その1
西の大陸の西端に近いクレスティア村から始まる物語。
こんなはずではなかった。頭の中で何度後悔の言葉を反芻しても、現実は変わってくれるはずもなく―――。
魔獣の群れに急襲され、身寄りのない私の面倒を見てくれていた義父はあっという間に物言わぬ亡骸となっていた。
この辺りは魔獣が少ないと聞いていたし、野営の火も焚いていたので、旅の疲れと緊張で、私は眠ってしまっていた。
他の従者も混乱の中、既に殺されてしまっていた。
この数を相手に私だけではどうしようもない。とりあえず―――。
「ナイトメア!」
周囲に暗い影が落ち、魔獣の群れに混乱が広がる。その間に弓を取り、矢を射かける。
ここからは魔獣との我慢比べだ。
詠唱と射撃を繰り返し、魔力と体力が底を尽きそうな頃、何とか魔獣は諦めて去ってくれた。
腰が抜け、ヘナヘナとその場に崩れ落ちる。
その瞬間―――。
「へへっ、待ってた甲斐があったってもんだぜ。」
そう言って、男たちが姿を現した。
「お頭、積み荷はなかなかの上物ですぜ。」
馬車の積み荷を検めた男が声を上げる。
「そいつは良い。さあ、アンタは奴隷として売ってやるよ。まずはそのベールを剥いで、顔を拝むとしようか。」
お頭と呼ばれた男は下卑た笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
矢はほぼ射ち尽くした。魔力もほとんど残っていない。それでも、可能性が少しでもあるのなら、やれることをやる。
「ライトボール!」
最後の魔力を振り絞って、真上に打ち上げる。そして、後退りしながら、短剣を抜き、お頭と呼ばれた男を睨みつける。
「ククッ、気の強い女は嫌いじゃないぜ。」
こんな山奥では助けも来ないはず。それを見越しての余裕だろう。
魔法と弓はともかく、私の剣の腕はお世辞にも良いとは言えない。
小動物をいたぶるように切りつけられ、瞬く間に衣服はボロボロにされ、所々、肌が露わになる。
「ほう、予想以上に良い身体してるじゃねえか。こいつは顔を拝むのがますます楽しみだ。」
言いながら、お頭と呼ばれた男は力任せに剣を振り下ろす。
それを受けた私の短剣はポキリと折れた。
こんなはずではなかった。頭の中で何度後悔の言葉を反芻しても、現実は変わってくれるはずもなく―――。
ウィルはいつも通り、夜の見回りをしていた。
何があるわけでもないが、風や星、虫の鳴き声から季節の移ろいを感じることができ、そう悪くない時間だと思っている。
と、一際明るい光球が打ち上がるのが見えた。いつもとは違う何かが起きていることを察して、ウィルは光源の方角に走った。
男たちの声がする。
「さあ、もう諦めな。」
少女の両手を押さえ、服をビリビリと破いた。
「いやっ!!」
月明かりの下、肉感的な肢体が露わになる。男たちがゴクリと生唾を飲み込む。
「へへっ、こいつは良いや。高く売れそうだ。さぁ、顔も見せてくれや。」
男が少女の顔のベールに手を伸ばす。
ウィルは走りながら、小石を拾い、力いっぱい投げつける。
「グエッ!」
短い声を上げ、男の一人が倒れる。
「誰だ!」
男たちの注意がこちらに引きつけられる。
「その人を放すんだ!」
「なんだ。ひとりか。やっちまえ!」
男たちが一斉に襲いかかってくるが、ウィルは鎧袖一触で次々と男たちを倒した。
残るは少女を捕まえていたひとりだけだ。
「クソッタレが!」
男が剣を抜き、ウィルに斬りかかる。
男の一刀を躱し、ウィルが拳を一撃、男の腹部にお見舞いすると、男はゆっくりと崩れ落ちた。
ウィルは男たちを縛り上げ、縄に繋ぎ、目隠しをした。その後、ウィルは茫然としている体であった少女に話しかける。
