雨が上がったら
※おそらくツッコミどころは多々あると思いますが、温かい目で見ていただけたらありがたいです。
日が暮れて、路地裏のパブに灯りがともり始める。クロック・タワーが正午を告げる鐘を鳴らしてから、だいぶ時間も経ち、仕事帰りの工員の姿が増えてきたように思える。
表通りに面した路地の入口で、少年が低い椅子に座り、目の前の木箱をぼんやりと見つめていた。少年の身なりはお世辞にもきれいとは言えず、すすやら埃やらで汚れたサスペンダー・パンツは唯一膝の部分だけは継ぎで修繕されているが、ひざ裏や腿にも穴が開いている。それに、灰色に汚れたYシャツ、使い古されてすっかりコタコタになったワーカーキャップをかぶっている。顔立ちは比較的整っているものの、埃にまみれてそれどころではない。
「おい小僧、頼む」
無愛想に言い捨て、ボーラーハットを被った若い男が少年の目の前の木箱に足を乗せた。
「はい、かしこまりました」
少年は凛と通る声で愛想よく返し、くたびれたカバンの中から、これまたくたびれたブラシを2,3と布、それに使いかけのワックスなどを取り出した。
「ずいぶん汚れが目立ちますね、今日は乾燥していましたのもありますが、ずいぶん歩かれたんですね」
靴の表面についた埃や砂をブラシで丁寧にかつスピーディに掃いながら、少年は男に尋ねた。だが、男からの返事は「あぁ」とか「うむ」とか。まったく聞いているそぶりはなかった。
男が聞いていようがいまいが、関係なく少年は言葉をかけ続ける。ブラッシングが終わり、古いワックスやクリームを布できれいに拭き取り、新しいクリームを塗る。
ムラなく靴クリームを施し、仕上げの工程に入った。
「じゃあ、そんな頑張ったお兄さんと靴のために今日は特別手をかけてあげましょう。」
少年は椅子のに置いてあったビンからほんの数滴水を布につけた。そして、靴を磨く。次にワックスをかける。また水を数滴含ませた布でふく、ワックスをかける……。
2、3回この作業を繰り返すと、男の足に馴染むくらい履き馴らされた革靴が新品同様の輝きを取り戻した。
その様子を見て、男は少し顔を綻ばせ「ほほぉ」と感心の声を漏らした。
「これ、鏡面磨きって言うんですよ。鏡みたいに顔が映りそうですよね。」
少年は得意げに笑って見せた。
反対の靴も同様に磨き、三十分ほどで作業が終わった。男はポケットから3ペンス銀貨を出し、少年の手に放り投げた。
「また、どうぞー」
どことなく、足取りが軽くなった(ように見える)男の背中に声をかけた。
もうじき、日も完全に沈み、街灯が霧を照らす時間がやってくる。少年は商売道具をカバンに戻し、椅子と木箱を建物の壁に寄せる。
ズボンの埃をはたき、路地の奥にあるパブへと少年は足を進めた。
すっかり夜も更け、表通りは霧に包まれ、道を行く人もわずか数人である。日中の賑わいとは大違いである。
大通りに面した路地をしばらく歩くとひっそりと看板を出しているパブ『CHEERS』が見えてくる。静まり返った霧の町とは違い、このパブは大賑わいを見せている。客の身なりは決して小奇麗とは言えないが、みな笑顔で心から酒と会話を楽しんでいるように見える。
そんな客の中に、先ほどの靴磨きの少年の姿もあった。
「マスター、サイダー一つ。」と、にこやかにカウンターの中に立つ恰幅のいい口ひげを蓄えた男性に声をかけ、カウンターに1ペニー銀貨を置き、肘を突いて寄りかかる。注文を聞いた男性はカウンターの裏をかがんで覗き、アイスボックスの中からビンを取り出す。手早く栓抜きで王冠を外すと、少年の前に差し出した。
「ほらよ、全くガキの癖に酒の味なんて覚えやがって。」
「マスター知らないの?パリじゃ生水の代わりにサイダーを子供に飲ませてるって話だぜ?世間知らずはこれだから困るよ。」
悪態をつく男性に、少年は軽口で返した。
「ロイ!なにが世間知らずだい、どこまでも口の減らないやつだねぇ。」
その様子をカウンターの奥のこじんまりとした厨房から見ていた、これまた恰幅のよいエプロン姿の婦人が張りのある声を飛ばす。
