9. みたされて、えられるもの(2)
屋敷の居間でリンはソファに腰掛けていた。
側には中年の男性が立ち、サイドテーブルに薬箱の中身を広げていた。
男性は代々メーラン家に仕える使用人の血筋だった。
当主――つまりリンの叔母からの信用も厚く、猟区の管理を任されていた。無論、リンと同じくヒメヤツハオオカミから一目置かれていた。
「全く、なんてものを拾ってきたんですか」
まだ腫れが残っていたリンの顔に湿布を貼りながら使用人が言った。
翌朝、屋敷に通う使用人はリンの顔を見た途端に昨日何があったのかすぐさま問いただした。
リンも変に隠し立てせず――さすがにリーフに殺される寸前であったことは濁し、駆けつけたモンスターに戦意を失ったことにして――ことの経緯を説明し、馬小屋に軟禁されていたリーフの様子も確認した。
リーフは毛布にくるまって、古い敷き藁の上で一晩を過ごしていた。勝手に外に出ないように、足を鎖と錠で拘束されていた。
二人が見に行ったときにはまだ寝転んだまま動かなかったが、それが本当に寝ているのか、寝たふりなのかは判別がつかなかった。
「拾ったんじゃなくて、向こうからやってきたんだけど」
「それならなおさら、拾わなくてよろしい」
使用人の辛辣な言葉に、リンは唇を尖らせた。
立場はリンの方が上とはいえ、猟区の本来の管理者に強く出ることはできなかった。
なにしろ、ヒメヤツハオオカミとの付き合い方をリンに教えた師匠の一人でもあるのだ。
「一体なんなんですか、あのやたら毛並みのいい野良犬は」
「うん、めちゃくちゃ綺麗だと思わない?」
「お嬢様」
「綺麗なのは事実でしょ」
リンの声は少し浮かれていた。
使用人はため息をついた。
「しかし、本当に憲兵に引き渡さないんですね?」
「だって、なんかそれを狙ってるっぽいし。引き渡した後でやらかされたら面倒臭いじゃん。てゆーか、あれは絶対やらかす。それなら、牙のかかる場所で止めといた方がいいでしょ」
ここなら絶対に逃げられないし、とリンはうきうきしたまま付け加えた。
「そんな、獣を捕まえるような調子で……まあ、あれが人間なのかというには疑念がありますが……」
「ん? 何か知ってるの、ラトラン?」
顔を曇らせた使用人にリンがたずねた。
「隣国について、お嬢様はどれくらいご存じですか」
「東の方にはあんまり興味ないんだよねー」
「でしょうね……」
使用人の声は若干呆れていた。
淑女らしい趣味より社交界より銃と狩猟を愛するお嬢様にとって、興味の対象は常に未開の西の果てだった。
一応軍に籍を置いてはいるが、他の三方を囲む諸国についての認識はモンスターがほぼいない土地であること程度だ。
「東のギリスアン教国では、天使を崇めているそうです」
「天使?」
「詳しいことは私も存じませんが、天使の血を引く人間は銀色の髪をしているとか」
「ふーーーーん、へーー」
リンは湿布の貼られた頬を撫でながら、生返事をした。
リーフの髪は黒髪が混ざっていたが、大部分はまばゆい銀髪だった。
「お嬢様」
あまりにも興味のない態度を使用人は諫めた。
「だとしても、それって私に関係ある? そもそも自国とは宗教違うし」
隣国ではあるが、ギリスアン教国とリドバルド王国は互いの国教を締め出して不干渉を貫いていた。
それが過去のいかなる因縁によるものかリンは知らなかったし、気にしたこともなかった。
「しかし、天使を匿うのはさすがにまずいかと。メーラン家の信用にも、ひいてはご実家のチャーコウル家にも関わります」
使用人はリンの行いに必死で食い下がった。先達として青さのある判断を諫めることはできても、家からの指示なしに貴族の行動を止める権利はないのだ。
勝手に家の名前を出すことは褒められた行動ではなかったが、リンを思いとどまらせる最後の手段として使うしかなかった。
「えー、違うよ。ラトランも言ってたじゃない、『野良犬』って」
リンは手をひらひらとさせながら冗談めかして言った。
「だって、天使って微笑んで人を祝福して、死地に追いやるものでしょ。絶対に矢面に立たない、卑怯者よ」
さらりとリンは毒を吐いた。
「天使があんなに綺麗で強いわけないじゃない」
リンの目はお気に入りの玩具を手に入れた子供のように輝いていた。
「まさかとは思いますが……お嬢様、あれをお相手に選ぼうなんて考えていないでしょうね」
「ふぇっ!!」
「やっぱり考えていましたかっ!」
素っ頓狂な声を上げたリンに、使用人は目の色を変えた。
怒鳴り声にリンは反射的に首をすくめた。
「いやいやいや……だって、まぁー、条件は満たしているしぃー?」
リンが結婚相手に求める条件はただ一つ、猟区を一人で歩ける度胸があること。
リーフは図らずもそれを満たしていた。しかも、リンの力を借りることなく屋敷にたどり着くことができたのだ。
「前提が駄目に決まっているでしょう!」
至極まっとうな意見に反論もできず、リンはさらに小さくなった。
「前の候補者も農民でしたし、常識外れにもほどがあります!」
「いっ……なんで知ってるの!?」
リンは今度こそ目を剥いた。
「メーラン家の者は誰でも知っていますよ。この国でご当主様に隠し立ては不可能です」
「親にもまだ話してなかったのに……」
「もし亡くなられていなければ、もっと騒ぎになっていましたとも」
「さすがに、死人とはいえ勇敢な人の悪口は私でも気分悪くなるよ」
リンは使用人を軽く睨んだ。
「あの人は、ただ農民の生まれってだけで、そこら辺の凡庸な男よりもずっと度胸があったんだから。それで死んだのはバカだけど、バカにしていいのはそれだけだから」
少女の言葉には咎める色が含まれていたが、使用人は全く怯まなかった。
「国の軍需産業を一手に引き受ける家のご令嬢と、田舎の平民がどうやったって釣り合うわけがないでしょう」
耳の痛い常識的な説教が繰り返された。
「全く、節操なしにもほどがあります。うちの娘だったら怒鳴りつけるところでしたよ!」
「もう声でっかいんですけど」
耳を押さえてリンは文句を言った。
「分かってる、分かってるわよ……無理なことくらい」
「おわかりいただけまして、恐縮でございます」
ようやく折れたリンに、使用人は慇懃無礼に返した。
むくれたリンの顔の手当を終えて、使用人は薬箱を片付けるために部屋を後にした。
一人、部屋の中に少女が取り残された。
元気過ぎて、周りを困らせてしまう少女が一人でソファに座っていた。
「でも、ちょっとくらい夢見たっていいじゃない」