10. 天使の真意(1)
リンは使用人に監視させながら一日中リーフを色々とこき使ってやるつもりでいた。
しかし、分かったのはリーフはあらゆる家事がてんで駄目だということだけだった。
昨夜の惨状然り料理はできない、洗濯板の使い方も分からない、針仕事も然り、草抜きすら根っこを残すド下手という有様だった。
身軽さだけはずば抜けていて、屋敷の外壁をひょいひょいと登ってみせた。そのため、リーフは一日かけて屋敷中の屋根と窓を磨きあげる羽目になった。
屋敷の上に立つ見慣れない人影に、森のヒメヤツハオオカミもちょくちょく野次馬に集まってきた。
「あの危なっかしい手つきから察するに、相当高貴な生まれだったんでしょうね」
使用人がリンに報告した内容はあまりにも明け透けだった。
夕食の下準備をしてから、空が明るいうちに使用人は領主邸に帰って行った。
リンと約束した通り、招かれざる来訪者の件については今のところ条件つきで黙ってくれるとのことだった。
「いいですか、何か仕掛けてくるようでしたら情けなど無用ですよ。眉間なぞ狙わなくとも人間は腹を撃ち抜けば死ぬんですから」
使用人は、今宵も怪しい輩と二人きりになるリンにしっかりと念を押していった。
銃を常に手元に置いておくこと、食事が済んだらすぐに馬小屋に閉じ込めること、襲ってきたら躊躇わず撃つことを約束させ、既に死闘で決着がつきかけたことを知らぬまま使用人は発った。
そして、リンは使用人の所見をそのままにリーフを詰った。
「あんた、今までどうやって生きていたの?」
リンは腕組みしてリーフの前に立っていた。
リーフは大変落ち着いた――あるいは薄ぼんやりとした顔で背中を丸めて立っていた。死闘の最中に見せた勢いが嘘のように、静かで存在感が薄かった。
一日かけて不器用ながらに清掃に従事した結果、リーフの借り物のシャツは元々真っ白とは言えなかったが、泥で袖が茶色に汚れていた。襟も汗を吸ってくたびれていて、昨日洗ったばかりの銀の髪の輝きも砂埃で既にくすみ始めていた。
「息をして、死なない程度に食事をして」
「そういうことじゃなーい! 稼ぎのもとは! 生活の仕方は! 逆に何が出来るのよっ!」
リンがリーフの鼻先に指を突きつけた。リーフの鼻はもうすっかり治っていた。
リーフがかなりの捻くれ者であることはリンも薄々気付いていた。
矢継ぎ早に指摘を重ね、減らず口を黙らせた。
「そんなんでよく一人旅してたわね!」
言い放ってから、そういえば旅をしているにしては軽装だったとリンは思い出した。
「生活手段か……強いて言うなら、身売りかな」
「は? そんなにひょろいのに力仕事できるの? まあ、体力はあるみたいだけど」
リンは言葉の真意が掴めずきょとんとした。
確かに一日中駆り出されていたのに、リーフはそれほど疲れていないようだった。
むしろ、寝床と食事を提供されたことで昨日よりも活力があるように見えた。
「そういうことではなくて、他人の性欲を満たして対価を得るということだ」
リーフの口調は内容に反して非常にさっぱりとしていた。表情筋も変わらず動いていなかった。
さっぱりとしすぎて、リンが意味を理解して顔が茹で上がるまでの時間差がかなりあった。
「そういうことはご存じではないのかな、お嬢様」
「そ、そそそそ、それくらいは知ってるしっ!」
「成る程、お嬢様は大変純情でいらっしゃるようで」
リーフの言葉にはざらっとした棘が含まれていた。
「でもっ、私の方が生活力あるしっ! 偉いしっ!」
「偉いかどうかは置いておくとして、確かに貴族には有り余る生活能力だと思うよ」
「馬鹿にしてんでしょっ!」
「客観的事実だと思うのだけれど」
「ああ言えばこう言う! 自分の立場分かってんの!?」
「勿論。君は今、ボクを閉鎖環境で脅して従えさせる立場で、そしてあまり貴族らしくないお嬢様だ」
「あーーーー、口減らなさすぎてまじむかつくわー」
リンは真っ赤な顔のまま地団駄を踏んだ。
「でも、そそそんなことしか取り柄がないくせに旅しようとか、超絶無謀なことやってんじゃない」
言い負かされたままではいられないとリンは破れかぶれに噛みついた。
そして、これにはリーフの鉄面皮も揺らいだ。
「……好きで旅をしているわけではない」
口調には隠しきれない苦さがあった。視線が自然と下へと向いた。
「どうしても、果たさなければならないことがあったからだ」
リーフの目つきが少し険しくなった。取り繕った気怠げな顔が少しだけ剥がれた。
リンはその表情に思い当たるものがあった。同僚をモンスターに殺された兵士が、新品の弾丸を見るときの目に似ていた。
「ふぅん……だから、ここから出て行きたいってわけ」
「できれば早めに解放してくれると助かるのだけれど」
口調こそ静かだったが、生命力を象徴するような新緑色の瞳に生き急ぐ炎が宿っていた。
「だーーめっ! わ・た・し・をっ、殴った分だけ働いてから! つまり、後三日は働いてもらうから!」
立てられた三本の指に、リーフは首をかしげた。
「……そういう話だったかな?」
「してなくてもそれが当然でしょ。当然のことを約束に入れるわけないじゃん」
さも当たり前のようにリンは言った。自分が間違っているとは微塵も思っていない顔だった。
「当然、なのか」
リーフは眉根を寄せた。狼が目の前で二足歩行をして、茶を煎れる様を見ているような顔をしていた。
「当たり前じゃない! 殴られっぱなしで済ませてやる子犬ちゃんとでも思ってた?」
リンの横暴ぶりに、リーフは目を閉じてため息をついた。
「というわけで、明日もきっちり仕事してもらうからねっ」
リンは使用人が用意した夕食を手早く出した。
レバーパテと薄く切ったパンに、昨日と同じ麦の粥。
麦粥は説教している間に煮えて、いつも通りの香ばしい香りを台所に振りまいていた。
「はい、今日のぶん」
昨日のリーフの食いつき方を思い出しながらリンは麦粥をリーフの前に出した。
しかし、リーフは手を出さなかった。
しばらく湯気のあがる皿を眺めた後、ゆっくりと視線をリンへと移した。
「これは君が作ったものではない?」
「ん? まあ、準備は昼間いたラトラン――あ、使用人のことね――あの人がやってくれたけど」
見た目は昨日と何も変わらないというのに、いとも簡単に看破したリーフにリンは驚いた。
それからリーフは麦粥を食べ始めた。
だが、その速度は昨日とは目に見えて遅くなっていた。
「あれ、好きな味じゃなかったの?」
リンも自分の分を口に運んだ。材料もレシピも同じなだけあって、味も食感も昨日とほぼ同じだった。
「……好きな味というものは、ない」
それが、リーフが食事中に発した最後の言葉だった。