「あ、おばちゃん、どうもどうも。今日は1日で30ペンスくらい稼げたよ。」
ロイと呼ばれた少年はビンを受け取ると、厨房の近くの席へ行き、続けて婦人に声をかけた。
「そりゃずいぶん稼いだねぇ、じゃあ今日はつまみも食べてお行き」
婦人はニヤッと微笑むと、フライパンから揚げたてのフィッシュ&チップスを皿に盛り付け、ロイの前に差し出す。こんがりと揚げられた料理からは湯気が立ち上り、見ているだけで唾が溢れる。サイダーを一口飲むと、ロイは婦人からフォークを受け取り、料理に手をつけた。そんな矢先に背後からガラスが割れる音と、いかつい男の怒鳴り声が響く。
「オイオイオイ、なんだこのガキ!グラスもろくに運べねぇのかよ!」
店中の視線が怒鳴り声のほうに向く、店の隅のテーブル席であった。くたびれたワーカーキャップに肘まで袖をまくったホワイトシャツ。いかにも作業員であるということを告げているようなオーバーオール姿の男性が、どこか楽し気な表情で目の前のウェイトレスを怒鳴りつけているところである。
ウェイトレスの少女はテーブルの足元に転がるグラスを慌てて拾い、タオルでせわしなく床を拭いているところだった。
騒ぎを起こした客はパブの顔なじみであるのだが、店に文句をつけて支払いを渋ったり、ほかの客と喧嘩を起こしたりと、揉め事を多く起こす客で、周囲の客も「やれやれ、またか」というようにため息をつき、面倒を避けるようにエールを仰いだ。
「おばちゃん、見ない顔だけど、あのウェイトレスの子は?」
ロイがカウンターに振り返り尋ねる。
「え、あぁ、一昨日だったかウチで新しく住み込みで雇ったのさ。なんでも家も身寄りもなくしたってんて、器量のいい子なのにボロ着てて、かわいそうでさぁ。」
「ふ~ん」とうなづくとロイはサイダーのビンを手に、席を立つ。制止する夫人を無視し、騒ぎのテーブルに歩み寄っていく。
そして、テーブルの前で立ち止まると、座っている男やウェイトレスの少女の視線を余所に、おもむろにビンをテーブルに置いた。
ポカンとしている少女から、さっきまで床を拭いていたタオルを奪い取り、代わりに床を拭く。たっぷりとエールがしみ込んだタオルを手にし、ロイは……。
「オ、オイッ、てめぇ小僧なにしやがるっ」
ふんぞり返って椅子に座っていた男の頭の上でタオルを思いっきり絞った。
「まったくさぁ、大の大人がみっともないんだよ、エールこぼしたくらいでガタガタ騒いで」
「んだと、このガキ!大体、こぼしたのはこのどんくせぇウェイトレスだ!それを言いがかりつけやがっ……」
「グダグダうるせぇなぁ、大方アンタが足でも引っかけたんだろう」
男の言い訳をロイが遮ると、一瞬男の顔つきが曇った。わずかに汗もかいている。
「図星だろ、アンタらやり方が汚いんだよ。酒がまずくなるからとっとと出てけ!」
顔を紅潮させ、男はわなわなと唇を噛む。立ち上がり、テーブルをガンッと蹴ると、男は足早に店を出て行った。
そのさまを見ていた周囲の客は歓声をあげる。中にはお祭り気分で「いいものを見せてくれた」と新しくサイダーを注文し、少年の正義感を称えるように振る舞ってくる人もいた。
「やれやれ、お前そんなオドオドしてたら、ああいう奴のいいカモじゃん。もっと堂々としてなきゃ」
事を黙って傍観していた少女に近づき、ロイは肩をポンっと叩く。少女は驚いたようで少し飛び上がり、慌てて頭を下げ「ありがとう」と、なんとか礼を言った。
いいよ、と手を振り、少女の頭を上げさせる。
「俺はロイ、このあたりで靴磨きをしてるんだ。お前、名前は?」
ロイが顔を覗き込んで聞くと、少女は慌てて目を逸らす。そして、数秒間を置いてから。
「……エマ、私はエマ」
消え入るようにそうつぶやいた。
名前を知り、満足げににっこり笑うと、突然ロイはエマの手を引く。そのままエマを先ほど自分が座っていたカウンター席まで連れて行くと、隣に座らせた。
「エマはさ、サイダー飲んだことってあるかい」
ロイが尋ねる。それに対し、戸惑いながらも先ほどよりはっきりとした声で「いや、まだ」とエマは返した。
