Die Liebe zu Blasen
幼い頃に、母からある御伽話を聞いた。
誰もが知ってる、とある人魚の、とても悲しい恋の物語……
——— 昔々あるところに、地上に憧れる一匹の人魚がいました。
人魚は家族や友人に黙って、何度も海面に顔を出して、人間たちの生活を遠く眺めていたました。
その光に溢れた世界に、彼女はただただ憧れた。
そんなある日、人魚は一人の人間の男に恋をした。浜辺で膝を抱えて泣いている彼の姿に、彼女はひどく心を奪われたのだ。
どうしても彼の側にいたい。そう思った人魚は海の魔女の元に行き、”人間になりたい”と願った。魔女は喜んでその願いを叶えてやったが、同時に願いを叶える代償として彼女の美しい”声”を奪った。
こうして人魚は人間となり、彼と目を合わせることができた。しかし、彼には恋人がいた。とても愛らしい人間の恋人。人魚は、自分の恋心が報われないことがわかり、浜辺で一人、日が沈むまで泣いていた。その泣き声を誰に聞かせる事もなく。
そんな彼女の元に、かつての友人がやってきて、一本の短剣を差し出した。その短剣で人魚が愛した男を殺せば、人魚はまた魚の尾を手に入れ、元の姿に戻れると。
短剣を受け取った人魚は男を殺そうと彼の家に足を運んだ。だけど、かつて愛した男をそう簡単に殺すことはできなかった。
人魚はそのまま身を投げ、泡となって消えてしまった…… ———
その物語を聞いて、私は幼いながらに「かわいそうだね」と口にした。それに母も同意してくれたが、実はこの結末には別の話もあるのだと教えてくれた。それは、この街でのみ語られる、もう一つの悲しい結末。
——— 身を投げ、泡になろうとした人魚。そこに、一人の魔女が姿を表した。普段、人前に現れないもう一人の海に住む”泡の魔女”。彼女は死にゆく人魚に「このまま死んでしまったもいいのか」と尋ねた。
「人間に恋をして、彼のために声を差し出して人間になって、貴女の為に友人は何かを差し出してあの短剣を手に入れた。自分の想いと友人の想いをまさに泡にして死んでいくというの?」
どこか楽しげにクスクスと魔女は笑う。それに対して、もう殆ど感情がなかった人魚が反応した。頭の中によぎるのは今までの光景。そして、混み上がる感情は”死にたくない”という想いだった。
魔女は人魚に「生きたいのであれば生かしてあげる」と言ってくれた。
しかし、それには条件があるということだった。
魔女は口にする。
1つ。二人の人魚の願いを叶える為に、人間と人魚の二つの姿を与える。
1つ。望みに反して生にすがった罪で声は戻さない。
1つ。自身の欲望の罰として二度と恋心を抱くことはできない。
魔女は不敵に笑いながら「さぁどうする?」と手を差し出した。
人魚はその手を取った。
ニヤリと笑みを浮かべた魔女は「交渉成立」と小さな声で呟いた。
こうして、人魚は再び地上に足をつけ、”歪な存在”として、ひっそりと生活をした…… ———
話を聞き終えた後、私は母に「人魚さん死ななくてよかった」と嬉しそうに笑った。母も、同じように私に笑いかけてきた。
子供の好奇心か、私は母に人魚がどんな見た目をしていたか尋ねた。
母は、特に嫌な顔をせずに、私にその人魚の容姿を教えてくれた。
⭐︎
ふと、そんな昔のことを思い出した私。あれはそう、もう十数年前のことだ。
どうして突然あの日のことを思い出したのか。それは、今私が訪れている雑貨屋が原因だった。
人が住んでいる場所から離れたところにある、崖の上の雑貨屋。
珊瑚や魚の鱗、海の石で作った装飾品や、それをテーマにしたデザインの雑貨がおかれた店。それらを見ると、不意に海を連想させてしまう。それだけなら、あの物語のことを思い出すことはない。
《いらっしゃいませ》
思い出した原因は彼女だ。カウンターで、その言葉が書かれたキャンバスを私に見せている彼女。その姿を目にした瞬間に、幼い日のその物語のことを思い出した。
——— 人魚さんは、どんな見た目をしていたの?
——— んーとね、真っ白な肌に、アクアマリンの瞳。綺麗な白銀の長い髪をした人魚よ。
——— わぁー!きっと、すっごい綺麗なんだろうね!
——— そうね。そんなに素敵な見た目だと、一瞬で恋に落ちちゃうかもね
まさにその通りだった。
人とは思えないほどの白い肌。海のように澄んだアクアマリンの瞳。絹のように美しい長い、白銀の髪……まさに、母が語ってくれた人魚の容姿そのものだった。
《ゆっくり見ていってください》
ページをめくって、私にそう言ってくれる彼女。だけど、私は彼女から目が外せない。その美しい容姿にくぎ付けで、激しい感情が込み上がる。
《どうかされましたか?》
不思議そうに首をかしげる彼女。とても胸が苦しくなって、一歩後ろに下がってしまった。
あぁそうか、私は彼女に……
——— 恋をしたんだ。
⭐︎
朝、布団に包まってスヤスヤと心地いい夢の世界に浸って眠っていた。
どんなに窓から朝日が差し込んでも、私は目を覚まさず、ぐっすりと眠っている。
しばらくすると、けたたましい程の音が枕元で鳴り響く。その音に顔を歪ませて寝返りを打てば、そのままベットから落ちて、私は目を覚ました。
まるでゾンビのようにぬるりと動きながら、必死に仕事をするめざまし時計を止めて一息つく。そして、大きく背伸びをして立ち上がる。毎日こんな感じだった。
身支度を整えて、階段を降りてリビングへと向かう。まだ扉は開けてないけど、すでに鼻を刺激するいい匂いがする。コンソメスープのいい匂い。今日の朝ごはんは野菜スープかな。
そんなことを考えて、少しだけ胸を高鳴らせながら扉をあけ、中の人物にあいさつをする。
「お母さんおはよう」
「あ、おはよう。今日も盛大に落ちてたわね。すごい音だったわよ」
「余計なことは言わなくていいの。それに、もう慣れた」
おたまを持ったまま、少し悪戯っぽい顔をしながら私に笑いかけてくるこの人は、私の母。
少しだけ男勝りだけど、人に頼られるのが好きで、困った人がいたらどこでも駆けつけるとんでもない人だ。以前は父がセーブしてくれていたが、そんな父も数年前に病気で他界。今は、女二人で生活をしている。
「今日もバイト?」
「うん。ご飯食べたら行く」
「そう。母さんもちょっと頼まれごとされたから出てくるわね」
家族間の会話なんてこんなものだ。深い話なんてしない。表面上の会話しかしないのだ。私はこんな距離感が好きだった。根掘り葉掘り聞かれるより、ちょっと反応が薄いぐらいがちょうどいい。