「大丈夫?」
「お義父様、みんな・・・」
少女は我に返った様子で、大粒の涙を流した。ウィルは少女に外套を被せて話しかける。
「とりあえず、ここから少し離れたところにある僕の村へ行こうと思う。良いかな?」
「・・・すみません。ありがとうございます。」
主人と従者の亡骸は革袋に納め、魔獣の死体は魔法袋に収納する。男たちは数珠繫ぎにして馬車の後ろに括り付け、歩かせるようにする。
馬は一連の騒ぎでいなくなってしまっていたので、ウィルは自分で馬車を曳くことにした。
「ちょっと失礼。」
少女を抱きかかえて、フワリと御者の席に座らせる。
「君はそこで少しでも、ゆっくり休んでね。」
「でも・・・」
「大丈夫。村はすぐそこだから。身体強化の魔法をかければ、これくらいはなんてことないよ。」
ウィルは涼しい顔で軛の部分を持ち、馬車を曳く。馬車は軽々と動き出した。
「・・・」
それで納得したのだろう、俯いて膝を抱えたまま、少女は押し黙った。
ウィルは黙々と村への道を進む。
風は少し冷たく、その分、月と星が綺麗に輝く夜だった。
途中で大きな街道から逸れて、馬車1台がやっと通れるくらいの道を進んでいくと、小さな集落にたどり着いた。
「ウィル、帰ってきたの?」
女性の声がして、建物の扉が開いた。
「母さん、ただいま。」
ウィルと呼ばれた青年は呼びかけに応える。
「ウィル様、お帰りなさい!」
「お帰りなさい!」
元気いっぱいに次々と少年少女が飛び出してくる。見たところ、いろいろな種族の子どもたちだ。
「ごめんね。今日はね、あまりお土産はないんだ。困っている人を見つけたんだ。」
そう言って、ウィルと呼ばれた青年は私の方を見た。彼の外套を被ったままの私は、深々と頭を下げた。恐怖、不安・・・いろいろなものが頭の中でゴチャゴチャになって、どうしたら良いのかわからなくなっていた。
「・・・とてもつらい経験をなさったのね。フィーリア、その方に手を貸してあげてくれるかしら。」
そう言った女性の顔はこちらを向いているものの、その双眸は閉じたままだ。目が見えないのかもしれない。フィーリアと呼ばれた獣人の女の子は私の方に近づいてきた。
「アタシはフィーリア。とりあえず、家の中に入ろ。暖かくして、みんなと一緒なら、きっと大丈夫だから。」
この人たちは悪い人たちではないだろう。悪い人たちだとしても、最早、私にはどうすることもできないのだが―――。助けてもらった命なのだ、提案に身を委ねるしかない。
私はゆっくりと、馬車から降りる。
「お姉さん、傷だらけだよ?」
馬車から降りる際に一瞬露わになった私の身体の様子を見逃さず、フィーリアは心配そうな声を上げる。
「・・・そうね。それに、少し、疲れたかもしれないわ。」
そう言って、初めて私は自分が限界に近いことを自覚する。緊張の糸が切れたのだ。
「うーん、まずはお風呂かな。それから、ハーブティーを淹れて、お話!あ、お腹は空いてる?」
フィーリアは明るくマイペースな性格のようだ。話すたびに、耳も尻尾も表情も良く動く。彼女に肩を預けながら、私は建物の中へと入った。
ウィルは捕らえた男たちを水を与えた上で、改めて両足も縛り、村の馬車に放り込んだ。
少女の義父とその従者の亡骸は簡単な棺桶に納め、曳いて来た馬車に載せて、そのまま積み荷ごと村の倉庫に置いておくことにした。
ひと通りの作業を終えて家に戻ると、母とフィーリア、そして、助けた少女がテーブルを囲んで座っていた。他の子どもたちはもう遅いので寝かせたようだ。
「ウィル様!フィーリア頑張ったよ。偉い?」