「そっか、じゃあ一緒に飲もうよ、俺のお気に入りなんだ」
少年らしい屈託のない笑顔でロイはよからぬ誘いを持ちかける。突然の連続に戸惑いを通り越し、一周してやはり戸惑いながらも、エマはこくんとうなずいた。
カウンターの向こうでは、マスターとその夫人が「ハァ」と軽くため息をついた。そして、すぐさま微笑んだかと思うと、新しいサイダーとグラスを差し出す。ロイがグラスにサイダーを注ぎ、エマに差し出す。
少し迷った様子ではあったが、エマも恐る恐るグラスを手に取り、少し匂いを嗅いでみる。
「ふんわりとリンゴの香りがする……」
だろ? とロイは得意げになり、自分の手に持ったビンを軽く差し出す。エマも自分のグラスを差し出し、二人は乾杯した。
その様子を一通り見守っていた夫人は、先ほどのフィッシュ&チップスに一山増やした皿をロイの前に差し出した。
その皿を前にしてロイは唖然とした。そして少し困ったような笑顔でエマに微笑みかけ、皿の上の山を二人で攻略し始めた。
それから、ロイは日に日に『CHEERS』へ顔を出す回数が多くなっていった。自分では意識してはいなかったが、エマの顔を見る時間が楽しく感じられるようになり、自然と二人の会話も多くなっていった。
エマを相手にその日の客のこと、町の様子など、取り留めもない話をしては少女がひかえめな笑顔になるのが、ロイにとってこの上ない幸福であった。
そうして一か月が過ぎたころのこと……。
その日は雨が朝からしつこく降り続け、昼ごろに一時止んだかと思うと、夕方にはまた降り始め、時間が経つごとに勢いを強めていった。
(今日はもう店じまいだなぁ……)
いつもの場所から少し奥まったところで、雨を避けながら客を待っていたロイも、限界を感じ、いつにもまして少ない一日の稼ぎを麻の袋に詰め込み、商売道具とともにカバンにしまう。
降り続く雨に嫌気が差したのか、街ゆく人々も皆うつむいている。そんな中、ロイは少し浮かれた―――浮かれ気分を隠したような足取りで『CHEERS』へと向かった。
稼ぎが少ないことを惜しむどころか、早く店じまいをする理由ができたことに、つい顔がほころぶ。
いつものようにCHEERSに足を運ぶと、店の前で二人の男が、周囲の様子をうかがいながら立ち話をしているのが目に入った。片方の男は背が高く、片方は低い。背丈こそ違えど、二人とも長いコートに少し深めにハンチング帽をかぶり、手帳に何かメモを取っている。二人のうちの背が高い方がロイに気が付くと、小声で話し合い、そのすぐ後で路地の奥へと去って行った。
立ち止まって男たちの様子を見ていたロイは、首をかしげて少し考えてみたが、やはり何もわからず、諦めてパブに入ることにした。
「こんにちは、おばちゃん、マスター」
開店はしているものの、まだ誰も客はおらず、閑散とした店内に明るい声が響く。カウンターの奥から夫人が顔をだし、いらっしゃい、と。
続けてマスターも顔を覗かせるが、エマは姿を見せなかった。
疑問に思いながらもロイがカウンター席に座ると、注文もしないうちから、見慣れたラベルのビンに入ったサイダーがロイの前に差し出された。
「あれ、いつもはマスターもおばちゃんも小言言いながら出すクセに、今日はずいぶんすんなりと出てくるね」
ロイはカバンの中から稼ぎの入った袋を取り出し、サイダーの代金を支払い、一口飲む。
「それがね、ロイ……あんたに頼みがあるんだよ」
「どうしたのさ、そんな改まって」
真剣な面持ちでカウンターの向こうに佇む夫人は、静かに続けた。
「あんた、店の前で見慣れない二人組を見なかったかい」
ロイがコクンとうなずくと、夫人はさらに続ける。
「どうやら、あいつらエマのことを付け狙ってるらしいんだよ」
なんとも、穏やかではない。とりあえず、ロイは黙って話を聞くことにした。
「実はあの子、両親がきちんといるらしいのさ。ただ、それがどうしようもないひどい親でさ、まったく……あたしゃ腹が立って仕方ないよ」
夫人はわなわなとふるえながら唇を噛む。その様子から、ただ事ではないような気配がした。
