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母に捧げるレクイエム

作者:

 母が死んだ。

 ベッドに横たわる魂なき容れ物を前に、私は途方に暮れる。


 何も考えたくない。考えられない。

 ただ冷たくなった横顔を見つめるだけで、涙すらも出なかった。



 父が何処かの女性と逃げた後、母は幼い私を抱えて懸命に働いた。

 昼は市場の売り子、夜は飲食店の接客、休みの日も何かしらの仕事を入れて、母は私に苦労させることがないよう身を粉にして私を養った。お陰で私は学校にも行けたし、それなりの学歴と知識を得て商業ギルドの職を得た。

 少しは母に親孝行出来るようになるかな、と思った。


 私が結婚することになった時、母は安堵したような笑顔を見せた。

 孫を見せてあげられるかも、と思ったのが、同窓生のプロポーズに頷いた本音だった。


 私が離婚することになった時、母はホッとしたように微笑んだ。

 数年、旦那になった相手はモラハラとマザコンを足して自己中で割ったような人だった。


 再び母と暮らすようになった家には、母が拾って来た猫や犬が家族として増えていた。


 なんでこんなにいるの!?と詰め寄ると、母は手をヒラヒラと振って苦笑いした。

 曰く、野良の中でもみそっかすなのは野生で生きるのは難しかろうと思って、掬い上げてたら増えていた、と。気持ちは分からなくもないが、頭数にも限界があると思う。

 総勢8匹は多過ぎる。



『自分たちの生活も余裕があるわけではなかろうに。動物を養うとはいい身分だな』


 母の父、私の祖父だという人は、足元に纏わり付くうちの番犬を撫でながら言った。

 それまで全く縁がなかった親戚。初めて会う、良い身形の初老の『祖父』だと名乗る人に、私は警戒心を隠せなかった。


 祖父は貴族だった。

 母の生い立ちは聞いていたが、これまで実際に会うこともなかったので、気に留めたこともなかった。

 だから祖父の言う『伯爵』という身分に、それまで平民として暮らしてきた私は、自分に本当に『青い血』が入ってるんだなぁ、くらいの感想しか抱けなかった。


 母は娘の私から見ても、頭が良くて責任感と芯の強い人だった。曲がった理屈に頷くことはなかったし、例えそれが上司や身分が上の人であっても、上手く言葉を尽くして物事をスムーズに収める人だった。

 今思えば、物腰も、言葉遣いも、お化粧も。人や状況によって変えていたと思う。

 あぁ、そんなところは確かに『貴族』の一片であったのかもしれない。



『良い娘を持ったな』


 祖父は私にも興味を持った。

 私は母に育てられたから、言葉遣いや振る舞いもただの平民というには上級な方だとの自覚はある。だから、平民でありながら商業ギルドの『受付担当』に配属された。


 商業ギルドは様々な人が来る。

 それこそ平民も、貴族も、高下位を問わない。だからこそ、それらに応対出来る者を配置する。

 貴族を意識しすぎて貴族しか置かないのであれば、それは平民に高い壁を感じさせる。平民に沿えば、貴族に対して適切な応対がままならないこともある。

 だからこそ受付担当はバランスが難しいのだと、配属令の受諾を届けに行った上司からそう言われた時、私は母の教育に改めて感謝した。


 そんな私の経歴に、祖父は感嘆した。

 『孫』を見れば、『子供』の育て方が解るな、と。

 孫である私がいっぱしに、商業ギルドで貴族や力のある平民を相手取って仕事をしていることに満足を得たのだろう。


 ふざけんな。

 あんた、おかんに何したよ。


 おかんが私を育てたのは私のためだ。オメーのためではない。

 あんたはあんたの従姉妹である祖母の『直系の血』を蔑ろにして、自分の愛人の子爵家令嬢を祖母の死後に後妻にした。そんで、おかんが後妻から冷遇されてるのも放置して、後に生まれた後妻との息子に『伯爵』を継がせることにしたんだろーが。

