慈雨
灰に染まった一天が、皇国の地に灰の雨を降らす準備を始めていた。
西の空に浮かんでいた太陽は、既に雲がその姿を隠した。
時刻は夕方。どんよりとした空が平生の夕焼けを覆い隠し、薄暗い空を皇国の頭上に広げている。
「2じゃ。いちいち霊薬だの霊石なんぞ探していられるか」
サルスの代わりにクダ様が答えた。
「術者を倒す、と」
目を細めるヒナノ。見るからに不機嫌そうな表情を浮かべる。
「そうとも。じゃろう、糧よ。貴様もワガハイと同じく2を選ぶだろう?」
「……」
無言でサルスは頷く。
――ああ、凡慮。
ヒナノは幻滅の表情を浮かべる。彼女は落胆を露わにしていた。
彼女は言う。
「ならば、止めねばなりません。
わたくし達は、エルレアを守りたいのですから」
敬称は、もう付けなかった。
ヒナノは、鋭い目を、サルスに向ける。そこに含まれるのは、敵意のみ。
と。
ポツリ、と最初の一滴が触れる。
そこはクダ様の先端部分、L字に折れ曲がっている個所だった。
次いで、ポツポツと滴が落ち始める。
雨が、降り始めた。
絹糸のように細々とした、霧のような雨が。
サルスは無表情に、降りしきる雨を眺める。
「ちょうど、良い頃合いに降りだしましたわね」
時機は来た。
そう、ヒナノは心中で笑う。
灰の魔導素子が、皇国に充満する時間帯がやってきた。
霧雨という、彼女達にとってもっとも都合のよい降り方となって。
雨粒が内包する灰の魔導素子が、地面に弾けて霧散する。微弱な魔導素子が、その一粒一粒に含まれている。ひとつひとつは微かだが、それが何千何万粒も皇国の地を打ち、巨と化して皇国の人間を呪う。
「ふふ、これは前哨戦ですの……。
来る戦い、来る決戦への、肩慣らしと言ったところかしら。
万全では、ありませんけれども」
言って、ヒナノはおもむろに首を振る。
閑雅な笑みを、その面に浮かべ。
「コルニクス――今は“詠”へと戻りなさい」
ヒナノの言葉の意図を察し、コルニクスは静かに頷く。
魔導符号のみならず、原本符牒の使用をヒナノは促した。
「わたくしも、今は“舞雛”と名乗りましょう」
ヒナノもまた、舞雛へと戻る。彼女も詠と同様に、原本符牒を扱うことにした。
それは、つまり――
「本日は、生憎の雨にて。
このままでは、髪も、服も、濡れてしまいますわね。お風呂が、待ち遠しい限り」
しめやかに降る雨の下、舞雛は寂とした声で言う。
「わたくし、霧雨に降られると、必ず懐かしく悲しい心持になりますの」
密やかなその声色には、懐郷が滲んでいた。
彼女の故郷は過去にある。過ぎ去ってしまったから、もう戻ることは不可能だった。
「世界が敵だらけになり、数少ない味方達とともに戦い続けた日々。
何度、終幕を願ったことか。
どのような形であれども、終わりが訪れるのをただ待ち続けました。
そして、その願いは叶えられました。
死という最期を、天使達は賜ってくださりやがりましたの。
霧中に、彼女達は斃れたのですわ」
皮肉にも、名の一部であった霧の中が彼女達の墓場となった。
「これはすべて、むかしむかしのお話でございます」
コルニクス――詠が、双刀に桔梗をまとわせる。
彼女は、再度の戦闘準備を終えた。いつでも、双刀を振るわせられる。
「詠、わたくしに続けなさい」
舞雛は、詠に促した。
「我が原本、《曙光/》に希いますわ」
「原本、《烏有少女/》に希う」
舞雛が言い、詠がそれに倣う。
「か、糧よ……!」
慄くクダ様の声。
「あ、アレを唱えさせてはならん! 絶対にならんぞ!!」
たまりかねてクダ様は叫んだ。
舞雛と詠の符牒を味わい、クダ様は悪寒が走る己を自覚したのである。
彼女達がこれからすることなど、クダ様には分かりっこない。けれど、けれども、それが自分達にとって不利極まりないなにかであることは直感できた。
故に、サルスに命じた。
「止めるのじゃあッ!!」
サルスは、弾けたように駆けだす。と共に、剣を唱える。
だが、遅かった。
「《霧戯の――姫君》」
符牒は成った。
空間は歪み、虚無から霧が現出する。
濃霧が、サルスの視界を覆う。
サルスの眺める世界を、霧がかき消す。
サルスの身体から射出された暗赤の刃は、霧に阻まれ消滅する。
その霧にとって、サルスの魔導素子など相手にもならなかった。
相手にとって不都合な霧を、相手を中心として広範に展開する。
天恵同士だからこそ織り成せる、攻撃性の幻想。
「……」
サルスは、相変わらずの無言。
「なにも、見えぬ……」
クダ様のぼやきが、霧の世界に響いた。
「わたくし達は、必死なのですわ」
舞雛と詠の姿は霧中に消え、その声だけが何処かより聞こえてくる。
「あなたに勝つことに。
勝ち、エルレアを守ることに。
ですから、あなたも必死になってくださいませ。
サルス・サルヴァ。
古い古い、お傀儡さん」
幻想じみた濃霧の、どこともしれぬ方角から、寂々とした舞雛の声が届く。
「とくとご覧あれ。“霧姫”の戦いを――」
過去の残滓が、二人。
サルスの前に立ちはだかってきた。
「ご覧あれ、と言われても、これでは見えぬではないかっ……」
ぽつりと、クダ様が不満げに呟く。
その音は、真白の濃霧に、吸い込まれるように消えていった。




