球児たちの夏
真っ青に澄み切った空。
降り注ぐ灼熱の太陽の光を下、スタジアムに管楽器の音と歓声が響き渡る。
県営の小さな球場にて、全国高等学校野球選手権、県大会の一回戦が行われていた。
球児たちのあこがれである甲子園に比べたら、収容人数は1万人にも満たない、外野も芝生で覆われただけの小さな球場だが、炎天下の太陽に負けないくらいの熱気に包まれていた。
一回の表の攻撃。気合を入れて、四番打者が打席に向かう。
それに合わせて、三塁側のスタンドから、ゆっくりと重厚感のある管楽器の音が響き渡る。
「おおっ。アフリカンシンフォニー、来たーっ!」
演奏と応援に紛れて、バックネット裏に陣取った少女が小さく歓声を上げた。
左右のアルプススタンドに比べて、人がまばらなバックネット裏に、白いブラウスに紺のプリーツスカートという高校の制服姿の少女が一人、膝にノートを乗っけながら、試合を観戦していた。
「うんうん。これぞ、高校野球! ってやつよねー」
もっとも今は、試合そっちのけに、鉛筆でノートをブラバンの音に合わせて叩きながら、リズムをとっているが。
すっかりその応援に夢中になっていると少女の頬に、ひんやりとしたものが触れられる。
「お疲れ。悪いな、綾瀬。遅れて」
低い声で話しかけられ、綾瀬と呼ばれた少女が声の主に顔を向ける。
座席脇には、少女と同じように、白いワイシャツに黒のズボンという高校の制服を着込んだ、男子学生がスポーツドリンク片手に立っていた。
「あ、結城。お疲れー。サンキュー」
綾瀬はよく冷えたスポーツドリンクを受け取ると、後ろ髪を一本にまとめているため、むき出しになっている首筋に、それを押し当てた。少し痛いくらいの冷たさが、逆に心地よかった。
綾瀬にスポーツドリンクを渡した結城は、そのまま、隣の席に腰かけた。
「って、うぉっ、あちぃ!」
「へっへっへ。旦那、ちゃんと椅子は温めておきましたぜ」
「これは温めた、ってレベルじゃねーぞ、おい」
愚痴りながら、隣に目を向ける。綾瀬のつるりとした白い肌に、うっすらと汗が浮かんでいた。かなりの熱気である。
「今、どんな感じだ?」
「そうだねー。アフリカンシンフォニーは好きなんだけれど、個人的には、三点くらいビハインドの九回の裏の攻撃で聞くのがベストかなーって」
「――いや、おまいの個人的な趣味の感想は聞いてねーって。試合のことだよ。マネージャー」
いつものようにツッコミを入れてから、結城はスコアボードとグランドに視線を向けた。まだ一回の表の攻撃の最中である。
綾瀬は三塁側の演奏に耳を傾けながら、面倒くさそうに結城に状況を説明する。
「見ての通りツーアウト一二塁。市立冨士田が粘りっこい攻撃をしているなーって感じ」
「適当だな、おい」
「まぁでもそのおかげで、得点圏の場面が長く続いているから、初回から熱のこもった応援をじっくり聴けるのは、ぐっじょぶっ」
綾瀬はうっとりとしながら、三塁側アルプススタンドから響き渡るブラバンの演奏と声援に耳を傾ける。
「市立冨士田の応援団はノーマークだったけれど、意外と力のこもった応援でうれしい誤算ね! まぁ本命は、一塁側の山家学園の方だけど。やっぱ私立だけあって、ブラスバンドのレベルが高いのよー」
「だから、おまいは、なにしに来てるんだよ?」
結城が疲れた口調でツッコミを入れた。
綾瀬はブラバン好きという理由で野球部のマネージャーを選んだという剛の者だが、マネージャーとしての仕事も、一応しっかりやってくれている。
今も、彼女の口から出る解説は適当だけれど、その膝元に置かれているノートには、ちゃんとしたスコアラーに加え、選手の癖や彼女なりに気になったことなどが逐一メモされている。この夏、第二シードを取れたのも、彼女のノートのおかげといっても、過言ではない。
不意に、球場内に風が吹き込んでくる。スコアボードの上に掲げられた旗を大きく揺らし、スタンドにこもった熱を押し流す。
綾瀬の髪の毛と、ブラウスの袖が風に揺れる。後ろ髪からうなじが見え隠れする。炎天下とはいえ、ときおり吹き荒れる風が、身体にまとわりついた熱気を払い流してくれるため、直射日光を除けば、それなりに観戦しやすい。