 『青い血』の意味では直系のおかんでなくても、従兄弟のあんたの『血』があれば問題はないかもしれんけど。でも、あんたはおかんを『育て』てない。

 自分がしたことを棚に上げて、『孫が真っ当な人間に育ったのは自分の子育てが良かったからだ』とあんたはどの口でそれをほざくんだ。


 母がどんな気持ちで出奔したのか知ろうともせず。

 父が私たちの元から去って、誰にも頼れない中で娘1人をどんな思いで育てたと思う。

 伯爵家の力があれば、母の苦労も私の現状も把握は容易かろうに、『今』、このジジイは来たのだ。それで全てがわかる。


 マジで『ふざけんな』だ。


 私は祖父に言った。

 平民も平民、下町ド平民の言葉遣いで、一気に捲し立てた。

 そして多分、人生で一番素敵な笑顔で言い切った。


「とっとと帰れクソジジイ」


 その晩、母はとっておきのワインで私を誉めてくれた。

 私はその時の母の笑顔を忘れられない。



 ある時、父のどこが良かったのかとふと聞いたことがある。


 母はちょっと困ったように笑って、『あの人は私にあなたをくれたから』と言った。

 よく意味が分からなかった。けど、母が『あなたは私の全てよ』と言って抱き締めてくれたから、まぁいいかと昔より少し小さくなった母を抱きしめ返した。



 床にへたり込んで座る私の足に、不意に重みがかかった。

 母が拾って来た、犬。うちの番犬として家族の一員になって久しい彼が、前脚を私の膝に置いていた。


「あぁ、お腹空いたよね……猫たちにも……ご飯あげなきゃ……」


 黒い眼がジッとこちらを見つめている。彼は母が死んだことを理解しているのだろうか。


 犬と猫のご飯を支度しながら、母の言葉を思い出す。

 

『この子たちは縁あってうちに来たの。きっと何か意味があると思うのよ』


 意味。意味ってなんだろう。

 母がこうして逝ってしまって、私が独りになった今。確かにこの子たちがいることで、私はこうして延々とへたり込んだまま過ごさずに済んでいる。

 でも、それだけだ。

 確かにこの子たちも大事な家族であるけれど。母を失った喪失感は、簡単には癒されない。


「私も……何か、食べないと……」


 正直、お腹は空いていない。むしろ吐き気に近い胃痛がさっきから腹を苛んでいる。

 でも。だけど。


 母は、私が生きることを望んでいるはずだから。


 昨日買ってきた少し固くなったパンを牛乳で流し込んで。それから。

 私はようやく、近所の診療所に医師を呼びに行った。



◇ ◇ ◇ ◇



 葬儀は滞りなく行われた。


 元々ここ数年で緩やかに弱って行った母だった。覚悟がなかったと言えば嘘になるが、それでも、まだ大丈夫、きっと大丈夫、と最終的な覚悟は先延ばしにして来た。


 だって、怖かった。

 ずっと2人でいた、唯一の家族だったから。

 母が神の御許に行くなんて、まだ考えたくなかった。



「気を落とし過ぎないようにな。何かあったら言ってくるんだよ」

「ありがとうございます……」


 心痛な面持ちで声をかけてくれた近所のおじさんに、力無く礼を言う。

 私たちはとても仲の良い母娘で評判だったから、みんな、私を気遣う言葉を置いて行く。ありがたいと思う反面、現実味がなさ過ぎて上の空のような返事しか出来ないけれど。


 でも、母が棺桶の蓋に隠された時にとうとう感情が爆発した。


 いやだ。独りにしないで。お母さん。お母さん。お願い、いやだよ。お母さん。


 土の下に消えた母を瞼の裏に映しながら、私の涙と叫びは止まることがなかった。



◇ ◇ ◇ ◇



「じゃあ、明日の朝も見に来るから……ちゃんと休むんだよ」


 隣家のおばさんが、そう言って私に布団をかけてくれる。

 気付けば自室のベッドに寝かされていて、電気を消したおばさんが静かにドアを閉める音が聞こえた。


 帰るまでの記憶はない。

 泣き過ぎて頭が痛い。


 暗くなった部屋で見上げる天井は見慣れているはずなのに、まるで知らない場所のように感じる。


 キィ、と扉が開いて、少ししてベッドに軽い重さが乗ってきた。犬だ。

 彼は母に拾われたはずなのに、私がこの家に帰って来てからはいつも私のベッドで寝ている。自分で扉を開けてまで来るのだから、そんなにここの寝心地はいいのだろうか。


 既に母の部屋に母がいないことは解っている。なのに、こんな何気ない『日常』が、母の死を受け入れることを拒んでいる。


「お母さん……」


 呟いた声は自分のものでないようで、それが更に現実感を希薄にした。



 あんなにエネルギッシュでバイタリティに溢れた人だったのに。最期は歩くことも話すこともままならず、寝たきりで、うわ言と思えるようなことを呟くことも時折あったけれど。


 ……うわ言、なのだろうか。


 思い出す。母が逝く数日前のことを。


『全部大丈夫よ』

『あなたは私の誇り』

『私はいつもあなたを守るわ』


 それらは昔から、母が私によく言って聞かせた言葉。

 夢見心地に昔を思い出して、言の葉にしたのだと思っていた。

 けれど。



 母は、巫女質だった。

 神殿に就く巫女ほどの能力はないが、清廉で在れるよう朝の行水と祈りは欠かしたことのなかった人だった。

 いつも自分の役目は『あなたを育てること』だと言っていた。

 何か困難にぶつかる度に、私が1人で立ち上がれるよう導いてくれた。


 ……なんだろう。何かが引っ掛かる。何かを見落としているような、忘れているような。

 

