4. 不吉の獣(1)
昏い森の中をゆらゆらと黒い影が進んでいた。
太陽は沈んで久しく、昼の獣たちはすっかり寝静まった時間だ。空の半分欠けた月は既に沈みかけていて、幽かな光で夜を照らしていた。
その頼りない光すら避けるように木陰をつたい、ぬかるみと湿った苔を二本の足で踏みながら、影は静かに深い森を渡っていた。
……ずちゃ……ぬちゃ……ずちゃ……
水気のある粘着質な足音は欠伸をするようなもったりとした間隔で繰り返され、極限まで絞られた音量は草葉を揺らすことなく暗闇に溶けて消えた。
「はー、はー、はー……」
人影はマントのように大きな黒い外套で身体を覆い、頭もまた目深にかぶったフードで隠していた。フードの下から漏れ聞こえる呼吸音は疲労で浅くやや速い。
丸く縮こまった背中は一歩踏み出すごとにふらついて、いつ泥に足をとられて倒れてもおかしくなかった。
実際、足元がおぼつかずに何回も転んだせいで膝下は泥が何層にも重なって固まっていた。
背中に背嚢はなく、腰にさげるものも少なく、目立つものといえば携えた剣くらいしなかなかった。道なき森を歩くにはあまりにも無謀な身軽さだった。
見る者がいたならば、生命もなく永遠に彷徨う幽鬼と勘違いするほど場違いで、現実感のない格好だった。
果たして剣一本で、森の野獣に襲われたときに対抗できるのか、そもそも疲労困憊で抜くことができるのかさえ怪しかった。
それが分かっているのか、影は森の住人達に見つからないよう、注意を引かないようになるべく息を殺し、足音を忍ばせ、泥の臭いで存在を塗り潰していた。
不意に音を立ててしまったら、身体を縮こまらせてその場で留まった。何者にも気付かれていないことを、祈るようにじっとしていた。
あまりにも惨めな、弱者の行進だった。
だが、その歩みは決して下がらず、止まることもなかった。
次の一歩で森にのまれてしまうかもしれない。些細な過ちで骨も残らず消えてしまうかもしれない。
それでも、前に進むことに一切の躊躇いはなかった。
ただひたすら前へと進んでいくと、暗闇の中から鉄柵が現れた。鉄柵は身の丈を優に超え、見渡す限り行く先を阻んでいた。
分厚い革手袋をはめた手が鉄柵に触れた。
手は音を立てずに格子を握りしめた。
月明かりの届かない暗闇の中で、新緑色の瞳だけがぎらぎらと輝いていた。
◆ ◆ ◆
少女は朝から一人でメーラン家の別荘の中の掃除をしていた。
通いの使用人はパンを届けた後、庭の手入れを軽くしてから帰ってしまった。
普段は使用人がヒメヤツハオオカミへの餌やりのついでに屋敷の手入れをしていたが、少女が滞在している間は手間賃としてその大半を引き受けていた。
部屋の換気をして空き部屋の埃をはたきで払い、廊下を掃いてドアマットの汚れをこそぎ落とした。辺鄙な立地とはいえ、貴族の家が煤けていては様にならないからだ。
そして何より、今は少女が暮らしている。
掃除を終えて少女は台所で一人軽い昼食をつまんだ。塩漬け肉をスライスしたパンにのせてかじり、缶詰の豆をサラダ代わりにした。
パンは毎日屋敷に届けられていたが肉や野菜は三日に一度、ヒメヤツハオオカミの餌とまとめて荷馬車で運ばれていた。
そのため、少女の食事は日持ちがする食材や保存食が主となっていた。
昼からは森の見回りだ。
森――正式には第三特別猟区の周囲には狼の逃走を防ぐために鉄柵と獣避けの木がめぐらされている。その境界の点検を行い、周辺住民の安全を確保することも少女の仕事だった。
少女は上下二連式の長銃を携えて森に入っていった。
獣道よりもやや広い幅の歩道が森の中に巡らされており、道なりに進めば森の端まで迷うことはなかった。
森を歩く少女の周囲には狼の姿はない。少女の腰には小さな鐘が提げられていて、透き通った音を常にチリチリと振りまいていた。
「あれ?」
鉄柵の強度を確認していると、少女は普段と様子が違うことに気付いた。
柵の上方に、泥がべったりと付いていた。まるで、誰かが柵を乗り越えた後のように見えた。
鉄柵は子狼が抜けられないような目の細かさと大人の狼が跳び越えられない高さがあるが、あちこちに出っ張りがあるので人間がよじ登ることは難しくない。特に、返しは内側を向いているので外部から侵入しやすい。
だが、猟区に侵入するものなど考える必要は通常なかった。
屋敷には普段誰も住んでいないうえにめぼしいものもなく、ヒメヤツハオオカミを密猟しようにも相当な手練れを十数人連れてきたとして犠牲者は免れず割に合わない。
子供さえ度胸試しに入り込むことは滅多にない。入ったら生きて戻れないからだ。
分別のない子供への教育に、年に一度ヒメヤツハオオカミが生きたままの家畜を貪る様を見せつける催しもやっている。境界近くに放された羊が逃げる暇もなくバラバラにされていく様に、子供が泣き叫んだり卒倒したりするのは恒例になっていた。
おかげでどんな無鉄砲でも骨の髄まで猟区の恐ろしさを知っている。
「まさか、ね」
少女はあり得ない可能性を頭の中から追い出して、柵の点検を続けた。
他に柵に異常はなく、密猟者の偵察かと少女は結論づけた。メーラン家に連絡は必要だが、急を要するものではない。
本日分の仕事を終え、少女は日が高いうちに帰路についた。
「ん?」
木陰の湿った暗がりが不自然に乱れていた。普段は足を踏み入れないぬかるみに近付いて、確認する。
獣の足跡とは明らかに形の違う、靴の跡が残されていた。さすがに少女の顔色が変わった。
誰かが猟区に入り込んだのは明白だった。
常人が生きて帰れない場所に立ち入った無謀さには感心の前に呆れ果てるところだが、よからぬ目的で入り込んだのであれば企みを阻止しなければならない。
足跡の向かう先は少女の屋敷の方角だった。まだ屋敷は見えない場所だが、歩道や空に昇る炊事の煙を見れば、位置が分からずとも当たりをつけて辿り着くのは容易い。
途中で待ち伏せされている危険性も考えて、少女は足音を忍ばせて屋敷へと戻っていった。
足跡は道に沿って続いていたが、道に踏み入れることはなく暗がりを伝って進んでいた。草食獣のように慎重な足取りで、歩幅は狭い。そのおかげか奇跡的に狼たちに補足されていないようだった。