選択
あえて、彼女は正式名称を使わなかった。古く局所的な呼び名を用いた。
その森は暗く生い茂り、天から降り注ぐ光を拒絶したという。真っ暗闇の、樹の海。そのため、周辺に住んでいた人間達は、その森を指して〈太陽のない森〉と呼んだそうである。
この知識もまた、皇都中枢にある書庫から得たものだった。
希少性はCと低い。
昔の、それも一部地域に住んでいた人間達限定の呼称など、興味を持つ者が少ないためであろう。情報の価値が低いため、結果として希少性も低くカテゴライズされてしまう。反して、多くの者が求める情報はそれだけ有用と判断され、希少性は高いものと見なされ、より秘匿的に保管されることとなる。
情報の希少性、価値、隠匿すべきか否か、その情報を知っても差し支えのない者は誰か、その記録を知られてはならない者は誰か。
全て、書庫の最奥部に悠々と座する記録管理人を始めとする皇国の上層部の者達が決定づける事柄である。彼らは往々にして、サルスやエクエストのような“知ったが故に”、“出会ったが故に”皇国と敵対することになった者を出さないように警戒しているのである。
◇
〈太陽のない森〉
今のサルスにとって、その単語は初めて聞くものだった。
「鬱蒼と生い茂る森ですの。名の通り、森の中に一歩踏み入ったならば、しばらくは太陽の光を拝めないほどに真っ暗。スェグナの防壁の近辺に広がり、終の戦跡とも近い。
約束しますわ。その森に着く前と後、わたくし達はあなたに一切の手出しをしないことを。
ただ、ひとつ条件がありますの。
〈太陽のない森〉に着くまでの間、お話しましょう。……ね?」
なぜ、とサルスは疑わしげに眉をひそめる。
どうして、そのような提案をする。今、この場で。あまりにも似つかわしくないこの戦闘の舞台で。
数秒、ヒナノは黙った。サルスからの返事を聞くための沈黙。
だが、サルスは黙ったきりだった。
ヒナノは再び話しだす。
「そちらにとっても、都合が良いのではなくて?
逃走するのも結構ですが、その場合コルニクスが果てまで追いかけることになりますわよ。
ここでわたくし達二人を同時に相手取るとしても、果たしてあなたに勝利はあるのかしら」
言って、ひとつ間を置き、ヒナノは再三話し出した。
「あるのでしょうね……いえ、きっとあるにきまっていますわ。わたくし達は敗北を楽観視できない立場に、ある。それどころか、いっそのこと勝利は絶望的なのかもしれません。
なにせ相手は、“古い方々”なのですから。
エルレアさんやエクエストと同類の、わたくし達魔導人形から見た上ですら化け物のような方達なのですから」
はあ、と余裕綽々とばかりにヒナノは肩をすくめる。
とても、勝利を絶望視する者の仕草ではなかった。
「化け物などという評価に、不快を覚えられたのなら申し訳ありません。ただ、わたくし達はあなた方をそうとしか形容できない程に怖れているのですわ。
古い方々。中でも最初期の魔導人形とされる、
サルス・サルヴァ、
エクエスト・キニスミセリ、
エルレア・アウィスカ。
AM博士と天使達に見守られる中で目を覚ました、あなた方三人を」
少しも怖れる様子を見せず、彼女は更に話を続ける。
「天使……?」
観衆の一人である男が言う。湿気を帯び始めた空気を、かすかに警戒しながら。彼は脳の奥が疼いた。
「空想でしょ」
観衆の一人である女がおどけた様子で言う。口ではウソだと言いつつも、その者はしっかりと脳裏に天使の像を描いていた。彼女は雲行きが怪しくなり始めた空を、ちらと仰ぐ。脳の奥が疼いた。
「……スェグナか」
観衆の一人である老人が言う。彼は〈スェグナの教典〉の存在を、その長い人生の中で知っていた。知りつつも、興味を抱かなかった。本能が無意識のうちに〈スェグナの教典〉を忌避していた。
まるで、その教典を読んでしまった時、自分が自分たることを止めるとでも言うかのように。
老人は、脳髄の奥に潜む自らの本質が疼いていることを自覚した。
空は、曇天へと移り変わった。
「……」
観衆の一人に紛れるロアは、うずうずしていた。
今、ここにいる“人間”達の脳髄に鎮座する原本は、きっと〈天使〉という単語に共鳴していることだろう。
ひとこと、自分がたったひとことを発すれば、彼らは自らを取り戻すことになる。
言えば、面白いことになる。きっと面白いことになる。
言うまいか、どうしようか。
悩んだ末、ロアは言わないことに決める。
鴉が、鋭利な殺意を宿した視線で自分を見ていたために。
その符牒を放った瞬間、双刀を翻してあの偽在の“消えぞこない”はロアの首を刎ね飛ばそうと風のように駆けることだろう。それは、ロアにとって別にどうでも良いことだった。首を刎ねられたぐらいでは死なないからだ。
ただ、そうなってしまえば、サルスは、彼は、間違いなく“ボク”を知る。
それは、ロアにとって少し困ることだった。
サルスに自分の正体を隠すため、ロアはだんまりを決め込み、一観衆として面白おかしく事態を観察することに決めた。
“人間”の、“人間”の、《人間》の、彼らの視線を、ヒナノは浴びる。
もはや一人舞台だった。衆目を集めて、ヒナノは気品を窺わせる声で言う。
「現象と慈悲、閉鎖の基底符を与えられ、初代皇帝が国を興さんと旗を上げた時にはすでに、あなた方三人はその傍らにいらっしゃいました。
こうして、魔導人形は人々の前に現れましたの。魔導符号を用いる、人の姿を模るお人形さん達。幻想の住人のようなあなた方は、その時点ですでに“最強”だった。人間などよりも遥かに強大な存在だった。
妨げる者は暗赤と灰が一人残らず葬り去って、抵抗の凶弾は青が防ぐ。
そのようにして、あなた方は人間に対して恐怖を刻んだ。
弱小だった皇国は、いつしか常勝不敗の大国へと成長した。
そして紆余曲折を経て、現在に至りますわ。
あなたはそれを、憶えていらして?」
問いかけるように、ヒナノは首を傾げる。
「……」
「きっと、分からない筈ですわ。あなたの記憶は閉鎖されたのですから」
過去の想起を邪魔する、青い障壁。
それにより、アリスやヨマは他人となった。
「エルレアが、やったのか……」
サルスは言う。彼は、半ば確信していた。
エルレアという、声や姿かたちの分からない、それこそ名前しか出てこない魔導人形により記憶が閉ざされてしまった。自らは、彼女の魔導符号にかかっている状態にある、と。
「もしも術をかけられた者がいるならば、解除する方法は二つありますわ」
サルスの言葉には答えず、ヒナノは彼が取れるであろう二つの選択肢を提示する。さながら、RPGにおけるイベントで、無事に完了させる手段を助言する端役のように。
「1、万能の霊薬なり秘術なりで解除する」
平和的解決。もっとも、そのようなものが存在するのかは誰も知らない。
「2、術者を倒す」
暴力的解決。もっとも、ヒナノはこちらを選ばせる気はさらさらない。
「どちらになさいます? お好きな方をご選択なさりますよう、お願いいたしますわ」
もうすでに、“お話”は始まっている。
ヒナノはただ、時間を稼ぐつもりだった。
観衆はどんよりとした空を眺め、次々に踵を返し始める。
家に閉じこもり、一時の避難をするのである。
やがて、雨が降る。
灰の雨が。




