認識の違い
よし頃合いだと、僕は起き上がった。少し前から起きていたが、まだそのときじゃないと寝たふりをしていたのだ。さっき小さな音がした。ケータイの音だ。長年の経験上、あれが鳴ればそろそろ起床、そうなっている。
少し伸びてから部屋を見回す。まだ薄暗いが朝だろう。僕は振り返って枕元のケータイを見た。あれは今は静かだが、もう少ししたら今度は大音量で再度鳴る。そうしたら正真正銘おはようだ。もう少しなら今すぐ起こしてもと思うだろうが、それは賢くない。まだ待ってと言われ、布団の中へ引き込まれて抱きしめられる危険があるからだ。じっとしていられない朝に身動きが取れないのは困る。だから「おはよう」はケータイに任せておく。
頼むぞとケータイをつつき、僕は枕にそっと顔を乗せた。鼻先では、埋もれるようにして僕の大切な人が眠っている。その顔をじっと見つめた。目が開かないかなと期待しての行動だが、どうやら見込みは薄そうだ。彼女の目と目の間には深い皺があった。この溝が出来た理由を今の僕では察せない。それが少し悔しかった。もし彼女が起きていたら、僕は彼女の心がすぐにわかっただろう。僕らは目で会話をする。勿論言葉も交わすが大抵は目だ。話すより見つめ合うほうがお互いをよく理解できるのだ。辛い悲しいは勿論、お腹が空いた喉が渇いた、窓を開けてよ一緒に朝の番組を見ようよ、ほら見てイヌが出ているよ。そんな話も僕らは見つめ合うだけでできる。
それで、今はお腹がとても空いているんだけどな。
これも目を見たらわかってもらえるのに今は難しい。早く鳴らないものかと僕はケータイを再度見る。小さなこいつは静まり返っていて、当分鳴きそうになかった。なんだか腹のあたりが落ち着かなくなってきて、僕は彼女の頬に寄り添った。もしこのままケータイが鳴かなかったら。そうしたら彼女はずっと起きないのかも。そうなったら僕は永久に空腹だ。それは困る。
ねえ。
小さく呼びかけてみる。実際まだおはようの時間じゃないからと、音量に配慮した結果、僕の呼びかけは鼻息にしかならなかった。これは考えものである。この人は僕の大事な人だ。僕らはずっと一緒で、食事や睡眠は勿論、どこかへ遊びに行くのも大体一緒だ。僕は彼女の一番で、僕だって彼女が一番だ。そんな人にあまり無理は言いたくない。そう思うが、空腹は待ってくれない。仕方ないので今度はもう少し大きな声を出してみる。ねえ、起きてよ。
声が聞こえたのか、それとも鼻息が当たったのか、彼女がもぞもぞ動いた。やったと思ったのも束の間、無情にも布団に潜り込まれてしまう。ああ、そんな。
「起きたの? まだ目覚まし前だよ」
ベッドの軋む音と共に、眠る彼女の向こうから声がした。びくっと体を揺らした僕に構わず、あくびをしながら起き上がったのは熊のような男だ。
「ええっと、七時半前かあ」
リョウタちゃん早起きなどと言っている。びっくりさせられて腹の立った僕は、ちょっと眉間を寄せてから、じろじろと男を見た。薄暗くても僕の目は良く見える。何が嬉しいんだあいつ。笑いながらおいでと呼ばれたが、行くわけがなかった。僕は少し後ろに下がって眠る彼女に目をやる。良く寝ている。枕元の、彼女がケータイと呼び僕がたまに嫉妬する黒いものにも視線を送る。これも彼女同様眠っているようでびくりともしない。さっき鳴いたじゃないかと思ったが、すぐにピンときた。さっき鳴いたのは多分あの男のケータイだ。
じゃあつまりと僕は再度男を見る。賢い可愛いと言われる僕だ、理解は早いほうである。なるほど。つまり今日はあの日なわけだ。
「出勤までだいぶ時間が出来たなあ」
目をこすりながらケータイを見ているこいつ。僕と同じように彼女からご飯を貰い、世話をされ、たまに怒られているこいつ。僕よりあとにきた弟分。こいつが一丁前に僕の世話をしたがる日がある。どうやら今朝はその日らしい。
ああ!
不安が口から漏れ、細い声になった。いつもは彼女が僕の全てをしてくれるのに! あいつはご飯のあるレイゾウコの場所をわかっているだろうか。散歩コースは覚えただろうか。ちゃんと猫にも挨拶させなきゃ。それよりあいつ、散歩慣れしてないから途中で迷子になるかもしれない。ちゃんと僕と繋いでおかないと。それで家に帰ったら足を拭かせて、いいや、そんな心配はあとだ。あいつ何やらぐずぐず言って、まだベッドから降りてない。
「ママ、今日はお休みだから寝かせてあげようね。代わりにパパが朝ご飯とお散歩を」
あいつの話を最後まで聞かず、僕は低い姿勢を取った。絨毯に軽く爪を立て、しっぽをぴんと張る。よしよし、十分な発声が出来そうだ。不安がってる場合じゃない、こいつとは目で会話ができない、逐一口で教えてやらないといけないんだ。僕がしっかりしなきゃ。よし行くぞと僕は腹の底から声を出した。
「ゥオン、オン!」
おい弟、まずはご飯の場所からだ!