 母の眠っているような最期の顔を思い出す。

 まだ1日なのに。母の声が、思い出せない。



◇ ◇ ◇ ◇



 信じられない。

 また『祖父』がやって来た。しかも職場に。



 母の死後、事務手続きや遺品整理に3日の休みを貰い、4日目から職場に戻った私は『日常』に戻ることがこんなにも難しいのかと愕然とした。

 受付なので、対人の仕事はその瞬間だけ私をいつもの『私』にするのだけど、終わればゴソッと感情を落としてしまう。心が動かないのだ。

 いい接客が出来た時、クレーマーに辟易した時、感謝をされた時。それらの話を聞いてくれたのはいつも母だった。

 友達や同僚とも話すことはあったけれど、人生の師であり的確な助言や励ましをくれるのは常に母だった。だから、夕食の時にその日のことを話すのが習慣化していたのだ。


『今日さぁ、お母さん……あ、……』


 復帰後、初めて1人で取る食事の時に、つい口から出た言葉に絶句した。止められない涙と共に食べた食事の味は全く分からなかった。


 それ以降、朝は仕方がないにしても、夜は外食をするようにした。外で1人で食べる食事も味気ないものだけれど、母の思い出が多く残るあの家は、現実を受け入れるにはまだ重い。


 犬と猫たちには、夕食が少し遅くなってしまうのが申し訳ないと思っている。それでも彼らは大人しく私が帰るのを待っている。

 母が繋いだこの子たちの命。母が言った『意味』はまだ分からない。だけど、この子たちは私が養って行こうと決めている。


 隣のおばさんは憔悴し切った私を見て、『まだしょうがない。焦る必要はないのだからゆっくり回復して行けば良い』と言ってくれた。迷惑じゃなければ、たまにご飯を作って持って来るとも申し出てくれた。

 人の優しさに涙が出る。最近、涙腺がとても緩くなった。 



 そんな風にまだ心の回復もままならない時に、祖父は現れた。


 受付窓口は幾つもあるのに、わざわざ私の列に並んで。いかにも手がけている事業の相談、といった体で話をした後、私の終業時間をこっそり聞いて来た。

 無視しても良かった。だけど、前に一度話しただけで祖父の性格はある程度把握していた。この手の人間は自分が断られるなどと思っていない。断ったとしても、今は大人しく引き下がってもまた来るに違いない。

 だったら、何の話か知らないが今回一度きりでカタをつけよう。

 そう思い、終業後に食事の約束を取り付けた。



◇ ◇ ◇ ◇



 きっと美味しいのであろう一流レストランの食事は、やっぱり味がしなかった。

 味覚は『美味しい』と感じているのに、脳にその感覚がうまく伝達しない。

 理由は母のこともあるが、目の前で饒舌に『伯爵家』のことを語る祖父に呆れているのもあったと思う。そんな我が家自慢を聞かされて、私が喜ぶとでも思っているのだろうか。


 異次元の人間と共にする食事は、上司の飲みに付き合うよりも楽しめないものだと初めて知った。



「で、結局何を仰りたいのですか」


 他人行儀な態度を崩さない私に、祖父は一瞬だけ眉を上げた。が、すぐに表情を取り繕えるのはさすが伯爵家当主と言うべきか。

 その一瞬だって、私も商業ギルドで鍛えて貰ったからこそ捉えられたのだが。


 前にうちに来た時は下町ド平民の言葉遣いで捲し立てたけど、今日は場所も場所だし、今の私は盛大な猫を被っている。なんならうちの7匹分の猫を被る勢いだ。


「お前はきちんと商業ギルドで実績を積み、評判も良い。アレは本当に娘を良く育てた」

「お礼は言いませんよ。あなたに褒められるために母が私を育てたわけではありませんから」


 私の牽制に、祖父はひくりと口端を引き攣らせた。

 あらあら、そんなに表情を豊かに表して。母から『祖父』は、真実『貴族』らしい人だと聞いていたのに。

 内心笑った私は、久しぶりに心が動いたことに驚いた。『怒り』は『悲しみ』に勝るのだなと、どこか他人事のように思う。



 祖父は、女にだらしがない人だったのだと聞いていた。

 浮気をされ、人知れず1人で泣いていた祖母を見たことがあると母は言っていた。

 しかし祖母もそこは貴族の夫人。祖父にも周りにもそれを寛容に受け入れる体を示し、けれど心は病んでいたのかもしれない。そう話した時の母は、幼心ながら祖母の力になれず、早逝した祖母を見送るしかなかったことを悔しく思っていたのだと眉を顰めさせていた。