もっとも、この風では、試合している方はたまらないだろうが。
「ねぇ、結城」
「ん、なんだ?」
「確かに勝ったチームが、次の二回戦で、第二シードのウチと対戦するわけだけど、わざわざこうやって偵察に来るほどのものなの?」
これがマネージャーの仕事で、かつ両校の応援を聞けて感激な綾瀬はともかく、最後の夏の初戦を間近に迎えたキャプテンの結城が、貴重な時間を割いてまで球場に足を運んだことに、少し意外な感じがした。
普段は不愛想で、面倒くさがりやで、それでいて、一言多いのに。
「――そうだな。もう少しすれば、その理由が分かるさ」
結城が珍しくにやりと笑った。
そんなやり取りをしているうちに、スリーアウトになった。
結局チャンスを作ったものも、市立冨士田の攻撃は0点に終わった。
綾瀬は、演奏が終わってしまったことにガッカリしつつも、打者だけでなく守備の動きも含めてノートにメモを加えていく。
すると太陽の光で見づらかったノートの上に、不意に人影が覆いかぶさるようにして、立ち止まった。
「よぅ。結城に綾瀬ちゃん、奇遇だな」
綾瀬はノートから顔を上げる。彼女たちの目の前には、ラフな格好をした、坊主頭三人組が立っていた。その黒く焼けた肌と体格からして、ただの観戦者ではないことは、一目瞭然――というより、見知った顔だった。
「――えぇっ。大塚学院付属の、二ノ瀬くん? なんで二ノ瀬くんまで来てるの?」
綾瀬は驚いて思わず大きな声を出してしまう。
大塚学院付属高の二ノ瀬。
プロのスカウトも注目する、県内随一の左腕である。高校野球ファンならば、名前だけでなく、顔も知っているほどだ。
もっとも、結城と二ノ瀬は同じ中学出身ということもあって、ちょくちょく綾瀬の高校にも顔を出してくるので、彼女とも顔見知りの間柄ではある。
そんなスーパースターで、シード校のキャプテンが、トーナメント表では反対側の無名校同士の一回戦に、わざわざ視察に来ている事実に驚いたのである。
もっとも、二ノ瀬はそんな視線を気にした様子もなく、フレンドリーに声をかけてくる。
「二人っきりで並んで観戦かー。んー、お熱いねー」
「ん? そうだね。今日も暑いよねぇ」
綾瀬は一瞬、きょとんとしつつも、青空に燦々と輝く太陽をちらりと見上げて、夏のひまわりのように笑う。
もっとも、それは彼が望んでいたような反応ではなかったようで、二ノ瀬はがくっと脱力した様子を見せる。
「いや、そういう意味じゃねーんだけどなぁ。くぅー。俺も女子マネがいる野球部が良かったぜ」
二ノ瀬の言葉に、後ろについていた小柄な坊主頭の少年が驚いた様子で声を上げる。
「そっ、そんな! キャプテン。僕じゃ、駄目なんですかっ。男の僕では、キャプテンの欲望を、満足に処理できないというんですかっ?」
「――ふぇ?」
「って、おいこら。ただのマネージャーとしての仕事を、誤解させるようなに言うんじゃねーっ!」
「あらら。もしかして二ノ瀬君と、そっちの子は、そういう関係だったの?」
「おいっ。何で自分のことは鈍いのに、変なことは勘ぐるんだよっ」
「そりゃもぉ。女子ですから」
どや顔を見せる綾瀬。
「――それぐらいにしておけ」
結城がなぜかぶすっとした表情で、口をはさむ。
「そろそろ。始まるぞ」
「おっ。いよいよか」
結城の言葉に、二ノ瀬は気づいたかのように視線をグラウンドに向けた。
「……?」
綾瀬も疑問に思いつつ、試合に目を向ける。
一回の裏の攻撃の始まるところだった。マウンドには、エースナンバーを付けた、投手にしてはやや小柄な選手が立っていた。
一塁側スタンドから流れる「ルパン三世」の応援歌に合わせるかのように、小さくまとまった投球フォームから、第一球を放った。
「えっ――。速いっ」
ブラスバンドの演奏に合わせた応援と手拍子に聞き入っていた綾瀬は、思わず声を漏らしてしまった。
ストレートの伸びが半端ない。しかもあのフォームだと、球の出所も見難そうで、打者目線で考えると、バックネット裏で見ているよりずっと早く感じるかもしれない。