「それで、おばちゃん、頼みって?」
カウンターの向こうで深刻な面持ちの夫人の前の席に座りながら、ロイが返す。すると、夫人はマスターに合図を出し、店の外に誰もいないか確認させる。誰もいないことを確かめてから、ゆっくりと夫人は口を開いた。
「あんた、エマのことを助けてやってくれないかい」
一瞬自分が何を言われたのか、ロイには理解できなかった。助ける? 何かあったのか? そもそもエマは今どこにいるんだ? 無事なのか? そんな考えが急に頭の中を駆け巡る。続けて、ロイはなぜこんなにも自分が不安になったのかを疑問に思った。そうしている間に夫人が続けた。
「あの子がここに来てから一月が経つけど、最近になってその両親があの子を連れ戻そうとしているらしいのさ。さっきの連中は両親が雇ったらしいんだけど、この店に客として一回来てからは、ああして様子をうかがいにくるのよ」
夫人の言葉の一つ一つを、驚くほど真剣にロイは聞いた。自分がエマの力になれるかもしれない。そう思った時、ロイは不思議な昂揚感を覚えた。少年はいまだ自分が恋をしていたことに気付いていなかった。
「それで、あんたさえよければ、あの子を匿ってやってくれないかい。両親が雇った連中はここのことを嗅ぎ付け始めたみたいなんだよ。」
「でも待って、両親が連れ戻そうとしてるんなら、それはそれでいいんじゃないの?エマだって家族といた方が……」
言おうとしてロイは自然と言葉が詰まった。なぜか胸がざわつくのを覚えた。
すると夫人は軽くため息をつき、
「これはエマには言うんじゃないよ」
と、念を押した。
「あの子は一回親に売られたんだ、たまたまその時は逃げ出せたみたいだけど、また連れ戻したら売って、金をてにいれるつもりなんだろうさ」
胸騒ぎが突如として痛みに変わった。胸の奥がズキズキと痛む、不思議な感情がロイを襲う。
「わかった、で、俺はどうすればいいのかな」
ロイは二つ返事で返した。そして、返事を聞いた夫人は深く安堵のため息をついた。そうして、とりあえずは二、三日様子を見ようと伝え、ロイの住処にエマを連れて行くことを勧めた。
そのころ、エマは二階の自室で支度を済ませていた。普段のエプロン姿ではなく、質素な飾り気のない服装に、小柄な身体に少し不釣り合いなトランクケースを一つ。どうやら、それが今エマの持っている全てらしい。
ロイはさっそくエマを自分の住処へと案内した。路地を出て表通りに着いてから十数分歩くと、川沿いの開けた道に出た。その川のほとりに一台の捨てられた馬車がある。その馬車がロイの住処代わりだった。
「あー、ごめんな、狭くて」
馬車の両側のイスに向い合せに座る。間の小さいテーブルの脇にエマのトランクを置き、その反対側にロイの仕事道具が詰められたカバンを置く。それだけで、馬車の中のスペースは埋まってしまった。
「いいえ、それより謝るのは私の方、巻き込んじゃって」
いつも以上に消え入るような声でエマはつぶやいた。その顔にはやはり不安の色が写っているように見える。少しの間二人を沈黙が包んだ。
その空気に絶えきれず、ロイが口を開いた。
「いやぁ、失敗したなぁ、おばちゃんのところ出る前にサイダーもらって来ればよかった」
いや残念、とロイは指を鳴らして顔をしかめる。
「ロイって、ホントにサイダーが好きなんだね」
その様子を見て、くすりとエマが笑う。占めた、と言わんばかりにすかさずロイが会話を続ける。
「そうさ、エマも飲んでみて美味いと思ったよな。あのリンゴの香りがたまらないんだよなぁ」
「ふ~ん、リンゴ自体は好きじゃないの?」
「いや、リンゴも好きなんだよ。でもやっぱりサイダーのほうが好きだなぁ」
思わずロイは顔がほころぶ。
「じゃあさ、もっとお金貯めて、家を建てるときは庭をリンゴ畑にしたらいいんじゃない?」
エマも顔がほころぶ。
今までにないくらいに、目を輝かせて提案するエマに、またロイは心を揺さぶられてしまった。思わず、目を逸らしそうになったが、なんとかこらえる。
「それは名案だ、そうしたら自分でサイダーを作って、毎日好きなだけ飲めるね」