 祖父も、最初から『そう』であったわけではなかったらしい。

 婿養子として望まれ、従姉妹であった祖母の元に来た時は真面目に己の役目を熟し、母が生まれた時にも大層喜び、母も小さい頃は可愛がってもらった記憶があるのだとか。


 そんな祖父は、祖母が病床に伏せる頃から女遊びに興じ始めた。

 婿養子という立場ながら、元々体が強くなかった祖母の元に『来てもらった』伯爵家は祖父に強く言えなかった。

 加えて祖父は優秀だった。税率を上げることなく領地と伯爵家を盛り立て、横も縦も繋がりのある貴族家との付き合いを上手く熟した。

 そんな祖父に物申すことが出来る人間は、その頃には皆無だった。


 とはいえ、祖父は具合の悪くなった祖母を放置するわけでなく、かけられるだけのお金をかけて祖母の治療に全力を尽くしたそうだ。

 

 私には解らない。

 それだけのことを祖母にしたのに、祖母が儚くなってすぐに愛人を家に入れた神経が。

 可愛がっていた母が冷遇されていたのに、全く関与しなかった意味が。


 母は、祖父が寂しかったのかもしれない、と言った。

 

『あなたのお祖父様は、お祖母様をあの人なりに愛していたのだと思うの。でもお祖母様の具合が悪くなり始めて、お祖母様を失う怖さから他の女性に逃げたのではないかしら……』


 実は、と母は続けた。

 母は、祖母とよく似ていたのだそうだ。それは年齢が長じるにつれ、親戚から生写しだと言われるくらいに。

 祖父は、年々祖母に似てくる母に祖母の面影を見たのだろうか。もし祖父が祖母を愛していたのなら、母を見るのは思うことも色々あったのかもしれない。


 それを聞いても。そうして今、祖父とこうして対峙していても。私には解らない。

 母みたいに『貴族』であった時期があれば、少しは欠片でも理解できたのだろうか。


「お前を伯爵家に迎え入れようと思う。私の孫として、少し遅いがデビューを済ませてから、然るべき家との縁談を整えてやるつもりだ」

「え、やだ」


 何言ってんだこいつ。

 なんでそんな提案を私が受け入れるのを前提で言えるのか。

 本当にこの老人の思考回路が理解出来なくて、被った猫たちが一斉にすっ飛んでしまった。


「そんなことを言うために今日私を呼んだの?」

「そんなことと言うが、お前にとっても良い話だろう」

「それはあなたの価値観の話でしょ。私はあなたの孫かもしれないけど、貴族じゃぁない」

「私の孫であるからこそお前は貴族だ。母も死んで、独りなのだろう?離婚歴があっても問題ない、うちの名前があればそれでも構わないという家はいくらもある」

「クソ食らえ」


 私の放った一言に、祖父も、付き従っていた従者共も、給仕に控えていたレストランの使用人も、一様に固まってしまった。

 あぁ、こんな格式の高い所で、こんな下品な言葉を吐く者はこれまで居なかったんでしょうね。

 祖父は以前、私の口の悪さを目の当たりにしただろうに。もう忘れてしまうほど耄碌しているのかしら。


 ナプキンで丁寧に口元を拭った後、椅子を蹴るように立ち上がった私を、彼らは未知の者と遭遇したかのような目で追う。


「私はあなたの申し出を拒否します」

「何故だ」

「私は貴族になるつもりはないからです」

「だが、これから独りで生きていくつもりか」

「生活の基盤はあるし、問題ありません」

「私に……祖父らしいことをさせてはくれまいか」

「……今更?」


 恐らく絶対零度の視線だったと思う。

 私の表情を見て、祖父が傷付いたような顔をした。なんであんたがそんな顔をするんだ。


「母を見捨てたのはあなたです。そして母は私を育てる上であなたを頼ることは一度もなかった。私は母の遺志を尊重します」

「後悔……しているのだ。アレは、……昔から、こうと決めたことは誰にも言わず貫く子だった。家を出た時も、誰にも相談せず……」

「けどあなたは母を探さなかった」

「探した!探した、のだ……」


 そう言って祖父は両手で顔を覆い、嗚咽を堪えるように肩を震わせた。


「探した……そして見つけた、が……アレの気質を考えると、無理に連れ戻すことが良いことなのか……そもそも、私の差し伸べた手を、……あの子が取るとは、思えなかった……」