「ごちそうさま。美味しかった」
「お粗末様。洗い物はしておいてあげるから、いってらっしゃい」
「はーい」
食べた食器を流しに置いて、私はリュックを背負って家を出た。
私のバイト先は港近くのカフェ。家は丘の上にある為、往復するのはかなり大変。特に帰り道は坂道だから、足がいつもパンパンになる。
だけど、学校とかも麓にあるし、小さい頃からこの道の往復をしているからもう随分と慣れてしまった。友達からはたまに「大変だね」とか「坂がきついから行きたくない」なんて言われることが多々ある。私も、気を使って家に呼ぶことはない。「どうしても行きたい」と言われない限りは、遊びにおいで、なんてことを口にすることもない。
「いらっしゃいませー」
ドアベルが鳴ると同時に、私は振り返って言葉を投げる。
私のバイト先は【Lacheln】という、昔からある少しレトロなカフェだ。雰囲気は落ち着いた感じ。お客さんの年齢層も高く、常連さんも多くいる。
人気商品はオムライス。オーナー特製のチキンライスが絶品だ。私もたまに賄いでもらうことがあるけど、毎日でも食べたい美味しさだ。
ここで働いて数年経つが、すっかり常連さんの顔も覚えて、合間合間に会話を挟んだりする。
「あ、ジェムさん。いらっしゃいませ」
「こんにちは、いつもの席、空いてるかね?」
「はい。ご案内しますね」
いつも通りの日常。
起きて、朝ごはん食べて、バイトして。
今は学校も長期休暇中なので、ここ最近はこれの繰り返し。
酷く退屈で、なんだか同じ日を繰り返してるような感覚がしていた。だけどある日から、私の日常は少しづつ変わった。退屈な日々に、楽しみが増えたのだ。
「お疲れ様でした」
仕事を終えて、いつもだったらそのまま家に帰るのだけど、最近は寄り道をする。
人通りのない場所。海風や、たまに崖に当たる水が空中を舞う光景が見られるそこに、ぽつりと存在する建物。
【Verbrechen und Bestrafung】と書かれたそこは雑貨屋さん。繁盛しているのかはわからないけど、来るときはいつも人の姿はない。
私は、扉を開いて中を除く。
少しだけ薄暗い店内。だけど、並べられている商品はどれも目を惹くものばかり。
少しだけ辺りをキョロキョロしながら、私はカウンターへと足を運ぶ。
「こんにちは、コラレ」
にっこりと笑みを浮かべながら、私は人間離れした容姿を持つ彼女、この店の店主である”コラレ“に声をかける。
《こんにちは、シュテルンさん》
《あ、いらっしゃいませでしたね》
キャンパスに書いた文字を私に見せてくれたけど、すぐに慌てて書き直して、改めて別の言葉を見せてくれた。
少し照れ臭そうに笑いながら、キャンパスで口元を隠すその姿は、とても愛らしかった。
「今日もお客さん来てないの?」
《やっぱり立地が悪いみたいでなかなか》
「そっか……」
少し残念そうにするコラレの表情を見ながら、私も同じように残念そうにする。だけど、お客さんがいないとこうやって彼女と話ができるから私はすごく嬉しい。
あの日、初めてコラレを見た日から、私はずっとここに通っていた。
彼女のためにもお店のことを広めてあげたかったが、お客さんが増えてしまうと彼女と会話する時間がなくなってしまう。
自分でも汚い女だとは思うけど、どうしても彼女を独占したいという感情が込み上がってしまう。
話すたびに彼女はコロコロと表情を変えてくれる。話しがいがあるし、そんな彼女の顔を見るのがすごく楽しくて、幸せだった。
《あ、紅茶ありがとうございました。すごく美味しかったです》
「気に入ってくれたみたいでよかった。他にもおすすめがあるから、今度持って来るよ」
《ありがとうございます。すごく楽しみです》
「あ、もしあそこのお菓子が売ってたら買って来るよ。コラレ、好きだったでしょ?」
《はい。でも、あそこのお菓子人気だからなかなか手に入らないんですよね》
「あはは、ほんとねー」
彼女は声を出すことができない。
それが生まれた時からのものなのか、病気なのか、それとも精神的なものなのかはわからない。それを私はデリカシーなく真正面から聞けるはずもなかった。なんとも思ってない相手だったら、もしかしたら聞けたかもしれないけど、私はコラレに好意を抱いていて、彼女に嫌われたくない。だから、嫌われるようなことはできるだけ避けたい。
いつか、彼女からこの話題を出して来たら聞こう。
疑問を感じた時から、心の中でそう決めていた。
でも、心の片隅で私はいつも思っていた。
——— 一体、どんな声なんだろう
叶わぬ望みだと分かっているけど、想像してしまう。
頭の中にある数ある声。いろいろな声を当てはめるけど、どれも彼女にはあわない。だからか、日に日に期待は膨らむばかり。一度でいいから聞いてみたい。きっと、見た目と同じように、綺麗な声なんだろうな……
傲慢な、勝手な期待を募らせながら、私は彼女との会話を続ける。
《そう言えば、シュテルンさんはよくお店に来てくれますが、ご予定などはないのですか?》
「ん?今は長期休暇中だから、バイト以外は特に何もないよ」
予定といえば、コラレに会いにお店にくることぐらいだな。
少し冗談っぽく本当のことを言えば、彼女は頬を膨らませて《冗談言わないでください》という言葉を書いた。
謝罪したけど、残念ながら本当に予定はない。友人と会う約束もしてない。というか、今はコラレに会いに行く以外に暇なんてない。
例え誘われても、私は彼女に会いに行くことを優先する。
《恋人などはいらっしゃらないんですか?》
「うん。でも、好きな人はいるよ」
《そうなんですか?》
「うん。一目惚れだったんだ」
気づいてくれるかな。なんて淡い期待を抱きながらコラレを見つめる。
すると、彼女はキャンパスに文字を書いて、私に見せてくれた。
《素敵ですね。どんな人なんですか?》
やっぱり。私はそう思ってため息をこぼした。
コラレは鈍い。流石にちょっとは意識してくれるかな、勘違いしてくれるかなって思ったけど、全く興味を持たれていないみたいだった。少しとは言え期待していたからちょっとショックだ。
「内緒。でも、いつかちゃんと言うから」
《はい。楽しみにしています》
無邪気な笑みを浮かべながらそう言われたけど、私は少しだけ呆れた感じでため息をつく。言葉の意味、ちゃんと分かってくれているのかな……?