ウィルは笑顔で頷いて、フィーリアの頭をワシャワシャと撫でる。フィーリアはとても幸せそうだ。家の中の灯りに照らされた少女を改めて見ると、やはり自分よりも少し年下のようだが、目元以外は見えないので、正確なところはわからない。
「早速だけど、ウィル。そして、そちらのお嬢さん。悪いのだけれど、説明をお願いできるかしら?」
母に言われて、ウィルは頷き、口を開く。
「僕はウィリアム。一応、肩書はクレスティア男爵領の領主だよ。まぁ、このクレスティア村以外には集落はなくて、ここにはいろんな種族の子どもたちと母さんと僕しかいないけれど、何とか楽しくやっているよ。母さんの名前はセシリア。この子はフィーリアで子どもたちの中では一番のお姉さん。」
フィーリアはお姉さんのフレーズに満足したのか、ドヤ顔でウンウン頷く。
「それで、君のことを教えてくれないかな。辛いことがあったばかりで、話したくないこともあるだろうし、話せる範囲で良いから。」
少女はお風呂に入ったようで、衣服も着替えていた。スープとパンにも少し手を付けてくれたようだ。
「・・・私はソフィアと言います。東の方の生まれです。父は狩人だったので、弓を父から教わりました。父は幼い頃のある日、突然いなくなりました。母のことは知りません。ただ、私の肌の色や耳の形、闇魔法が使えることは母の影響なのでしょう。
父がいなくなって、頼る親戚もなく、途方に暮れて彷徨っていたら、奴隷商人に捕まりました。そんな時に私を救ってくれたのが義父です。奴隷を虐待したり、慰み物にする主人もいますが、義父は敬虔なアスラマ教徒でしたので、私を奴隷から解放するだけでなく、様々な学問を学ばせてくれました。・・・本当に感謝しても、しきれません。」
アスラマ教徒の女性が髪を隠すというのをウィルは聞いたことがあったが、ソフィアが目元以外を覆い隠すベールを着けて身体の線が出ないような服装をしているのは、義父の信奉するアスラマ教の教えなのだろう。
「カルケドンからマッサリアまで船で来て、そこから陸路でポルトゥス・ナムネトゥスを目指していました。義父はそこで新しく事業を始める予定でした。」
「それじゃあ、ご家族は?」
ウィルが尋ねると、ソフィアはギュッと拳を握ってから言葉を紡いだ。
「・・・奥様とご子息は先にポルトゥス・ナムネトゥスで準備をしながらお待ちです。ただ、うまくは言えませんが、私とは折り合いが悪いのです。」
「じゃあ、場所を教えてもらえれば、明日、僕がご遺体と荷物を届けるよ。それと、できればソフィアさんが着ていた服をもらえないかな。」
「あの、それはどういう?」
「折り合いが良くても悪くても、襲われてボロボロになった服を渡されれば、それなりの対応をとるはずだから。僕はソフィアさんを見ていないと言うよ。」
「わかりました。」
ソフィアは呟くように言い、口をキュッと結ぶ。
「難しいことはわからないけど・・・ソフィアさん、行きたいところややりたいことが見つかるまで、好きなだけここにいてくださいね。」
本当はわかっているはずだが、のんびりした口調でセシリアが言う。
「はい。ありがとうございます。」
ソフィアは深々と頭を下げた。
翌朝、ソフィアから遺体と遺品を引き渡す家族の所在地を書いたメモを渡されたウィルは、捕らえた男たちも載せて村の馬車で出発した。
クレスティア村からポルトゥス・ナムネトゥスまでは朝出発して夕方前に着くほどの距離だ。
フィーリアが起きると連れていけとうるさいだろうということもあり、明け方前に出発しているので、日暮れにはかなり余裕があるうちに到着できるはずだ。
ウィルは体力には自信があり、また気候の良い時期で馬の足取りも軽かったこともあり、何度かの小休止を挟んで、目算どおりにポルトゥス・ナムネトゥスに到着した。