ロイが返すと、でしょ? と得意げにエマが微笑んだ。
「リンゴがたくさんなった木の下で、私ブランコに乗りたいな。リンゴの香りに包まれてブランコに揺られるの。素敵じゃない?」
夢を語ってエマも笑顔になる。そして、少し顔を曇らせて。
「あ、でもその家にはそれ以上に必要なものがあるわ」
と、いった。
疑問に思ったロイが首をかしげると、ため息を一つついてから
「一人で全部お洗濯してくれる機械よ、私お洗濯が全然ダメなの」
二人は顔を見合わせる。思わず先にロイが吹き出した、続けてエマも笑い出す。
「何を言い出すのかと思ったら、洗濯のことか」
笑いながらロイが言う。
「えぇ、大事なことよ、毎日きれいな服でスッキリと生活するの」
返すエマも笑っている。
先ほどまでの不安げな様子はどこに行ったのか、エマの夢を語る目が光輝く。ふと、ロイはこの子と一緒に暮らせたらな。と考えた。
きっと、毎日が幸せで辛いことなんか気にもならない、そう感じた。
夜が更けるまで二人は夢の話を膨らませ、ランタンのほのかな灯りに照らされて眠りについた。
翌朝、ロイはなにやら空腹を刺激するにおいに起こされた。目を開けると、わずかながらもしっかりと朝食が用意されていた。メニューはソーセージ、スクランブルエッグ、それとバケット。だんだんと意識がはっきりしてくると、見慣れたエプロン姿で馬車の外から、サラダの入ったボウルを持ったエマが入ってきた。
「おはようエマ、これは?」
「あ、ごめんなさい、勝手かなと思ったんだけど、私料理くらいしか取り柄がないし……何もしないで住まわせてもらったら、悪いかなと思って……」
エマはボウルをテーブルに置いて俯いてしまった。慌ててロイが迷惑じゃない! と言うと、エマはまたニコッとほほ笑んだ。
エマがイスに座ると、ロイも身体を起こしテーブルに向かう。一口ロイはスクランブルエッグを食べる。二口、三口。空腹だったのもあるが、あっという間に平らげた。それほど、ロイにはこの料理がおいしかったのである。
「すごい、エマの料理は絶品だ。これはもうおばちゃんのフィッシュ&チップスは店に出す必要がなくなるね」
至福のひと時を噛みしめながら、ロイが言う。失礼だよ。とエマが嗜めるが、ロイは無邪気に笑う。
エマも次第とこの少年に惹かれていた。
「そういえばさ、俺靴磨くの得意なんだ。エマの靴も磨いてあげようか?」
お返しに、とロイが問いかける。すると少し困ったようにエマが返す。
「あ、ごめんね……私ロイに磨いてもらえるようないい靴は持ってないの……」
確かに、エマの靴は粗末なものだった。靴というよりそれは足を覆っている布といったほうが適当かもしれない。
「私、お母さんやお父さんと暮らしてるときには、ただの布きれしか着せてもらえなかったの……」
落ち込んだ表情のまま、エマは続ける。
「それでね、ロイには知っててほしいんだけど、私両親に売られたの。」
その言葉を聞いて、ロイは胸がチクリと痛んだ。パブの夫婦に話してもらった以上に痛む気がした。
「うちは、おとうさんが働かなくて、悪いことして暮らしてた。でもそれもうまくいかなくなって、元から邪魔だった私を売ろうとしたみたい」
徐々に強くなる胸の痛みをじっとこらえる。さみしそうにエマは続けた。
「それで、人買いに引き取られて連れて行かれる途中で、乗せられた馬車が事故に合って、たまたま逃げ出せたの。」
ロイはエマの話を黙って聞いていた。いつものようにおどけて、笑わせようともせず、ただただ黙って。胸の痛みをこらえながら。
「そしたら、パブのおばさんたちが住む場所をくれて、生まれて初めて仕事をして、なんだか生きてる実感が湧いてきたわ」
エマの顔に微笑みが戻る。
「でも、一番うれしいのは、ロイが友達になってくれたこと。お話しするのがこんなに楽しいって、全然知らなかった」
エマがニッコリ微笑む。最初会った時はオドオドしていて、暗い印象だった。もっと自信を持てばいいのに、とも思ったが、そう思っていた自分をロイは怒鳴りつけたい気分だった。不安で当然だ。きっと彼女は今でも不安でいっぱいなんだろう。そう思うと、ロイはたまらなく胸が痛んだ。そして同時に、彼女にもっと笑顔になってほしい、と強く思った。