 それはまるで告解。或いは懺悔。


 あぁ。この人自身を、私は受け入れることは出来ないけれど。

 お母さん。この人は、あなたを愛していたのね。


 それだけは、解った。


「……母のお墓に参ることは止めません。けど、……」


 一度、言葉を切る。

 

 私が今言おうとしていることは、母の系譜を自ら断ち切ることになる。

 母の人生を、これまでの生き様を振り返れば、それはきっと間違っていない。はずだ。


 ……お母さん。間違ってないよね。


 内心呟いた言葉に、気のせいかもしれないけれど。

 母が抱きしめてくれた気がした。


「……本心から母を想うなら、私に二度と関わらないでください。……お祖父様」


 1人の年老いた慟哭を背に、私はレストランを後にした。



◇ ◇ ◇ ◇



「はいはい。遅くなってごめんね、今あげるから」


 帰ったら動物たちの大合唱に出迎えられた。

 今日はいつもより遅かったからな。感傷に浸る間もなく世話に追い立てられる自分に、なんだか少し笑いが溢れた。


「そういえば……あんたたちは、お母さんがいなくても変わらないね」


 ご飯にがっつく犬猫を見ながら、ふと呟く。

 母が寝込むことが増えてから、この子たちの世話は私が引き受けるようになった。

 だからだろうか?動物は主人が逝った後、食欲が落ちたりするという話も聞いたことがあるのだけれど。母がいなくなっても、この子たちは何も変わらない。


「あんたたちの命はお母さんが拾ったから……私も、あんたたちの寿命が尽きるまで、責任もって面倒見るからね」


 その時。ふと、8匹の犬猫が一斉に宙空に顔を向けた。

 なんだろう、と思って私もそちらに目をやるも、そこには何もない。ただ、見慣れた壁があるだけだ。


「……?」


 そしてまた犬猫に視線を戻すと、彼らはさっきと変わらずご飯を貪っていた。



◇ ◇ ◇ ◇



 『日常』は巡る。

 母が逝こうが、私が喪失感に苛まれようが、世界は通常通りに回って行く。

 当たり前だ。


 そんな『日常』から、私は取り残されたような気分になっている。


 仕事に行って、接客をして。同僚とご飯を食べて、他愛無い話に相槌を打って。何度も通ううちに常連になった店で夕飯を摂って、帰って犬猫に食事をあげる。

 母が逝く前から、夕食以外はそう変わることないルーティン。なのに、母がいないだけで何もかもが違う。


 遺品の整理をする度に、母を想って涙が止まらない。

 ふと目に留めた綺麗な景色を、母に伝えたい気持ちが溢れ出る。


 家族を亡くした人は、どうやってこの寂しさを乗り越えているのだろう。

 仕事をする上ではギリギリ切り替えが出来ている。けれど、少しでも油断すると泣き喚きたい衝動が抑えられない。


 動物たちも変わらない。

 私にご飯をねだって、満腹になったらそれぞれお気に入りの場所で寝息をかいている。

 それに癒される時もあれば、『なんであんたたちは平気なの?!』と叫ぶ時もある。


 解ってる。これは私の問題だ。この子たちに当たるのは間違っている。


 でも、母が逝ってから日数を重ねるごとに、私は『生きる』という意味が分からなくなっている。



◇ ◇ ◇ ◇



「初めまして。私はあなたのお母さんに以前お世話になった者です」


 休日。のろのろと遅めの昼食を終えた頃。突然現れた男性は、玄関で人好きのする笑顔を浮かべていた。


 母の交友関係は把握している。なのに、私はこの人を知らない。


「母に何か御用ですか?」

「いえ、近くに寄る用事があったものですから。久しぶりにご挨拶を、と思いまして」


 にこにこ。擬音が付きそうなほどの笑みは、なんだか気圧されそうな雰囲気がある。

 なんだろう、この人気持ちが悪い。

 咄嗟に、母はもう死んだとは言わなかった。言えなかった。


「そうですか。でもごめんなさい、母は今外出してまして」

「それは残念です。いつ頃お戻りで?」


 なんだかよろしくない流れだな。

 どうやって誤魔化してお引き取り願えば良いかと考えた、その時。


 ニャーッ!フギャーッ!

 ワン!ワンワン!