《あ、そうだ》
不意に、彼女がそんな言葉を見せて来た。
キャンパスを置いて、カウンターの引き出しからあるものを取り出して、私の前においた。
綺麗な貝殻のイヤリング。一目見ただけで私はそれを気に入った。新しい商品だろうか。きっと、町の女の子たちに人気がでると思う。
お店のあるものはどれもコラレの手作り。センスもあるし、お店のことが知られれば絶対に人で賑わうだろう。
一人で切り盛りするのも大変だろうし、少しは私を頼って欲しいなと常々思っている。
《シュテルンさんに差し上げます》
「え、私に?」
《日頃のお礼です》
にっこりと笑みを浮かべながらキャンパスを掲げるコラレ。
すごく嬉しい……今まで私が彼女にあげてばかりで、もらったことは一度もなかった。
初めてコラレから貰ったプレゼント……
「ありがとう、大事にするね」
あまりイヤリングとかはつけた事はなかったけど、似合うだろうか……
そう思いながら、近くの棚の上にある鏡で耳元に当てて見た。髪はそんなに長い方じゃないし、つけても邪魔にはならないだろう。
貝殻は少しピンク色。ちょっと可愛すぎないかなと不安を感じてしまう。
《お似合いですよ》
近くまで駆け寄って来てくれたコラレがキャンパスを掲げてそう言ってくれた。そんなことを言われたら嬉しくて否定の言葉なんてでこない。試しに今度、バイト先につけて行こうかな。変に思われないといいけど。
「あ、そうだコラレ」
私の声掛けに、キャンパスには文字を書かずに首を傾げて「なんですか?」と答える。そんな様子にも愛おしさを感じて、少しだけ彼女に顔を近づけた。
「折角だし、今度お出かけしない。実際に、色々見たほうがいいし。それに、何か新しい発見があるかも」
本音は、ただコラレとデートがしたいだけだ。
手を繋いだり、一緒に甘いものを食べたり、雑貨を見たり。普通に女の子同士で出かけているだけだから、変な目で見られることもない。
あ、でも……コラレの見た目はすごくいい。もしかしたら、変な奴らが声をかけてくるかもしれない。みんなの目を惹いて、ちょっと誇らしげにしたけど、それを考えるとやっぱりやめたほうがいいかな……
なんて、私が唸りながら考えている間に、コラレはキャンパスに文字を書いて私に見せてくれた。
《すみません。できれば人前には出たくないんです》
《決して、シュテルンさんと出かけたくないわけではないんです》
《ごめんなさい》
最後にめくって謝罪の言葉。
嫌だ。なんてわがままは出てこなかった。むしろ少しホッとした気がする。
コラレは少しだけ人見知り。それに、容姿もすごく目立つ。街に出れば注目の的だ。人の視線を浴びながらのお出かけはやっぱり落ち着かない。
それに、コラレの見た目はすごくいいけど、悪い言い方をすれば人間離れした容姿をしている。
全員とは言わないけど、少なくとも少数の人間は彼女の容姿に眉をひそめるかもしれない。
まぁ多分、嫉妬が大半だと思うけど。
「わかった。ごめんね、無理に誘っちゃって」
《いえ。誘ってもらえたのは嬉しかったです》
「気が向いたら、いつでも声かけて。私はどこでも付き合うから」
コラレとデートができるならどこでだってついて行く。これは本当だ。
彼女は《はい》という文字を見せながら、少しだけ気恥ずかしそうにうつむいていた。
あぁ、本当に好きだな。
内心、しみじみと、もう何度目になるかわからないほど感じていたことを改めて実感する……。
⭐︎
「いらっしゃいませ」
それから数日後。今日も今日とて私はバイトをしている。
「ホットコーヒーにミートボールスパゲッティーですね。かしこまりました。コーヒーは食後にお持ちしますか?」
そして、仕事が終わればコラレのお店に……と言いたいところだが、今日はすぐに家に帰らないといけないため、お店には寄れない。
その事を昨日コラレに言えば《大丈夫ですよ》といわれた。なんだかそれはそれでショックだった。
我儘だけど、寂しそうにして欲しかったなぁ……。
私の完全な片想いだけど、もしかしたら……なんて期待した。いつもいつも、何かをいうたびに、きっとコラレはこう返してくれると期待して、期待通りだったら嬉しくて、期待通りじゃなかったら勝手に落ち込んで。
彼女が私にどう思っているのかが知りたい。ただのお客さんなのか、それとも友達だと思ってくれているのか、はたまた面倒見のいい優しい人なのか……。
求める答えは決まっているけど、そこまで期待してしまったら、最悪の結末の時にショックが大きくなる。だけど、それでも……心の片隅ではもしかしたらなんて、すぐにちらついてくる。
「はぁ……っと、いかんいかん」
思わずため息が出てしまったが、すぐに仕事中だということに気づいて切り替えた。
だめだ。今は仕事に集中しないと。
軽く何度か両頬を叩いて気合いを入れる。
それとほぼ同時に扉が開いてドアベルがなる。
「いらっしゃいませ」
お店にやってきたのは、常連のジェムさんだった。私はいつものように対応をし、ジェムさんのお気に入りの席にご案内した。
「いつものでいいですか」
「うん、お願いするよ。……おや」
不意に、ジェムさんの視線が私の目から少し横にずれた。
「可愛らしいイヤリングをしているね」
髪の下、顔を覗かせる貝殻のイヤリングのことを言われて、反射的に私はイヤリングに触れる。触れた瞬間、コラレのことを思い出し、胸がぎゅっと締め付けられ、愛おしさで口元が少し緩んでしまう。
「あ、これは……」
「シュテルンちゃんがおしゃれしているのは珍しいのう。もしかして、恋人からの贈り物かい?」
「え!いや、ちっ、違いますよ!!恋人だなんてそんな……」
「おや、そうなのかい?シュテルンちゃんも年頃の女の子じゃから、恋人ぐらいおると思ったんじゃがなー」
「か、からかってますよね……」
「さぁ、どうかのう」
柄にもなくアワアワしながら照れる私にジェムさんがクスクスと笑みを浮かべる。
確かに、私はあまりおしゃれが得意な方ではない。着飾ったりもしないから、そういう事をすると不思議がられる。
でも今回は……このイアリングは、コラレに貰ったものだから、どう思われても着けたかったし、自慢したかった。特別なものだって、そう思うから。
「しかし、可愛らしいのう。わしも、孫にプレゼントしたいわ」