綾瀬はノートに目を落として、名前を確認する。市立冨士田の山岡。ノーマークだった。
結城と二ノ瀬がわざわざ見に来たのは、試合というより彼を見に来たのだろうか。
そんな綾瀬の視線に応えるように、二ノ瀬がにやりと笑う。
「山岡も、俺や結城と同じ中学だったんだ。家庭の事情ってやつで、中学で野球をやめたって聞いていたけれど、こうやって最後の夏に戻ってきたな」
「同中?」
「あぁ。俺がサードで、二ノ瀬がセンター。で、あの山岡がピッチャー」
「えっ? 二ノ瀬くんが投手やってたんじゃなかったの?」
三年前の話とはいえ、プロも注目する、本格左腕の二ノ瀬をセンターに押しのけて投手をやっていた。それだけで彼の実力を推し量ることができた。
ストレート三球で、見逃しの三振。
そのテンポの良い投球に、観客からもため息のような歓声とざわめきが起きた。まったくノーマークだった投手が、少なくともいまこのスタジアムにいるものにとっては、只者でなくなっているのは間違いないなかった。
「……相変わらずだな」
「あぁ」
ちらりと顔を合わせる結城と二ノ瀬。
二人の表情は、いつの間にか、すでにライバルを見る瞳に代わっていた。
山岡は次の打者も直球で押して、危なげなく内野ゴロに打ち取った。
二ノ瀬がふぅっと軽く息を吐いて、ぽつりとつぶやく。
「……どうやら、次の試合が事実上の準決勝になりそうだな」
「準決勝? それを言うなら、決勝だろ」
そう言う結城に、二ノ瀬がにやりと笑って切り返す。
「ちげーよ。優勝するのは、ウチだから」
そう言ってから、ふと気づいたかのように、あたりを見まわす。
「ん? そういえば、杉小路は?」
大塚学院付属のメンバーは三人いたはずなのに、そのうちの一人の姿がいつの間にか消えていた。
「スギ先輩なら、もうあっちの席で観戦してますよ」
「おおっ。あのメガネ、いつの間に!」
二ノ瀬が驚いた様子を見せる。
「それじゃ、次の戦いせいぜい頑張れよ」
「お前と対戦するのは――俺だ。秋の借りを返さなくちゃいけないからな」
「へへっ。ま、俺っちとしては、どっちでもいいんだけどね」
「先輩、早くいきましょう。立ち話していると、他のお客さんに迷惑です」
「お、そうだな。それじゃ、お二人さん」
「あぁ、次会う時は、グラウンドでな」
軽くあいさつを交わし、二ノ瀬と後輩マネージャーはメガネをかけた男子生徒が待つ席へと向かっていった。
あっという間に、一回の裏の攻撃は終わった。三者凡退である。
結城がちらりと綾瀬に目を向ける。彼女は、険しい顔をして俯いていた。
そんな彼女をフォローするかのように、結城が声をかける。
「ま、確かにいいピッチャーだが、ブランクもあるし、そもそもあいつを打てないようなら、二ノ瀬にだって……」
「ううっ。こんだけテンポが良いと、山家学園の応援がじっくり聴けそうにないーっ」
「――そっちかよっ?」
綾瀬が言いそうなこととはいえ、結城は思わず突っ込んでしまった。まぁ、彼女にとっては、一大事なのだろう。
結城は、はぁと大きくため息をついた後、軽く咳払いをして続ける。
「だったら……俺が連れてってやるよ。山家よりずっとレベルの高い、全国のブラスバンドが集まる甲子――」
「――ちょっと、うるさい。黙ってっ」
せっかく、無理して恰好よく決めるつもりだったセリフを綾瀬にぴしゃりと言い放たれて止められてしまい、結城は固まってしまった。
唖然とする結城をよそに、これから攻撃が始まる三塁側アルプスでは、管楽器の音が鳴り止み、ゆっくりと生徒たちの歌声だけが響き渡る。
その声が、青く澄み渡った空に消えていったと同時に、ハイテンポの演奏が再開され、それに乗って、生徒たちの応援が、さらに熱くなっていく。
「夏祭り、来たーっ!」
「……はぁ」
結城はもう突っ込まなかった。
「結城」
「――なんだよ?」
「期待してるよ、甲子園」
「おぅ」
真っ青な空に、快音が響き渡る。
彼らの夏は、始まったばかりだ。
続きません。