 突然、奥の部屋から猫と犬の叫声が飛んで来た。


「えっ?なに?!どうしたの!」

「あぁ、ワンちゃんが居るんですね」

「ええ。すみません、なんか猫と喧嘩してるみたいで。これで失礼します」

「あ、は、はい。突然すみませんでした」


 半ば強制的に会話を終わらせ、閉めた扉に敢えて音が立つよう鍵をかけた。顔を扉にピッタリと付けて、耳を澄ます。数秒後に聞こえた遠ざかる足音に、知らず詰めていた息を吐いた。


 なんだったんだろう。ものすごく嫌な感じだ。

 動物はたくさんいるけど、今、初めて自分が『一人暮らし』なのだと突き付けられた。

 本能的な恐怖を感じて、ぶるりと震えた身体を抱きしめる。

 

「あ……さっきのなんだったのかな」


 犬猫の騒ぎを思い出して、もう一度覗き穴から玄関前を確認してから踵を返す。

 戻った部屋では、みんな何事もなかったように寛いでいた。


「……みんな仲良くしてね?」


 椅子の上に丸くなって眠る猫の背を撫でながら言うと、くぁ、と小さな欠伸で返事をされた。



 後日、新聞を読んだ私は持っていたコーヒーマグを落としそうになった。


 強盗グループが、数人の仲間と共に逮捕されたという記事。それによると、手口の一つに訪問販売なんかを装い、ターゲットの家の様子を探るということが書かれてあった。

 その際、家族構成が複数人、或いは犬を飼っている家は、捕まるリスクが高いので除外されることがある、と。


 あの時、犬猫が騒がなければ。

 一人暮らしだとバレていたら。


 ゾッと背筋が泡立つ感覚を覚えて、思わず足元で眠る犬に目をやる。


『意味があると思うのよ』


 意味。……意味。

 分からない。でも、何か。なんだろう。


 お母さん。まだ私には分からない。



◇ ◇ ◇ ◇


 

 ある日、仕事が終わっていつもの食事処に足を向けた私は、不意に今日は別の所に行ってみようという気になった。

 食欲は母が逝ってから激減した。味覚は多少戻って来たとは思うけど、とにかく『死なない』ために食べているだけなので、栄養バランスだけを考えて流し込んでいる状態だ。だから、正直メニューはなんでも良い。

 そんな今の私が、別のものを食べる気になったのは恐らく良い事であるはずだ。


 誰に言い訳するでもない理由を脳裏に並べながら、帰路の途中にあるお店を眺めながらぶらぶらと歩く。そうして、なんとなく目についた小さなレストランの扉に手をかけた。



「……あの、突然ごめんなさい。少し、お話させて貰えませんか?」


 西方の郷土料理が売りのメニューは、わりと辛めのものが多かった。でも、味覚が鈍くなっている今の私にはそれが逆に良かったみたいで、いつもより進んだ食欲にお腹が久しぶりに満腹を訴えている。

 食後に出された、辛さに疲れた舌を癒すさっぱりしたお茶を飲んでいる時、その女性は私の隣の席から声をかけてきた。


「えっと……どこかでお会いしたことが?」

「いえ、初めてお会いします。すみません、あの、変な者ではないです……って言っても怪しいですよね……」


 私より少し年上に見える女性は、気弱そうな眉尻を下げ、どうにか私の警戒心を解こうと言葉を尽くしている。

 

 普通、こんな声のかけられ方をしたら絶対怪しむ。何かの勧誘かと、普段の私なら警戒心満載の態度を隠せない。

 でも、なぜか。今日の私はこの人の話を聞いてみようと思った。

 気分を変えようと別の店に入ったからだろうか。いつもと違うことを受け入れる余裕が、今の私にはあった。


「……良いですよ。よろしかったらこちらの席に来られますか?」

「えっ、あ、はい、ありがとうございます」


 私の向かいに席を移した女性は、ちょっと戸惑いながら頭を下げた。


「あの……警戒なさらないんですね?」

「それなりにはしてますけど……まぁ、話を聞くだけなら、と思って」

「ありがとうございます」


 少しホッとしたように微笑んで、女性は背筋を伸ばして居住いを正した。


「では、単刀直入にお伺いします。あなたは神殿へよく行かれますか?」

「え、神殿ですか?」


 質問内容に面食らって、私は目を瞬いた。


 神殿。

 この国の創世記は、太陽神である女神が月と地と海を生み、人を創り出したとされている。その女神を奉るのが神殿で、王族から平民まで全ての国民が年始に詣でたり、結婚式やお葬式も神殿で取り仕切って貰っている。

 私もついこの間、赴いたばかりだ。思い出すと、まだつらい。


「この間……行くことはありました。でも普段からかと言われたら、今年の年始に詣でたくらいです」

「そうですか……」

「あの、あなたは神殿の……巫女様ですか?」

「あ、いえ。巫女気は多少ありますが、巫女ではありません」


 巫女は、神殿で神に仕える女性のことだ。巫女気とは、巫女として神の声を聞くための力のことで、巫女になるほどではなくても生まれつき備えている人はわりと居ると聞く。

 そういった人たちは神殿に入ることなく普通に生活をしつつも、自然と常から身を清めたり、清廉で在ろうと心がける。誰に言われてそうするのではなく、神の力を分け与えられた自覚がそうさせるのだとか。