城門の衛兵に経緯を説明し、男たちを引き渡した。衛兵とは顔なじみなので、簡単な聞き取りのみで済んだ。
ソフィアのメモを頼りに通りを進むと、新規開店の準備をしている建物が一軒あった。名前も間違いない。
ちょうど、番頭役と思しき風格の男が出てきたので、声をかけ、事情を説明し、遺体の入った簡素な棺桶と遺品を確認してもらう。
番頭役と思しき男は血相を変えて建物の奥に消え、少しすると小走りで夫人と思しき女性がやって来た。カルケドンを中心に一族で各地に店を構えており、ポルトゥス・ナムネトゥスにもそのために来たとのことで、今後のことはカルケドンの親族と相談して決めるそうだ。
夫人と思しき女性からは深い感謝の意を示された。しかし、ソフィアの着ていたボロボロの服を示し、ソフィアのこと以外は見たままを話しても、残念ながらソフィアに対する芳しい反応は得られなかった。
「あの娘はジャーリヤだから・・・」
そんな風に夫人と思しき女性が呟いたようにウィルには聞こえたが、意味がわからないし、他人の家族の事情に外野がとやかく口を挟むものではない。とりあえず、やるべきことはやったので、犯人の男たちは衛兵に引き渡したことを告げ、深々と一礼して、ウィルはその場を去った。
馬車を預けて、魔獣の素材を交換し、馴染みの店で明日、村に持って帰るものを注文すると、すっかり日も暮れてしまった。身一つであればとんぼ返りしたいところだが、貴重な村の馬車を置いて行くわけにはいかない。
かと言って、あまりブラブラと出歩くのも経験則的に危険であるとウィルは考え、宿に踵を返そうとした矢先、
「あぁっ!ウィルだ!こっちに来たなら、どうして言ってくれないのよ。」
「―――やぁ、ベア。久しぶり。」
悪い予感が的中してしまった。
「あたしの質問に答えてない。どうして、こっちに来たって教えてくれなかったの!?」
彼女はベアトリス。このロワール公国の公女だ。
「いろいろと立て込んでいてね。終わってから声を掛けようと思っていたらこんな時間になったものだから。」
「だから?どんな不都合があるの?」
ベアトリスは腰に手を当てて不満げな様子だ。
「夕食は家族と摂った方が良いし、君がどこかの誰かと夜まで一緒にいたなんて噂が立っても、立場上、宜しくないだろう?」
「・・・あたしはそれで良いんだけどな。」
ベアトリスはボソっと呟く。
「え?」
「あたしは兄様、姉様みたいにお行儀良くする必要ないもの。ほら、行くわよ!」
ベアトリスはそう言って、ウィルの腕に手を絡ませ、引っ張っていく。
「わかった。わかったから。」
こうやって、気の済むまで連れ回され、適当な時間で宥め賺して、彼女を館まで送ることになるのだ。
私が目を覚ましたとき、既にウィルさんは出発した後だった。
それでも、まだ明け方だ。部屋の扉を開けると、階下から仄かに良い匂いが漂ってくる。階段を降りると、セシリアさんが台所に立っていた。
「あら、おはよう。ソフィアさん。」
「おはようございます。セシリアさん。何か手伝いましょうか?」
「温め直しているだけだから、大丈夫よ。」
「・・・そうですか。」
訝しげな雰囲気を感じ取ったのか、セシリアさんは笑って言う。
「フフッ、目が見えないのに危なくないか、気を遣ってくれたのね。」
「いえ・・・はい。失礼しました。」
セシリアさんはフンワリした印象だが、同時に全てを見透かされているような、背筋が伸びる感じがする。私は嘘は良くないと思い、言い直した。
「頭の中に地図を思い浮かべてね、薄く魔力を伸ばすのよ。そうすると、形がはっきりわかるの。だから、大丈夫。疲れるから、あまり使わないけどね。」
