ると、そこにはベル様が立っていた。幸いなことに、服は着ている様子。
「べ、ベルガ!?」
「ベルガが喋るわけないだろう」
「なんで急に!?」
「風呂に入りにきたに決まっている」
私の疑問への回答は、それだけでよいと思っているらしい。ベル様がせっかく着ていた服を颯爽と脱ぎ出す。そこには、遠慮や躊躇いなんて当然のようになく。
「なんで服脱ぐんですか!?」
「服を脱がねば風呂には入れないだろう」
お前は馬鹿かとも言われた気がするが、そんなことに構っている場合ではないのである。
「いやあの、お風呂わたし入ってるんでっ」
「入れと言ったり、入るなと言ったり。うるさいやつだな」
やれやれと。まるで私が言うことを聞かない子どものように、ベル様がため息をつく。
ため息をつきたいのはこっちなのだけど。あわあわしている間に、ベル様の素足が湯船に浸かった。
その上には当然ベル様の胴体が乗っているわけで、私に許された視界は必然的に壁だけになる。
「たしかにお風呂に入ってくださいとは言いましたけど、一緒に入るなんて……!」
「ふむ。お前の国では女同士は風呂に入らないのか?」
「あーもう、ややこしいなぁ!」
ベル様と話していると、調子が狂う。それもそうだ。私とベル様の今の関係性を言葉にしようとすると、何とも難しいものになるのだから。
私には使命があって、この関係はそのために私が取り繕ったもの。だけど私の中には、ベル様に対してそれ以上に感じるものがある。その事には、薄々気が付いていた。
「なるほど、これが風呂か……」
気に入ったのか、気に入っていないのか。
向かい合うベル様の瞳をのぞいても、その奥にあるものは決して見えない。
だけどお風呂から出る様子もないので、初めての入浴は不快なものではなかったらしい。お湯も今のところ、洗濯の時のように灰色に濁る気配はない。私もよしとしよう。目のやり場に困ることを除いて。
「髪の毛、くくりますか?何か紐のようなものを作ってもらえたら結びますけど」
「なぜそんなことをする?」
「お湯に浸かると、濡れてしまうので。乾かすの大変ですし、肌にくっついて気持ち悪いから」
「ふむ」
魔法で作られた紐を渡されて、ベル様が私に背中を向ける。これで結べということだろう。
恐る恐る、ベル様の髪の束に触れる。白金に輝くそれは湯気で湿り気を帯びていて。しっかり握らないと指の間から滑り落ちてしまうほど、艶やかな手触りだった。
まるで、大きな妹ができたみたいだ。
だけどあんなに身長差があるのに、さして変わらない座高。ということはつまり、足の長さが……ぐぬぬぬ。
「できました。」
長い髪を束ね終えると、白銀の頭が離れていく。
「狭いな」
「二人で入るからですよ……」
対面するベル様は、不機嫌そうな口ぶりではあるが、その表情はどこか丸みを帯びていた。
ベル様の長い足が、私の太ももに触れる。
湯気の充満した浴室の向こうで、伏せた銀のまつ毛が瞬いた。水滴が、ベル様の髪から湯船に垂れて、小さな波紋を作る。水の滴るなんとやら、だ。
「ベル様は……ずっと一人で、寂しくないの?」
「人間らしい質問だな。寂しさなんて感情はない。」
それは、この世界には悲しみがないことと関係しているのだろうか。
一歩、踏み込むべきか。迷う。
だけど「なぜそんなことを知っているのか」と訝しまれる可能性もある。私はただ森の中で道に迷った人間。ベル様にはそう説明しているのだ。
浮かぶ言葉を飲み込んでいると、ベル様が口を開いた。
「お前は寂しいのか?」
一瞬、答えに迷う。
鏡の中をのぞくように、揺れる水面を見つめた。
浮かぶのは、元いた世界の家族や友達のこと。特にお父さんとお母さんには会いたい。だけど、果たしてそれは寂しさなのだろうか。
ずっと、合理的に生きてきた。自分のことだけを考えて。もちろん塾代とかお小遣いとか、生きる上で家族には迷惑をかけているので、きっちりその分は恩返ししたいと思っている。
だけど、それ以上のものを私は抱けているのだろうか。
友達や家族の存在に対して、真剣に考えてみたことがなかった。
「…………わからない」
「なんだそれは」
「わからないままの方が、いいこともあるんだよ」
でまかせだった。
自分でもわからなくって。だけどそれをベル様には覗かれたくないような気がして。はぐらかす。
「お前は不思議なやつだな」
ベル様の指先が、観察するように私の手を取る。
氷のような冷たさを想像したけど、触れた肌は思いのほか温かいものだった。
揺れる灯火のように、私の指先を見つめる赤い光は柔らかく。庭で見た、雪のウサギを思い出す。
その姿は魔王なんて厳格なものではない。
さながら、孤城に閉じ込められた雪のお姫様。
白い指先に、そんなことを思う。
不思議なのはそっちだよ。
心の中の呟きが見えないように、再び私はベル様から目を逸らすのだった。
* * *
ベル様がお風呂から先にあがって、ひとり残された浴室。
私も出ようとタオルを取ったところで、いつか見た半透明な少女が現れた。
「折り返しだよ」
直感と言うべきか。そろそろ現れる気がしていたから、特段驚きはしなかった。
金の粒子を纏った少女。私をこの世界に送り込んだ、自称案内人である。
「魔王の奪った悲しみの在処はわかったかい?」
「目星はついてる」
シャツのボタンを留めながら答える。
「いいかい、君に残されたのはあと三日だ。それを過ぎれば、君の体は消えてなくなる。」
「わかってる」
案内人の言葉に、柄にもなく苛立っているのを感じる。
「ならいいさ。期待してるよ」
案内人は、金の粒子を撒き散らせながらくるくると回るように踊ると、姿を消した。
薄暗い浴室に、静けさが戻る。波が押し寄せるように心細くなって、急いで服を着る。
残り三日。
案内人の言う通りだ。そろそろ本格的に捜索を開始しなくてはいけない。ベル様との距離も、恐らく順調に近づいている。好条件だ。
だけどどうしてだろう。
頭の奥の方が、ざわざわと波を立てる。
緊張ではない。
まるで何かを拒むように。手のひらには触れたベル様の肌の感触が、いまも確かな質感を持って残っていた。