「あ、お店をお教えしましょうか。最近通ってるんです」
「ほぉ、そうなのかい。どこなんじゃい?」
「西側の高台にあるお店なんです。崖の上にポツンとあるお店で」
コラレのお店繁盛のためにもという気持ちは当然あったけど、やっぱりコラレとの時間を邪魔されたくないという気持ちも半分あるため、表面上はにっこりと笑みを浮かべながらジェムさんに教えていたけど、内心では”嫌だなぁ”なんて、本当に醜い感情が顔を覗かせ。
「西側……」
「はい。あ、もしかしてご存知でした?人通りはないんですが、すごくいいお店なんですよ」
「……シュテルンちゃん、大丈夫かい?」
「え……」
なぜか、不安そうな顔をするジェムさん。思いがけない表情と言葉に私は困惑する。
ジェムさんは、何を心配しているのだろうかと。少しだけ不安を感じて、手にしていたおぼんに力がこもる。
「何が、ですか?」
「いやね、最近あの場所で”人魚”を見たって人がいてね」
“人魚”
その言葉を聞いて、私の体が反応する。
最近過去のことを思い出したせいか、それとも自分の中でその存在が無意識に深く根づいているのか、ぞわぞわとした感覚が身体中を駆け巡る。
「子供や若い子は興味を持つだろうけど、わしら老人からすると、あまり人魚はいい存在ではないからね」
「古い、伝承ですか?人魚が人を海に引きづりこむという」
おとぎ話のような、綺麗な話は幼い子供や若い人たちに深く根付き、憧れを抱いている。
反して、年配の方はそういうおとぎ話とは別の、古くから伝えられている恐怖を与える話が深く根付いていた。
——— あるところに若い男がいた。その日、男はなんとなく気分で浜辺を歩いていた。すると、どこからか女性の歌声が聞こえてきた。それはとても美しく、男は無意識にその歌声の方へと足を運んだ。そこにいたのはとても美しい女性だった。しかし、下半身は魚ですぐに異形の存在だと気づくが、その美しい容姿に惹かれ、一歩、また一歩と女に近づく。
男に気づいた女は、歌を歌いながら両手を広げて男を迎え入れる。男は女に抱きしめられる。その歌声と抱きしめられる心地よさに、少しばかり夢心地になっていた。次の瞬間。気づいたら海の中にいた。呼吸が苦しくなって男はもがくが地上に戻ることができない。何かが足を引っ張り、逃がそうとしなかった。
視線を下に向けると、先ほどの女がいた。だけど、惹かれるような容姿なのは変わりないのに、ひどく恐怖心を煽るような笑みを浮かべていた。
翌日、漁に出ていた数名の男たちが、海の上で溺死している男を発見した。一枚の、美しい鱗と髪の毛を握りしめて……———
それが本当か嘘かはわからない。あくまで、子供を脅すための話とも今は言われているが、信じている人がいないわけではない。たとえ信じていなくても、もしかしたら、と思う人だっている。
「わしも、信じてるとは言わんが……」
「……ありがとうございます。でも、人魚ですか……会ってみたい気はします」
冗談混じりでクスクスと笑う私に少しホッとしてくれたのか、ジェムさんも笑みを浮かべる。
「なんでも、“人とは思えないほどの白い肌。海のように澄んだアクアマリンの瞳。絹のように美しい長い、白銀の髪”なんじゃと」
「え……」
「ん?どうかしたかい?」
「い、いえ……なんでもないですよ」
ジェムさんの口にした容姿には覚えがある。
まさか……まさか……まさか……
心の中で何度も言葉を繰り返す。いや、しっかりその人物の姿が頭に映し出される。
その容姿は……コラレ、そのものだ……。
「シュテルンちゃん。レジお願い」
「あ、はい!それじゃ、ジェムさん。失礼します」
胸がざわつく。ただ容姿が同じだけかもしれない。コラレではない気がする。でももし本人だったら?
コラレに聞くべきか……でも、本人にそんなことを聞けるはずもない。もしそんなこと言って、嫌われでもしたら……だったら、聞かないほうがいい。でも、もし本当に……
自分の中で、何度も何度も何度も自問自答する。
当然答えなんて出るはずもない。
残るのはただもやもやとした感情のみ。それを抱きながら、私は1日の仕事を終えた……。
「はぁ……眠れない……」
夜風を浴びながら、ポツリと私は言葉をこぼした。
仕事が終わった後も、私の中のモヤモヤは消えない。寝るためにベットに潜っても胸のざわめきが収まらない。
外の空気を吸おうと思って、近くの公園に足を運ぶ。海の見えるその公園は、街灯がきれていてあたりは真っ暗。唯一の明かりは月明かりだけだった。
「私は、どうしたいんだろう」
真実を知りたいのか。それとも別の何かを求めているのかそれがわからない。
悶々と、ただ海を眺めながら頭の中で解を探す。
———ポチャンッ……
そんな時に、雫が落ちる音が聞こえた。
視界に、何かが海面を跳ねる姿が映った……。
それは、“上半身が女性”で“下半身が魚”。そして、月光に照らされ、揺らめく“白銀の髪”。
それを見た瞬間に、私は無我夢中で走った。
そして、心の中で答えが出たのだ。あれを見て、私が求めるのはただ一つ。
知りたい。私は貴女を知りたい。私が知らない貴女を……。
辿り着いたのはコラレの店。【Verbrechen und Bestrafung】。
店の前は、オレンジ色の明かりがついているだけ。夜だからか、昼間以上に少しだけ恐怖心を煽られてしまう。
——— コンッ、コンッ……
震える手で軽く扉をノックして、私は開くのを待った。
きっと数秒。いや、数分と言ったところだろうか。たったそれだけの時間のはずなのに、何時間もずっとそこにいたかのような感覚がした。多分、頭の中で思考をフル回転しているからかも知れない。
ただ思うのは一つ“そうであって欲しくない”。
ガチャリ。という鍵の音がして、私は現実に引き戻される。そして、ゆっくりと扉が開いてコラレが姿を表した。とてもびっくりした顔で。
《どうしたんですか?》
手にしていたキャンパスに、少しだけ殴り書き気味にそう書いたコラレ。
よく見れば、髪の毛が少し濡れている。もしかしたらお風呂に入っていたのかも知れない。そう、きっとそうだ。
自分の中で、自分を納得させようとするが、胸のざわめきは一向に消える気配がなかった。