「よし、じゃあエマと友達になれた記念に、俺が靴を買ってあげるよ。エマにとびっきり似合う靴を買って、その靴にたくさんの幸せに連れてってもらおう」
ロイはエマの手を取って力強く微笑んだ。エマも釣られて笑った。少し目元が熱くなったのをエマは感じた。
その日から、ロイは一生懸命靴を磨いた。エマに靴をプレゼントするために、朝から晩まで。帰るとエマが笑顔で迎えてくれる。それだけで、次の日もがんばることができた。
普段は早く店をしまう、雨の日や風の強い日も、一人でも多くの靴を磨けるように客を待った。そして、その帰りを、エマは料理を作って待っていた。
それから、一週間が過ぎたころ、ロイがそれまで持っていた分と足すと十分すぎるほどの予算ができた。思わず胸が高鳴るのを必死で堪えて、その日仕事は早めに切り上げてよう。エマに似合うかわいいハイヒールを買って帰ろう。と、朝から決め、いつもの場所で客を待った。
ただ、その日は朝から雨が降っていたため、あまり集客の見込みはない。仕方なしに、昼前にロイは通りの靴屋に足を運んだ。
おとなしいエマにはどんな靴が似合うだろう。そんなことを考えながら商品棚の間を縫って歩く。
イメージとしては浮かんでいるのだが、それをいざ見つけるとなるとなかなか難しく、ロイはしばらく店内をうろうろとしていた。
ふと、店から通りを見ることのできるショーウィンドウに目をやると、誰かが店の中を覗いているようだった。ロイの目に映ったのは以前CHEERSの前で見かけた二人組の姿だった。
外から誰かを探す二人の様子から、どうやら自分のあとをつけて来たのだろうと推測できた。なるべく、姿を見られないように店の商品棚の間に入って待つ。数分待って再びショーウィンドウを見ると、そこに二人組の姿はなくなっていた。
やれやれ、とロイは軽くため息をつき、靴選びに戻る。ヒールの低い動きやすそうなパンプスと、逆に見栄えの美しいハイヒール。この二つのどちらにするかでロイはしばらく悩んでいた。悩みに悩んで十分ほど、店員の助言も借りて、結局赤いハイヒールを買うことに決めた。
店員には「贈り物なんです」と告げ、念入りにラッピングもしてもらった。喜ぶエマの顔を思い浮かべるだけで、ついつい顔がほころんでしまう。
店を出るときには、雨脚が強くなっており、視界も悪くなっていた。だが、通りを歩く夫婦には見覚えがあった。CHEERSのマスター夫妻である。二人は間にローブ姿の少女を連れていた、あのローブはきっとエマだろう、そうロイは確信した。
三人に向かって声をかけよう。そう思った矢先のことだった。
「危ないッ! 暴走馬車だッ!」
大きく通りを劈く、いかつい男の声。途端に周囲が入り混じった悲鳴で騒然とする。思わずロイが悲鳴の先を見ると、御者が制しきれず慌てふためいた馬車が見える。興奮した馬車馬は人ごみなど気にせずに暴走する。その先には……。
ほんの数回、瞬きをする間の出来事だった。気付くのに遅れた「三人組」を馬車が通り過ぎていった。背筋が凍りつくような悪寒が走り、膝が震える。その場に立ち竦み、悪い夢だ、早く覚めろ。と何度も何度もロイは呪文のように繰り返す。
しかし、次の瞬間現実は無常にもロイを襲った。
「大変だッ! 人が轢かれたぞッ!」
雨の中を馬車は走り去って行き、さほど経たないうちに姿は見えなくなった。人だかりができるか否かのうちに、三人のうち二人がなんとか起き上がる。そして、気がつくと、いまだ起きぬ一人の元へ弾かれたように駆け寄り、脇に膝をつく。
「マスターもおばちゃんも無事だ」そう確信しロイが歩み寄ろうとした時、再び背筋が凍りついた。
夫人が何度も声を張る。壊れたステレオのように、何度も何度も。しかし、ロイには徐々にその声が聞こえなくなるような感じがした。
「エマ! エマ! 返事をして!」
