アドリアの碧
「ねえ。田所君て嫌な夢見る事ある?」
半分眠っているような目で彼女が言った。
「悪い夢ですか?」
俺は椅子に深く座って俺は考え込んだ。
「う~ん。そうですねえ、最近は見ないけど…昔はよく戦場で弾に撃たれる夢を
よく見ましたね…。敵は絶対その時一番苦手な奴」
俺の言葉に彼女は肩を震わせてくすくす笑う。
「へー。って事は…田所…田所君そん時は兵隊なんだ。迷彩服着てぇ…?」
「いや、そこまでディティール細かくないですけど…着てるのかな…?」
「あはははは。見て…見てみたいな、見てみたいな…兵隊姿」
そんなに面白い話だとも思わないが…彼女は大口を開けてけらけら笑う。
彼女の名は桜井美樹。今をときめくベストセラー作家。…もっともここのとこ
ろスランプとかで、何も書いていないが…。そして、俺、田所厚は1年半程前から
この人の担当をやっているしがない編集部員で、今日は、突然、彼女に呼び出さ
れてこうして2人で飲みに来たわけだが、
「でも、なんれ…せん…戦争の…あれ?? 何を言おうとしたのかなア」
さっきから彼女は一人で酔っぱらっている。ろれつも回らなくなっている。
「そろそろ、帰りますよ先生」
見兼ねて立ち上がると、
「まだ、大丈夫…」
と、腕を掴まれる。
「大丈夫じゃないですよ。俺、嫌ですよ。先生かついで行くの…」
しかし、結局、俺は酔った彼女をマンションまで運ぶはめになった。
肩をかつぎ、エレベーターで7階まで運び、部屋の鍵を開ける。そして、青色の
ソファに彼女をどさりと寝かせて一息つく。ソファの上で彼女は安らかに寝息を
立てはじめる。…まったく………。
「それじゃ、先生。リクエスト通り付き合ったんだから、原稿書いて下さいよ!」
耳元で大きく呼び掛けると「う~ん」と返事が返って来た。そして、そのまま
回れ右して帰ろうとした時、俺は、窓辺に『それ』を見つけてしまった。
それは赤い靴だった。紺色のレースのカーテンのこちら側に置かれたミニチュ
アの白いベンチの上に、大切に飾られている。
なんで俺こんなものに興味を持つんだろう…? 我ながら不思議に思いつつ、
窓辺に近付きそれを手に取ると、
「ああ、それ、竜一のプレゼント…」
突然彼女が言った。振り返ると、ソファの上で頬杖をつき、足をぶらぶらさせ
ながら彼女がじっとこちらを見ている。
「竜一…?」
確か、半年前に別れたとか言ってた恋人の名前だ。そんなものを未練たらしく
飾ってるのか、この人は…。
「そうよ。藤崎竜一」
彼女はそう言うと、見る見る顔を歪ませ、
「竜一、竜一ぃ…」
ボロボロと涙をこぼす。…泣き顔が情けない。FANが見たらさぞかしがっかりす
るだろう…。
まったく、初めてあった時の知的でクールなイメージは一体どこに行ったのか
…? ベストセラー作家で才女と聞いていたから、担当になった当初は会うたび
に思いきり緊張していたのに、慣れてみれば、実際は大口開けてガハハと笑う。
酔っぱらってはみっともなく泣く。(5分先のコンビニに行くのに道に迷って電話
がかかって来た事もあったな)俺がいなきゃ、あなた全然駄目じゃないですか…。
彼女が眠ってしまったのを見届け、アパートを後にする。
そして、家に着き、自分の本棚を見て、何故あの靴に目を引かれたのかその訳
が分かる。
それは、彼女が最後に書いた小説の表紙だ。『アドリアの碧』と題されたアン
ハッピーなその恋愛小説の表紙は、ちょうど彼女の部屋の窓辺と似た配色の、海
に置き捨てられた赤い靴だった。
「そんなに、その靴がめずらしい?」
窓辺で靴を見ている俺に向かって彼女が言った。
「それ、ベネチアで買ったのよ」
例の赤い靴の事だ。彼女は数カ月前に俺に話した事など忘れたみたいに笑う。
「ベネチアですか…」
俺は初めて聞いたように答えた。が、内心いつまでこんなもの飾っておく気だ
ろうと腹をたてる。
「何で、履かないで飾って置くんですか?」
履きつぶしてしまえばいいんだ…。
「ああ。足に合わなかったの。失敗しちゃった」
「ふ~ん」
俺は磨かれた靴を触りながら考える。
「俺がもっといいの買ってあげましょうか?」
そう言って振り返った俺の目に、驚き顔の彼女が映る。
「そのかわり、早く原稿書きはじめて下さいよ。みんな、待ってるんですから」
「なんだ。つまり、原稿書いた御褒美って事」
拍子抜したみたいな顔であの人は言う。
「そうです」
俺は頷くと「それじゃ次の仕事がありますから」と、早々に立ち上がった。
アパートから一歩外に出ると湿気を孕んだ風が頬をうつ。
水たまりを避け道を急ぎながら、彼女が赤い靴を脱ぎ捨て一日も早く筆をとれ
る事を願う。それは、彼女の作品を愛する全ての人の願いであるけれど、何より
も俺自身の願いだった。
作者註
この作品は『初夏の酔い』の男性サイドから書いた話です