不思議そうに首をかしげるコラレ。
息苦しくて呼吸が少しだけ荒い。
大丈夫……大丈夫……大丈夫……
痛いほどに心臓が激しく動きながら、ゴクリと私は唾を飲み込み、意を決して、震える声でこう尋ねた。
「貴女は、人間なの?」
不安な表情が顔に出ていたのか……コラレはじっと私の顔を見て、そして俯き、キャンパスに文字を書く。
《どうぞ、中にお入り下さい》
その返答がある意味答えだと私は思った。
彼女は察したのだ。私がどうしてこんな時間に来て、不安そうな顔でそんな質問をしたのか。だから、彼女は否定しなかった。私はただ一言“違います”と言葉を書いて欲しかった。だけど……やっぱり、自分の思い通りにはいかないな……そう思いながら、私はいつものようにお店の中に足を運んだ……
案内されたのはお店の上。コラレが普段生活している場所だった。質素、というと悪いが、ものがほとんどない。
必要最小限のものだけ。
ベットにサイドテーブルが一つ。椅子が二つにライティングビューローが一つあるだけ。
部屋に入るのは初めてで少し落ち着かない。思わず、あたりをキョロキョロしてしまう。
「どうぞ、椅子に腰掛けて下さい」
耳に届くその声に、私は思わずコラレの方を向いた。
今まで聞いたこともない声。誰の声だろうという疑問を抱くことはなかった。その声は、酷く彼女の姿とあっていた。容姿と同じで、とても綺麗な声だった。
「どうされました?」
「コラレ……声が……」
「……そうですね。声を届けるのは初めてでしたね」
クスクスといつもよりも少しだけ無邪気な笑みを浮かべながら、いつの間にか首から下げている石のペンダントに触れた。コラレの瞳に似ているが、少しだけ緑っぽい色をしたそれは、なんだかとても不思議な感覚がした。
「これは、ちょっと不思議な石で、声が出せない人の声を聞き手に伝えることができるんです」
「へぇー……そんな石があるんだね」
「はい。ただ、これはかなり希少なものなんです。“人間”では、取りに行けない場所にあるので」
その言葉を聞いて、雰囲気が少しだけ変わる。そして、私の中では「あぁやっぱり」なんていう言葉が浮かび上がる。
容姿と、初めて聞く声が相まって、少しだけ頭がふわふわする。その美しさにより一層惹かれる。もしかしたらこれは、年配の人たちが信じる人魚の方に出てくる、”魅了”の力なのかも知れない。だけど、もしそうだとしてもよかった。だって、目の前にいる好きな人をずっと見つめることができるだなんて……それはとっても幸福なことだ。
「コラレ、もう一度改めて聞くね……貴女は、人間なの?」
「……そうです。とも言えますし、そうではない、とも言えます」
曖昧な言葉。だけど、私は黙って彼女が話してくれることを聞いていた。
「私は、人間でもあり人魚でもある曖昧な存在なんです。だからその質問にはYesでもNoでも答えることができません」
「どっちでもあって、どっちでもない……そういうこと?」
「はい……シュテルンさんは人魚のお話を知っていますか。おとぎ話の方なんですが」
「うん、知ってる。有名だからね」
「では、この街でのみ語られている別の結末の方も、ですか?」
彼女が、何を求めて、何がききたくてそんな質問をしているのか私にはわからなかった。だけど、私はとりあえずその問いに対して首を縦に振った。
「私という存在は、罪と罰と願いの三つから出来上がったものです」
その三つの言葉には、聞き覚えがある。確か、別結末の物語の方で、泡の魔女が口にした言葉だ。
あれ、待てよ……今、コラレが話してるのはおとぎ話のことだよね……彼女自身のことでは……。
「まさか……」
心の中で思った言葉がポロリと口から溢れた。
私が何を考えているのか分かったのか、コラレはにっこりと笑みを浮かべる。
「その物語は、私のことなんですよ」
少しだけ悪戯っぽい笑顔で「びっくりしましたか」と言ってきた。
コラレは私に話してくれた。
自身の過去。犯してしまった罪と、身に受けた罰。そして、歪な形で叶った自身と友人の願い……
⭐︎
もう随分と昔。まだ、コラレが人魚だった頃。
彼女は地上に憧れていた。海の中しか知らないコラレにとって、海面の向こうは別世界。どんな場所だろうといつも上を見上げている。
「海面の向こうは危険だから、絶対に出てはいけない」
「人間は怖い存在だから関わっちゃダメだよ」
だけど、両親からも友人からも、海面の外は怖い場所だからといつも言われ、出ることを許されなかった。
ただ毎日、岩の上で尾を抱え、憧れを抱いて上を見上げるだけ。手を伸ばしても、その先を見ることは叶わない。
そんなある日、コラレはどうしても外の世界を見たくて、みんなには内緒で少しだけ海面から顔を出した。
「わ……」
顔を出した時間は夜。人間は鳥のように目がいいわけではないから、沖の方から顔を出した。
コラレは人間たちの住んでいる町の美しさに目を惹かれた。
そして、初めて見るものばかりで、ただただ好奇心が込み上がっていき、少しずつ岸に近づいていった。
「あれ、誰かいる」
その時、浜辺に一人の人間の姿があった。
膝を抱えて顔を俯かせる彼は、わずかに肩を震わせていた。泣いているのだろうかと、警戒しながらゆっくりと近づく。
すると、不意に彼が顔をあげ、コラレと視線が重なる。反射的に彼女はそのまま海の中に潜った。
バレてしまったかというドキドキはあったが、視線が重なった瞬間、それ以上に別の感情が込み上がってきた。
その日から、コラレは海面から少し顔を出して浜辺を見つめた。また彼に会えないだろうかと。
彼はいつも浜辺にいた。何をするでもなく、いつも海を見ている。
時が経つにつれ、コラレはその男に惹かれ、恋に落ちてしまった。
彼とお話がしたい。だけど、人魚である自分と人間である彼が話すことはできない。両親も友人も、きっと許してはくれない……
そんな時、コラレは魚たちのとある会話を聞いた。
——— 海の魔女は、自分の大事なものと引き換えに、なんでも願いを叶えてくれる
その話を聞いたコラレは、海の魔女に人間にしてもらおうと、彼女の元に向かった。
「人間になりたい?」
「えぇ。私、人間になりたいの」
「ふーん。あんた、人間の男に恋をしたんだね」