目を閉じて、言われたとおりにやってみると、朧気ながらに感覚が理解できた。
「魔力量を増やしたり、方向を絞るとよりはっきり見えるのよ。フフッ、あなたは筋が良いようね。」
「ご教授ありがとうございます。」
私はペコリと頭を下げた。
「そう言えば、ソフィアさん。食べられないものとかはあるのかしら?」
「豚肉はダメです。あと、お酒は飲めません。個人的な好き嫌いはないと思います。」
「そうなのね。知らないことが多くて、失礼なことをしてしまったらごめんなさいね。」
「それはお互い様だと思います。」
弱火で温めている鍋がそろそろ良い音を立ててきた。
「これはね、わざと弱火なの。理由はね・・・」
「おはよう!今日も良い匂いだね!」
セシリアさんの言葉を遮るように、扉が勢い良く開き、フィーリアの声が響く。
「ね?」
セシリアさんが笑うのを見て、私も思わずクスッと笑ってしまった。
他の子どもたちも順番に降りてきて、朝食を食べる。野菜たっぷりのスープとパンだ。
「今日はね、ウィル様は帰って来ないよ。ポルトゥス・ナムネトゥスは遠いからね。明日の夕方かなぁ。だからね、今日と明日はアタシが頑張るんだよ。それで、ウィル様に褒めてもらうんだ!」
さっきまで置いていかれたと拗ねていたフィーリアはニコニコしながら、私に話しかけてくる。
「そうなの。ねえ、フィーリア。私にもできることはあるかしら?」
「そうだねえ。ソフィアさんは狩りはできる?」
「弓を扱えるわ。」
「そうなんだ。でも、その格好だとしんどいかなぁ。」
フィーリアはウンウン呻っている。
「この格好はね、義父さんの意向に沿ったものだったから。もう少し動きやすいものに着替えるわ。」
アスラマ教を信奉する女性は人前では身体のラインや髪をそのまま出さないようにしなければならない。ゆったりとした上着を着て、ズボンを履き、髪は編んで、スカーフや帽子を被る。素材や着こなしを間違えなければ、狩りの服装としての親和性も決して低くはない。一応、そういう服も持ってきている。
「そうなんだ。でも、どうしてそんな格好をしているの?」
「女性は美しいもので、美しいものを見せびらかすといろいろな欲望を人の心に生んでしまうから、とされているわ。」
私の説明に、フィーリアは小首を傾げる。
「フーン、難しいんだね。アタシは美味しいご飯をいっぱい食べて、お昼寝して、ウィル様に褒められたら幸せ。それ以外は別に欲しいものはないかなぁ。」
朝食を綺麗に平らげて、フィーリアが立ち上がる。
「ごちそうさまでした。じゃあ、着替える時間をもらって、家の前に集合で良いかしら?」
私が言うと、フィーリアは頷く。
「うん。今日はお皿洗い当番じゃないから、アタシは準備運動をして待ってるよ。」
部屋に戻って服を着替えると、私は家を出た。矢は前日の騒動でほとんど残っていなかったので、村のものを補充させてもらうことにした。
「うんうん。バッチリだね。」
フィーリアは私の服装を見て満足気に頷いた。
「私の武器はこれだよ。」
フィーリアが見せてくれたのは投石紐だった。
「見回りとお昼ごはんの調達を兼ねているの?」
「うん。魔獣はものによって、食べたり、素材を売ったりだね。」
村から離れるにつれ、フィーリアは口数が少なくなり、表情も真剣そのものだ。私も耳をそばだてるようにする。
ピクッとフィーリアの獣耳が反応し、こちらを振り向く。私の耳も獲物の気配を捉えたので、無言で頷く。
音を立てないように近づくと、沢で水を飲もうとする大きな牡鹿がいた。フィーリアが投石紐に小石を入れ、サッと発射する。命中したものの、仕留めきれていなかったため、私がパッと矢を放つ。それで牡鹿は動かなくなった。