何度も、何度も、夫人の酒焼けした声が枯れて擦れるまで、雨降りの通りを劈いた。人ごみの集まる三人の周りには赤い水溜りが広がり、雨がその円をいっそう広げる。動かなくなった彼の足は力を失い、その場に崩れるように膝をついた。次第に人垣が目の前を塞いでいく。
クロック・タワーの鐘が、夫人の悲鳴をかき消すように正午を告げた。
日が暮れ、人通りも少なくなったころ。わけもなくロイはプレゼントするはずだった箱を手に、ただただ歩いていた。
歩き続け、涙も枯れて流れなくなったころ、自然とロイの足は二人が出会ったパブに向かっていた。
もしかしたら中にエマがいるかもしれない。ロイはグッと込み上げるものを飲み込み、扉を開けた。外に営業中の札はなく、店の中には当然客もいなかった。ただ、二人を除いて。
カウンター席にマスター夫妻と向かい合って座る二人組が目に入った瞬間、ロイは手に持っていた箱を投げ捨て、一直線に掴み掛かった。さきほど、自分のあとをつけていた、エマを狙う二人組だった。
「お前らが出てこなかったら……お前らがァァァアアッ!」
縺れ合うように椅子から崩れ、ロイが拳を振り上げる。小さな拳に渾身の力をこめて一発、二発、三発目を打ち下ろそうとした時、起き上がった片割れがロイを突き飛ばした。
慌ててカウンターから出てきた夫妻が、ロイと二人組をそれぞれ制し、睨み合いだけが続いた。
「ヘッ、こっちだって泣きてぇよ。せっかくの金づるがよぉ……」
間もなく、殴られた男が口の中に貯まった血を吐きだし、同時につぶやく。
その言葉はロイの怒りを掻き立てたが、マスター夫人が必死で抑え込むことで事なきを得た。男が何か続けて言おうとしたとき、静かな声でマスターが、「お引き取りください、あの子はもう、この店にはおりませんから」と告げた。
その言葉を聞いてため息を残し、二人組は店を出た。残されたロイは、胸が張り裂けそうになった。そして、夫人に抱かれて涙を流した。
しばらくして、泣きやんだロイは店を出ようとしたとき、夫人が一言。
「忘れ物だよ、この靴。持って帰んな。」
殴りかかった時に投げ捨てた箱を拾い上げ、ロイに手渡す。その箱を見ると、また涙がこみ上げてきた。箱を抱きしめるように抱え、店を後にした。
帰り道、恐ろしく足取りが重かった。川のほとりを歩くが、近づくたびに短くも楽しかった日々が胸を締め付ける。ロイはいっそのこと、このまま川に飛び込もうかとも思ったが、それもできなかった。
そうして、いつもより時間をかけて住処にたどり着くと、なぜか灯りがこぼれている。出たのは朝だった、仮に自分が出かけた後、CHEERSの夫妻が訪ねてきたとしても灯りがついていたとは考えられない。
疑問に思いながらホロのかかった馬車の入り口を開けると、ほのかなリンゴの香りがした、そして、
「おかえり、こんな遅くまでどこ行ってたの?」
テーブルを挟んだイスの片側にちょこんと座る少女の姿。「ご飯作って待ってたのに、冷めちゃったよ」と頬を膨らませる少女は、どこからどう見てもエマだった。
驚くより先に、不思議に思うより先に、ロイはエマのことを抱きしめた。そうして、また泣いた、大声で。枯れたと思った涙だったが、まだまだ溢れてきた。
「え? なに? なんで? な、泣かれても困るよぉ」
エマは何が起きているのかわからず、泣きじゃくるロイをただ受け止めるしかなかった。方やロイは泣き続け、言葉にならない声を上げるばかりだった。
ようやく、ロイが落ち着いたころ、すでに東の空が明るくなり始めていた。夜まで降り続いていた雨も上がり、雨上がりのさわやかな匂いがあたりに立ち込める。
「えっと、話を整理すると、昨日のお昼に馬車が暴走して、それに轢かれて私が死んだって?」
ロイの説明をまとめるエマは、実に不思議そうな顔をしていた。また、昨日の昼の出来事を話すロイもいまだ不思議そうな表情である。
「そうさ、靴屋の通りでマスター夫妻と一緒に歩いてて、そこに馬車が突っ込んだんだ」
「んー、おかしいなぁ、だって昨日は私おばさんに言われて一歩もここから出てないんだよ?」