魔女は不敵な笑みを浮かべ、値踏みするようにコラレの体を隅々まで見始める。
正直、かなりの恐怖心があった。だけど、どうしても彼とお近づきになって、結ばれたい。彼の側に居たい。そう思った。
「いいだろう。その願いを叶えてあげるよ。その代わり、あんたの声をもらうよ」
「声……」
「そう。願いを叶える対価だよ。それでもいいっていうんだったら、人間にしてあげる。どうする?」
声がなくなる。つまり、彼と出会えたとしても話すことはできない。
私は悩んだ。だけど、声が出ないだけでコミュニケーションが取れないわけじゃない。大丈夫、なんの問題もない。
「えぇ、それで構わないわ」
「交渉成立だね。これにサインしな」
差し出された契約書にコラレはサインをする。それと同時に紙が光り、尻尾に激し痛みを感じた。そして、そのまま意識を失った……
コラレが目を覚ますと、凄まじいほどの光を感じた。
そこは陸地だった。
どうして自分が……そんな疑問を抱きながらあたりをキョロキョロしていると、自分の尾に違和感を感じた。
ゆっくりと視線をそちらに向けると、そこには魚の尻尾はなく、二本の人間の足があった。
本当に自分は人間になったんだ。嬉しくて嬉しくて、歓喜の声を上げようとしたが声が出なかった。
魔女の言葉通り、人間になる代償として声を奪われたんだと再確認をした。
——— コラレの声は綺麗だね。羨ましいなぁ
声は、両親や友人が綺麗だと良く褒めてくれていた。だからきっと、彼も褒めてくれるだろうと思っていたけど、仕方がない。
早く、早く彼に会いに行こう。そして、彼とずっと一緒に。
そんな風に夢を抱き、そして……——— 現実を突きつけられた。
「リヒト!」
視線の先には、彼に寄り添う女性。女性に笑いかける彼。
「ごめん、待った?」
「ううん、待ってない。僕も今来たところだから」
「よかった。遅刻するって思って急いで来ちゃった」
「ゆっくりでもよかったのに。ほら、髪の毛」
そう、彼には恋人がいたのだった。
幸せそうな二人の姿を見て、コラレは頭の中の光景が一瞬で崩れ落ちていくのを感じた。
これは、コラレが後から知ったことだが、彼があの日泣いていたのは、唯一の肉親である母が亡くなっていたから。毎日のように浜辺で海を眺めていたのは、その悲しみからだったこと。そして、そんな彼を支えたのが彼女だった。
「今日はどこに行こうか」
「あ、それなら前にリヒトが気になってるって言ってたお店に行こう」
「いいのかい?」
「うん。リヒトが行きたいところを優先しましょう」
コラレは走った。1秒でも早く彼らから離れたくて。そのまま海まで来ると、膝から崩れ落ちて泣いた。声なんて一言も出ない。誰にも聞こえない叫び声。
あんまりだ。これではなんのために人間になったのか。なんのために、みんなが褒めてくれた声を失ったのか。なんのために……なんのために……なんのために……
彼女はひたすら泣いた。日が沈むまでずっと。
泣き疲れて、もう何も考えられなくなったコラレは、ただ海を眺めるだけだった。
海に帰ることもできなくて、人間として生きるにはわからないことが多すぎる。これからどうして行こうか。そう思っている時だった。
視界に、見知った顔が入ってきた。
海面から顔を出している彼女は、人魚だった頃の友人だった。
私の声を、たくさん褒めてくれた……私の一番の友人……
どうしてここに……そう絶句しながら近づいて来る彼女を見つめた。
「ずいぶん泣いたのね。酷い顔をしているわよ」
《どうして……》
喋ることのできないコラレは、砂浜に文字を書いて彼女に尋ねた。
友人はにっこりと笑みを浮かべると、一本の短剣をコラレに差し出した。
《これは?》
「これで、あの男を殺すのよ」
コラレはボトリと、手にしていた短剣を地面に落とした。どういうことだと……ただただ恐怖心を感じるばかりだった。
友人は、浜辺で泣いている彼女の姿を目にした。恋が叶わなかったことがわかった。苦しげに、聞こえない声を上げて泣く彼女が見ていられなくて、どうにかして人魚に戻してあげたかった。
その短剣は、海の魔女からもらったもの。日の出までに男を殺せば人魚に戻れ、できなければ泡となって消えてしまう。
《海の魔女って……何をあげたの!?》
「私のことは気にしなくていいの。あなたが幸せになってくれればいいから」
友人は、地面に落ちた短剣を拾い直し、再びコラレに渡して笑みを浮かべた。
「幸せになってね」
海に戻っていく彼女の姿を見つめ。手にした短剣を握りながら、コラレは彼の元に向かった。
事前に彼の家は知っていて、迷うことなく家の前までくることができた。
彼を殺せば人魚に戻れる。人間になったことはなかったことになって、いつもの日常に戻る。みんな、笑顔になってくれる。
意を決して男の家へと一歩踏み出すが、次の足が出せなかった。
コラレは、男を殺すことができなかった。
たとえ恋が叶わなかったとはいえ、かつて好きになった相手だ。それに、彼の悲しい顔しか知らない彼女にとっては、女性と一緒にいて、幸せそうな彼の顔を見たら、それを壊したいとは思えなかった。
コラレは、泡になることを選んだ。
朝日と同時に崖から身を投げ出し、そのまま海の底へと沈んで行く。
深海へと沈んでいく中で、彼女は今までのことを走馬灯のように思い出し、そして涙を流した。
——— ごめんなさい
誰に聞こえるでもない謝罪の言葉を呟いた。
もう体に力が入らない。感覚もなくなってきた。このまま泡になって自分は消えるんだ。そう思って、ゆっくりとコラレは目を伏せた。
「死を受け入れるのかい?」
不意に聞こえた声に目を開けると、そこには一人の女性がいた。
海の魔女ではない、別の魔女。普段人前に現れることのない “泡の魔女”だった。
彼女は不敵な笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「このまま死んでしまってもいいのかい」
いいも悪いも。自分にはもう、死ぬ以外の選択肢はないのだ。
受け入れる以外に何があるのだろうか。
「人間に恋をして、彼のために声を差し出して人間になって、貴女の為に友人は何かを差し出してあの短剣を手に入れた。自分の想いと友人の想いをまさに泡にして死んで行くというの?」