「初めてにしては、良い連携だったね。」
満足そうに笑いながら、フィーリアは手際良く牡鹿の血抜きを行う。
厳格な宗派では必ず聖地の方角に獲物の頭を向けて解体処理をしなければならないが、義父からは自然の恵みを神に感謝して手早く処理するようにと言われており、私もその考えに従っているので問題はない。
ある程度の処理を終えると、フィーリアは腰に下げた小さな袋に収めた。
「それは何?」
「これ?魔法袋だよ。ウィル様にもらったの。凄い仕組みらしいけど、アタシには良くわからないんだ。」
私が世間知らずなのか、見たことも聞いたこともないものだ。セシリアさんなら、原理がわかるだろうか。
この後も、フィーリアと話をしながら、魔獣を倒したり、木の実を採ったりしてから、昼までに家まで戻った。
セシリアさんに牡鹿を調理をしてもらい、舌鼓を打った後、魔法袋について尋ねてみる。
「原理は袋の大きさに空間を圧縮して閉じ込めてから、圧縮した空間が飛び出さないように更に強い圧縮を袋の口にかけるっていう感じかしら。中のものは時間の進みがとても遅くなって、傷みにくくなるようね。亡くなったウィルの父、私の夫が作ってくれたものよ。」
懐かしむような声でセシリアさんが言う。
「すみません。部外者が興味本位で余計を聞いてしまって。」
「良いのよ。興味があるのは、生きてる証拠だもの。元気になってくれたみたいで、良かったわ。」
セシリアさんは優しく微笑む。午後はセシリアさんやフィーリア、村の子どもたちの様子を見ながら、家畜や畑の世話をしたり、周囲の見回りをしながら過ごした。
結局、夜までベアトリスに連れ回された挙げ句、送り届けた館ではロワール公爵に近況を報告することになり、宿に戻る頃にはなかなかの時間と疲れ具合になっていたからか、ウィルは横になるとすぐに眠ってしまった。
ベアトリスとは同い年であり、ポルトゥス・ナムネトゥスの教会学校で一緒に学んでいた。さらにロワール公爵の好意で、その子弟教育にもウィルは参加させてもらっていた。仲が良いのはそういう縁からであり、よって無下にできるはずもない。それはベアトリスに対してもそうであるし、その父であるロワール公爵に対してはなおのことだ。
顔を洗って身仕度を調え、宿の用意してくれた朝食を口にして、馬車を引き取り、頼んでいた品物を積み込んでいく。
今から出れば、夕方には村に着くだろう。荷物を積み終え、御者席の方に戻ってくると、ベアトリスがいた。
「あたしに一言もなく帰ろうなんて、つれないね、ウィルは。」
ベアトリスはシクシクと嘘泣きをする。
「村が心配だから、そんなに長居はできないのは知っているだろう?昨日、会ったんだから、ベアならわかってくれると思ったんだけどな。」
ウィルは小さくため息をついた。
「それで、お見送りしてくれるのかい?」
その質問を待ってましたとばかりに、ベアトリスはフフンと胸を反らせた。
「あたしもクレスティア村に行くのよ。」
「え?」
「だから、あたしもクレスティア村に行くの!ちゃんと父様の許可もあるもの。許可というか、命令ね。」
どうやら、ウィルの聞き間違いではなかったようだ。何故か誇らしげにロワール公爵の命令書を目の前に広げられる。そこには確かに、
『ロワール公爵シャルル3世がその公女であるベアトリス・ド・ロワールにクレスティア村行きを命ずる。なお、活動の成果を月に一度は報告すること。』
とある。
どういう意図かと訝しく思うものの、ロワール公爵の頼みをウィルは無下にできない。
上機嫌なベアトリスを傍らに乗せて、少し頭痛の種を抱えたような気分になりながら、ウィルは村への帰路についた。