 母も、そうだった。


「私はなんと申しますか……神声を拝聴するには届きませんが、時折、意思を感じることがあります」

「意思、ですか」

「はい。言葉にするのは難しいのですが……こう、ふと『こうしなければ』と思うことがありまして」

「はぁ」

「今日も、本当は家に帰って夕飯を取るつもりでした。でも、途中でこの店が妙に気になって。それで店内であなたを見かけて、分かりました。今日、私はあなたに会う必要があったのだと」

「はぁ……」


 なんとも反応のしづらい話である。

 ただ、今日、私は何気なく別の店に入ろうと考えた。そして声をかけてきたこの人の話を聞いてみようと思った。それは、今この人が言ったことと妙に符合する気がして、一笑に付すことは出来なかった。


「それで、あなたが私と会って、何があるんでしょう?」

「それは……すみません、分かりません。……ただ、あなたを見た時に神殿の気配を感じました」

「神殿の……気配?」

「はい。もう少し分かり易く言うと……神殿に入った時に感じる神気、とでも言いましょうか。神殿ほどではないのですけど、あなたからそれとよく似たものを感じたんです」

「神気……」


 母は巫女質だった。けれど私は全くそんなものは持っていなくて、母の毎日の祈りも清めも傍から見るだけだった。なんなら冬の行水が寒そうで、風邪を引かないか心配していたくらいだ。

 だから私から神気を感じたと言われても、いまいちピンと来ない。


「私は巫女質ではありませんから、巫女気も持ってないです。でも……気のせい、ではないのでしょうね」

「はい。ですから、もし良かったらあなたのお時間が良い時に、神殿に行かれてみたらどうでしょうか」

「神殿に……」


 正直、母が逝ってしまったことで信仰心が前よりも揺らいでいる自覚がある。神を信じていないわけではないが、こんなに早く母を御許に連れて行ってしまった神に、今はまだ真摯に祈りを捧げる気になれそうにない。

 だから彼女の勧めに頷くことも出来ず、私は押し黙った。


「……何か、おありなのですね。あぁ、いえ、仰らなくて結構ですよ」

「すみません……」

「謝ることも要りません。こうしてあなたとお話をすることが、私の役目ですから」

「……役目?」

「はい。この店が気になって、あなたに会う必要があって、お話をした。私はこれが、今日私が神から与えられた役目だと思っています」


『あなたを育てることが私の役目』


 母の言葉が脳内でリフレインする。


「ですから、神殿に行くかどうかはあなたのご判断で良いと思いますよ」


 そう言って、女性は丁寧に挨拶をして店を出て行った。

 残された私はしばらくその場から動くことが出来なかった。



◇ ◇ ◇ ◇



 数日悩んだ。

 祈りはともかく、別に行くだけなら何も迷うことはないのだけれど。あの女性と母が言った『役目』の言葉が頭にこびりついていて、すぐに足を向けられなかった。


 神はいる。実際に神声を聞く人がいる。

 その神が与える『役目』とは一体なんなのだろうか。


 母の役目が私を育てることだったとして。では、私の役目は?

 私に巫女気はない。だったら役目はない? 

 そんなことはない、はずだ。

 神は人を創る時、人々の縁を蜘蛛の巣の上に配置した。複雑に張り巡らされた糸の上に、無数の朝露のように光る縁は、誰もが誰かと繋がっていて、誰かが誰かに影響を与えている。そういう意味で言うのなら、私も誰かに影響を与えるという役目を担っている。



「こんにちは」

「こんにちは」


 近所の神殿は母の葬儀を思い出してしまうので、次の休日に私は3つ隣の街にある、わりと大きめの神殿に向かった。

 週に一度の休みの日は朝から礼拝があり、一般の人たちも多く参加する。礼拝後の清掃に参加する有志の信徒たちに挨拶をしながら、私は神殿正面玄関の幅広い階段を登って行った。


 神殿に神像はなく、御神体と呼ばれる神気の宿った神からの贈り物が、礼拝堂の正面にある祠に祀られている。各神殿ごとに御神体は異なっていて、鏡だったり石だったり古木だったりと様々だ。