お互いの状況を話すが、謎は深まっていく。それもそのはず、確かに夫人がエマの名前を叫んでいたのをロイは聞いていた。
「本当に、その馬車に轢かれたのは私だったの?」
「こっちが聞きたいよ!」
二人の水掛け論はしばらく続いた、そして少し間が空いた時、エマがふと何かを思い出したようだった。
「あ、そういえば、おばさんからロイに手紙預かってるんだった、はいこれ」
スカートのポケットから、一通の手紙を取り出し、ロイに手渡す。あるなら早く出せよと言わんばかりに、ジトッと視線を浴びせ、手紙の封を開ける。
中に書かれていることをロイが声に出して読む。
『ロイへ、この手紙を読んでいるあんたは相当頭に来ているころだと思う。まずはじめに事情を何も言わず、あんたを騙したことを謝っておくよ。でも、こうでもしなきゃ、口の軽いあんたは、あの二人組にこの作戦をバラしちまうんじゃないかと心配でね。』
と、途中まで読んだところで、二人は「作戦?」と互いの顔を見て、首をかしげる。「続けて」とエマに促され、再開した。
『エマのことを助けるには、こうしてエマが死んだって思わせるのが手っ取り早いと思ってね。まぁ、これであの両親もエマのことは諦めるだろうさ。まぁ、ロンドンにいたら、また嗅ぎ付けられるかもしれないから、どこか他の町に移るほうが安全だろうね。幸い、ロイの技術はどこに行ったって通用するから。二人でがんばんなさい。CHEERSの看板娘より』
一通り手紙を読み終わると、二人は絶句した。そしてロイが一言。
「作戦もなにも……本人にくらい知らせとけよな……」
呆れて言葉を失ったエマだったが、思わず笑いそうになった。
「ほんとよね……でも、これで私自由になれるのかな」
そうして、しみじみとそうつぶやいた。そして、頬を涙が一筋伝う。
「ねぇ、ロイ。この手紙には『二人で』ってあるけど、ロイはいいの? その、私と一緒で」
その言葉にロイはドキッとした。だが、答えはすでに決まっていた。
「もちろん、二人でお金ためて庭にリンゴ畑を作るんだろ?」
そういい、ニカッと笑いかける。エマも涙を拭って笑い返した。
「あ、そういえば昨日から気になってたんだけど、あの箱の中身は?」
「え、あぁ、すっかり忘れてた。はい、これ約束のプレゼント」
ロイは住処の入り口で忘れ去られていた箱を手に取り、リボンを解きふたを開ける。
靴を手に取り、飛び跳ねながらはしゃぎまわる。エマの今までに見せたことのない表情は、自由になれた喜びから来ているのだろうかと、少し頭をよぎるが、早速靴を履く彼女を見ていると、そんなことはどうでもよく思えた。
ロイの見立ては正しく、大人しいエマに、というよりも今の明るく無邪気なエマに、赤いハイヒールはよく映えた。踊るようにステップを踏んでいるエマのおかげで、家具の置かれた馬車の荷台が揺れている。
「ねぇ、ロイ。早速行きましょ?」
エマがロイの手を取る。
「行くってどこへ?」
ロイが聞き返す。
「二人で暮らしていく場所を探しに! 私、この靴を履いていくわ。この靴がきっと素敵なところへ連れてってくれる気がするの!」
すっかり、上機嫌なエマに少し圧倒されながらも、ロイは明るく返事をした。
仕事道具の入ったカバンと、エマの持って来たカバン。二つのカバンを持って二人は朝焼けに照らされた、まだ人通りの少ない道を歩き出した。昨夜の雨が、道のいたるところに水溜りを残している。
「でもさ、これからどこまでいくかわからないなら、もっと歩きやすい靴に履き替えたら?」
歩きながら少年が尋ねる。
「いいえ、これがいいの。だって早くロイに磨いてほしいんですもの」
そう返すと、少女はニコッと笑顔を見せた。
※この作品に出てくるサイダーは現代ではシードルと呼ばれて販売されているお酒です。また、エールはビールのこと。ジンジャーエールってもともとはショウガを使ったビールなんですってね。
なんとなく、昔のイギリスを舞台に物語を書いてみたいと思ったんですが、資料を集めるのに苦戦し、果たしてこれは辻褄があっているのかどうか危うく思います。現実世界を舞台に書くのってホント難しいですね。