14 静かな湖畔の、何も無い一日
森の中を僕とベラ、そしてベラの背中に跨ったイーシャとトリーが行く。
普段の狩りでは森に出るのは僕とベラだけなのだが、今日はイーシャとトリーが薬草の採取をしたいと言い出したのだ。
それならばと僕は、魔術訓練も地図の拡大も今日は休みにして、皆で森に出かける事にしたのである。
丁度良い機会だった。
安全の為とは言え人里離れた場所に避難して、尚且つ拠点に籠りっぱなしでは気も滅入るだろうし、気分転換はきっと必要だろう。
この辺りは普通の人間が歩くには些か以上に険しい為、今はイーシャとトリーはベラの背中に乗っている。
だがもう少し進めばちょっとした大きさの湖に辿り着くので、そこなら歩き回っても平気な筈だ。
恐らく薬草の採取も出来るだろうし、森の湖なんて、弁当を持ってのピクニックには丁度良い。
「うわぁ、凄いっ」
草木が覆う茂みを抜けると、開けた空間、そう、湖の畔に出た。
湖面が光を反射する様に、イーシャの口から歓声が零れる。
訴えかける様にこっちを見る彼女に、僕は少し苦笑いを浮かべつつも、一つ頷く。
破顔し、満面の笑みを顔に浮かべたイーシャはベラの背を飛び降りて湖へと走る。
そんな娘の様子にトリーが慌てて後を追う。
確かに、この湖には色んな動物が水を飲みに来るし、また水は澄むとは言え、中に何かが潜まないとは限らない。
まあ僕かベラが付いていれば大抵の事は何とかなるけれど。
不意に、ジャボンと湖の真ん中の方で何かが跳ねた。
見た目は普通の魚である。
……でもあれ全長何m位あるんだろう?
人間なら、特に小柄なイーシャ程度なら軽く丸呑みにしそうな巨大魚だった。
大慌てで、湖に向かっていたイーシャとトリーが戻って来る。
あの巨大魚に驚いたらしい。
でも大丈夫だ。
「頭が良い相手はベラが傍に居たら襲って来ないし、逆に頭の悪い相手がベラの隙を突くのは無理だから、離れ過ぎなかったら安心して遊んでて大丈夫だよ」
高位魔獣のケルベロスであるベラと他の生き物では、スペックに大きな隔絶がある。
身体能力も感覚も知能も、並大抵の相手じゃ及びもつかない。
攻防どちらにも長けたベラと対等にやり合おうと思うなら、竜クラスの敵を持って来なければ不可能だ。
しかしそんな事はさて置き、あの巨大魚は一寸凄い。
大きな魚は味も大味だと言うけれど、でもマグロなんかは大きいと凄い値段になるって聞いた事がある。
ちょっと捕まえてみようかな。
イーシャとトリーは水辺で少し遊んでから、薬草の採取をするとの事なのでベラに任せて、僕は靴を脱ぎ、湖面を徒歩で歩き出す。
右足が沈む前に左足を、なんて特殊技術では無く、単に何時もの霊子操作で足が水に沈まない様にしているだけだ。
目指すは湖の中央に在る小島だ。
丁度湖の中央に在る小島なんて、ちょっと探索心をくすぐられる。
途中でさっきの巨大魚が僕を丸呑みにしようとして来たら、その時は逆に捕獲する心算だった。
中央の小島への散歩は順調で、……順調過ぎて少し残念だ。
時折遠巻きに僕の様子を伺う気配は感じるのだが、襲って来ない。
指先で湖面をツンツンと突き、振動を起こして誘ってみたら気配は逆に一目散に遠のいて行く。
ちょっと臆病過ぎだと思う。
とはいえ巨大魚が捕まえられない事以外に文句は無い。
日差しはきついが、湖面近くの空気は冷えていて心地良かった。
僕は悪魔だから極寒でも灼熱でも問題無く過ごせるが、元人間としての記憶があるので、やはり人間にとって心地良い環境の方が好ましく思えるのだ。
湖面もキラキラと輝いて神秘的、そう、僕が言うのもおかしいだろうが、神秘的に感じる。
そして辿り着いた小島には、古くて小さな祠と像があった。
紛れもない誰かの手に依って作られた物で、その事に僕は少し驚く。
この湖は人里から遠く離れてて、並の人間が来れる場所じゃないのだ。
それとも以前はこの近くにも人の住まう場所があったのだろうか?
それとも或いは、人とは別の知的生物が存在したのかも知れない。
森の奥に住まう民といえば、エルフ等が思い浮かぶ。
そういえば以前の世界では、結局出会う事はなかったが異種族自体は存在すると聞いていた。
ならこの世界にも異種族が居る可能性はあるだろう。
……でも居たら教会に弾圧されたり、残酷に狩られてそうだから、居なくて良いかな。
余計な悲劇は見たくないし。
まあ何にせよ、この小島に誰かが訪れるのは久しぶりである事は間違いがなかった。
僕は祠と像に向かって手を翳すと、先人への敬意を込めて、水魔法と殺菌魔法で汚れを落として行く。
この世界の神、あの教会の祀る神への印象は最悪だが、この場所に祀られる存在は別である。
どこかの誰かが大切にしたものなら、それには敬意を払いたい。
尤も久しぶりの来訪者が悪魔であるというのは、祀られてる存在には少しばかり申し訳ないけれども。
何時かまた、この辺りにも人が住むようになったなら、再び発見される事を願っておこう。
祠と像を清め終わり、振り返れば、湖の向こう側でイーシャが大きく手を振っているのが見える。
ああ、もうそろそろ昼の時間だ。
小島へ来るときは徒歩だったが、あんまりゆっくり帰って彼女達を待たせるのも申し訳ない。
僕は霊子を操り背中に羽を出現させて、空へと舞い上がった。
昼を食べ、空が朱に染まるまで湖畔でのんびりと過ごし、そして僕等は拠点に帰還する。
特に何も無い一日だったけど、心は充分に休まった。
また休みたくなったら皆で遊びに来るとしよう。
前に歩まず座って休む日があるからこそ、僕等は倒れずに進んで行けるのだ。