どこか楽しげにクスクスと魔女は笑う。それに対して、もう殆ど感情がなかったコラレは反応した。頭の中によぎるのは今までの光景。そして、混み上がる感情は”死にたくない”という思いだった。
コラレの抱いた感情に気づいたのか、魔女はにたりと笑みを浮かべ、ずいっと顔を近づけた。
「生きたいのであれば生かしてあげる。ただし、条件がある」
魔女は手をかざし、人差し指だけをピンとたてて、コラレに生かす条件を口にした。
1つ。二人の人魚の願いを叶える為に、人間と人魚の二つの姿を与える。
1つ。望みに反して生にすがった罪で声は戻さない。
1つ。自身の欲望の罰として二度と恋心を抱くことはできない。
「さぁ、どうする?」
不敵な笑みを浮かべながら、魔女はコラレに手を差し出した。
ぼんやりとその手を見つめる。
このまま死んでしまってもいいが、友人は何かを海の魔女に差し出してまで、私を人魚に戻そうとしてくれた。つまり、生きることを望んでくれている。自分の我儘のせいで、自分の抱いた欲望のせいでこうなってしまったのであれば、自分はどんな形であり、生きる必要がある。
コラレは、魔女の差し出したその手をとった。
「交渉成立」
小さな声でつぶやきながら、魔女は不敵な笑みを浮かべた。
「…………」
次に目を覚ましたときは、見知らぬ部屋のベットの上だった。
陸地であることに気づいたのは、自分が眠っているベットの横にある窓から広大な海が見えたからだった。
自分は今生きている。足は人のもの。でも、コラレは泡の魔女の言葉を思い出す。
——— 人間と人魚の二つの姿を与える。
今は人間の姿をしているが、どこかのタイミングで人魚になるのだろうと。
魔女に与えられた条件。それが本当なら、これから先、コラレがだれかを好きになることはない。
一人でひっそりと過ごそう。どっちの寿命が優先されるかはわからないけど、死ぬまではずっと……一人で……
⭐︎
「踏んだり蹴ったりでした。あの時は。まぁ、自業自得ですが」
話終えた後、コラレは苦笑いしながらそういった。
正直衝撃的すぎた。だけど何故だろう……悲しいとか同情することは一切なかった。ただ思ったのは、なんて素敵なんだろうということだった。
話の内容も、語っている間のコラレの姿も、とても綺麗で儚くて……ずっとずっと心臓が激しく動いていた。私はとことん、彼女に陶酔しきっているなと実感する。
「一つ、聞いても大丈夫?」
「はい。私が知っていることなら」
「コラレの友人は、何を海の魔女に差し出したか、知ってるの?」
私の問いかけに、コラレは俯いた。
結局、話の中でもその答えはなかった。もしかしたら知らないのかもしれない。そう思いながらも、私は尋ねた。
「知っているの?」
「……えぇ……海の中に入ると人魚の姿になるので、その時に、魚たちに聞きました。随分、有名な話らしいです」
——— とある人魚は、友人を救うために海の魔女の元へと向かった。
人間に恋をした友人が人間になって彼の元に向かったが、その恋が叶わなかった。誰にも聞こえない、泣き声を上げていた。彼女を人魚に戻して上げたい。
「お願いします!あの子を……あの子を助けたいんです!だから、あの子を人魚に戻してください!」
縋るようにその人魚は魔女に願った。
魔女は「その願いを叶えてやる」とそう言った。そして、その代わりに代償をもらうとも続けて。
人魚もそれは重々承知だった。あの子のためなら、なんでも差し出されると。
魔女は人魚を値踏みする。他の人魚に比べれは彼女は地味だ。声も特徴的ではない。さて、何を奪おうかと魔女は考え、不敵に笑った。
「ならば、代償として貴様の”子宮”をもらおう」
その言葉に、人魚は絶句した。それはつまり、友人を助けたければお前は子供が埋めない体になれ。ということだった。
その人魚は、地味ではあったが将来を約束した相手がいた。お互いに、子供が欲しいとも言っていた。
人魚は魔女に尋ねる。
「他のものではダメですか!」
魔女は首を横に振った。
「お前に、それ以外の価値はない。無理なら、友人のことは諦めろ」
吐き捨てるように魔女は言った。人魚は考えた。どうしよう、どうしよう……
考えすぎて感情に曇りが出てしまう。
どうして私の見た目はこんなに地味なのか……あの子のように素敵な容姿に、素敵な声があれば……考えれば考えるほど、なぜか助けたいはずの友人に嫉妬をしてしまう。
長い間考えた。そして、出した結論は……
「わかり、ました」
人魚は、友人のために子供を産めない体となった。
契約が成立した途端、人魚の体に激痛が走った。魔女の住む洞窟からは、激しい悲鳴が聞こえたと、魚たちは語った。
対価を受け取った魔女は、苦痛に耐えている人魚に一本の短剣を渡した。
「その短剣で、友人が愛した男を日の出までに殺せば人間に戻る。しかし、もしできなかった場合、その友人は泡となって消える」
選択肢は彼女次第だということを聞き、その人魚は友人の元へと向かった……———
話終えた後、コラレは息をこぼしながら天井を見上げた。
大事な友人が、そこまでして手に入れた短剣。だけど、何も知らないコラレはそれを使うことができず、泡になることを選んだ。
さらに、死にたくないと生にすがって人間でもあり、人魚でもある、歪な存在になってしまった。
「私は、本当にひどい生き物です。本当に……ひどい……」
何も言えない。だって、私が同じ立場でもきっと感じることは同じだ。
コラレは悪くない。そして、友人も悪くない。
友人は、コラレを助けるために子宮を差し出して短剣を手に入れた。
コラレは、彼の幸せを望んで短剣を使わず、泡になることを選んだ。
どっちも、相手を思っての行動をとった結果なのだ。
「これで全部です。これが、私です……」
俯きながらそう答え、すぐに私と視線を合わせてくれる。どこか少しだけ不安げな目をしている。それすらも綺麗だと感じる。
「私が、怖いですか?」
そう問われて、私はゆっくりとコラレに近づき、手を伸ばす。
ぎゅっと体に力を込める彼女の両手を包むように握り、自分の額を彼女の額に当てた。
「私は、貴女が好きよ」
怖い怖くないじゃない。私は、どんな貴女でも好きだ。
一目見たときから、私の心はずっとコラレにしか向いていない。