 私は整然と並んだ長椅子の一つに腰掛け、ジッと祠を見つめた。


 あの女性が言った『神殿の気配』なる神気は、巫女質ではない私にはやっぱり分からない。感じることが出来ないものを、認識するのは無理だろう。

 けれど神殿の空気というものは、敬虔でなくとも心が洗われるような気がする。



 しばらく何も考えず、礼拝に来る人たちの静かな喧騒に耳を傾けていると、正午を告げる鐘が鳴った。そして数人の巫女たちが、正午の礼拝に現れた。

 彼女らは一様に白い巫女服に身を包み、祠の前で跪くと両手を胸の前で組み、祝詞を唱え始めた。それは人の声であるはずなのに、澄んだ鈴と重厚な鐘の音を複雑に絡み合わせたように聞こえる。


 目を閉じると、不思議な音色は額のすぐ側で空気を震わせているように感じた。



 巫女たちは神の声を聞く。

 けれど、それはこちらから何かを尋ねて応えてくれるモノではない。神の声は、神が届ける声が必要だと判断された時に下される。

 だから何かを悩んだり困ったりした時に、巫女を頼ることはない。たまに認識違いをしている人もいるが、基本的に巫女は『受信機』なのだと誰もが認識している。


 巫女質な人は巫女になるほどの巫女気はないが、何かを感じて常からの心持ちを清廉で在ろうとする。そういった人たちが、……母やあの女性のような人たちが『役目』を与えられる、として。

 どんな役目?なんのための役目?

 私には分からないけれど……それはもしかしたら、蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸の、『必要』だとされる『縁』に関することではないのだろうか。

 神は無意味な縁は結ばない。誰もが、誰かの影響を受け、それは相互作用として蜘蛛の糸を振るわせて、また誰かの縁に繋がっている。だったら、その影響の果てにあるものは。


 多分……それはきっと、『人』では視えない。『人』である限り、捉えられない。

 何故なら人は、肉体という器からでしか物事を感じることが出来ないから。

 だから、私には分からない。巫女気もなく、『人』である私には、『意味』があるはずの『縁』が繋ぐ『役目』が視えない。


 ……あぁ、そうか。


 巫女質だった母には、母の『役目』が視えていたのかもしれない。



『あなたは私の誇り』

『あの人は私にあなたをくれた』

『きっと意味があると思うのよ』

『あなたを育てることが私の役目』

『私はいつもあなたを守るわ』



 最近は全く思い出せなくなっていた、母の声が聞こえた。

 気のせいではない。耳元で。囁くように。


「お、母さ、ん……」


 ずっと、私の側に居たのね。


 夢でいいから会いたいって願ってたけど、全然出て来てくれなくて、寂しかった。

 でも、お母さんは逝ってからもいつも私を見守っててくれたのね。


 お母さん。お母さん。


 話したいことがたくさんあるのよ。

 犬猫は元気だよ。よく食べるから最近丸々として来た気がするの。この間怖いことがあったけど、あの子たちのおかげで助かったのよ。あの子たちが来た意味、漠然とだけどなんとく解った気がするの。

 それからね、今はご飯がまだあまり食べられないけど、この前お母さんのレシピであのスープを作ったのよ。ちゃんと教えて貰ったことはなかったけど、お母さんの味に近かった。思ったよりお母さんの手順を見ていたのかな。何回か作れば、お母さんの味になると思う。

 それからね、ここに来ることを勧めてくれた人は、年恰好は全く違うのにお母さんに似ていた人だったよ。

 それからね、それから……。

 


 お母さん。……お母さん。



 私は、親孝行出来ていたのかな?

 私は、本当にお母さんの誇りになれる娘かな?

 私は、……私は、お母さんの娘で幸せだよ。

 

 お母さん。


 産んでくれて、ありがとう。

 育ててくれて、ありがとう。


 お母さんが私を育てる『役目』があったように、私にも、何かの『役目』があるのね。

 『人』の肉体を手放した今でも、お母さんは側で私を見守ってくれてるのね。

 そうでしょう?

 お母さんが私を『いつも守る』って言ったのは、きっとそういうことなのよね。


 うん、お母さん。

 お母さんの『役目』はちゃんと理解した。寂しいのは変わらないけど、ちゃんと解ったよ。

 私は、まだ私の『役目』は分からない。でも明日から、少しずつだと思うけど。前を向いて生きて行く。


 だから。今だけは。


 お母さんを想って泣くことを許してね。



 嗚咽が、礼拝堂に響く。

 祝詞を終えた巫女たちが、私に大丈夫かと声をかける。


 大丈夫。大丈夫です。

 私は、亡くした母の愛を今ここで、真の意味で受け取りました。




 お母さん。

 大好きよ。


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― 新着の感想 ―
とても心にきました とても良い話でした
胸にじんと来るいいお話でした。 とても面白かったです。
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