胸の内に秘めていた自分の気持ちを彼女に伝える。それが、私の答えだ。
例え彼女が誰かを好きになれなくても、自分は一途に愛し続ける。
「おばあちゃんになっても、死んでも……私はずっと、コラレのことが好き」
あぁ、我ながら歪んでいて、重い愛だなと思う。逆に私が彼女に「怖くない?」って聞きたいくらいだった。
顔を離して、彼女の反応を確認する。すると、彼女は苦笑いを浮かべていた。
「どうして、そこまで好きになれるんですか?」
そんなものは決まっている。
「貴女が綺麗だから」
私は満面の笑みでそう答えた。
予想外の言葉だったのか、一瞬驚いた顔をしたコラレはそのまま俯きながら「そっか……」と呟いた。
「シュテルンさん」
「ん?」
「キスをしましょう」
どうして、彼女がそんな提案をしたのかわからない。
コラレはシュテルンに恋心を抱いているわけじゃない。私のことが好きだからキスがしたいのではない。その提案に、何の意味があるのかわからない……だけど、彼女が求めてくれたことがすごく嬉しかった。
「いいよ。しよう」
薄暗い部屋の中、私はそっと彼女の頬に触れ、ゆっくりと顔を近づける。
無意識に、お互いに瞼を閉じ、そして唇が重なる。
とても柔らかくて、甘さなんて実際に感じているわけではないけど、胸いっぱいに広がる幸せ。
ただ唇を合わせているだけだというに、どうしてこんなにも満たされてしまうのか……やっぱり、私は彼女が好きなんだ。
名残惜しく感じながらゆっくりと唇を離した。
もっと、したかった。重なるだけじゃなくて、激しく求めるように……
「ありがとうございます」
だけど、今は彼女の浮かべる笑顔だけで十分だ。
恐らく、恋人関係になることはない。実質の失恋ではあるけれど、それでも彼女とまた楽しく話ができればそれでいい。
今までと変わらない。変わったことは、自分の気持ちが彼女に知られただけ。
「シュテルンさん。今日はもう遅いですし……」
「あぁそうだね。ごめんね、こんな夜遅くに」
「いいえ。来てくださってありがとうございます」
「おやすみ、コラレ。また明日」
「はい。お休みなさい、シュテルンさん」
最後にお互いに言葉を交わし、私はそのまま家に帰った。
最初にベットに入った時よりも随分と心地よくてこのままぐっすりと眠れそうだ。
明日もまた彼女に会いに行こう。そうだ。以前彼女が好きだと言っていたお菓子と紅茶を持って、お茶会をしよう。
たくさん色々な話をしよう。
そんな、明日のことを考えながら、私はゆっくりと夢の世界へと足を運んだ。
⭐︎
「行ってきまーす」
翌日、今日はバイトもお休みで1日自由だ。だから、コラレとずっと一緒にいることができる。
今日は目覚ましよりも先に起きて、さらに眠気も全くない。
朝ごはんがしっかり胃に満たされる感覚がした。
街に行く足取りは何だかいつもより軽かった。
「えっと……これと、これと……これください」
いつもは売り切れている、好きなお菓子が今日は買うことができた。
「あ、これすごくいい匂い……」
新しいお気に入りの紅茶を見つけることができた。
今日はとってもいい日だ。いいことが何度も何度も続いた。
頭の中はいつもよりもふわふわしていて、きっと今日はもっといいことがありそうな気がした。
普段行くバイト先とは道を外れ、私はコラレの店へと足を運ぶ。
今日は気合を入れて、おしゃれもした。もらったイヤリングもした。ただ、昨日の今日だから、変に意識していると思われないだろうか……そんなことを考えながら、私はお店の扉を開いた。
「こんにちはー」
だけど、店内にシュテルンの姿は無かった。
一応カウンターの先まで行ってみたけど、それでも彼女の姿は無かった。
「まだ寝てるのかな……」
でも、お店の扉は開いていたし、もしかしたら上で作業しているのかもしれない。そう思いながら、私は階段を登って彼女の部屋の扉をノックする。
「コラレ、シュテルンだけど起きてる?」
返事はない。もう一度声をかけるけど同じだった。
「入るね」
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回して扉を開ける。
「不用心だよ。お店の扉開けて……」
中に入りながらそう声をかけたけど、私は視界に広がる光景を見て、手にしていた籠を地面に落としてしまった。
まるで一枚の絵画のような光景だった。
開け放たれた窓の向こうに広がる広大な海。
風が流れ込んできて、薄いレースのカーテンがなびく。
ベットの上。まるで海でも見るように壁に寄りかかっているコラレの手には一本の短剣が握られおり、肌と同じように真っ白な寝間着が、赤く染まっていた。
そして、彼女は何とも穏やかに、幸せそうな笑みを浮かべて死んでいた。
「コラ……レ……?」
一歩、一歩と近づいて、数歩歩いたところで膝から崩れ落ちた。
じっとコラレを見つめながら、悲しさが込み上がってきて涙を流す。
泣き叫びたかったのに、死んだコラレがそれを許さなかった。
死んでいるのに、その死んだ姿さえも目を惹くほどに美しかったからだ。
「あぁ……本当に……」
ゆっくりと手を伸ばすが、結局そのまま、伸ばした手を自分にもどし、両手で顔を覆って、声を抑えながら私は泣いた。
泣いていたけど、どうしてなのか……
ーーー私は笑っていた
⭐
「…………」
あれからもうどれだけの時間が経っただろうか。
お店は取り壊されて、その場には何も残っていない。
ここに来てもコラレに会えるわけでもないのに、毎日のようにここに来てしまう。
お店の扉があった場所に数分足を止めた後、そのまま足を進めて崖の淵の近くまで行くと、右手に持っていた桔梗の花束を海に投げ捨てた。
そのまま海を数分眺める。
これが最近の私のルーティーンの様になっている。
海風が私の髪をなびかせ、カラカラと耳につけている貝殻のイヤリングが音を鳴らす。
「コラレ……」
花束を握っていた右手とは逆、左手に握っているのは一通の手紙。
あの日、部屋のサイドテーブルに置かれていた私宛の手紙は、一言だけ書かれていた。
「また来るからね」
苦笑を浮かべ、私はその場を後にする。歩みを進めながら、私は手にしていた手紙にそっと口づけをした。
——— 愛してくれてありがとう。
【完】




