鉄の奴隷
全ての縁は、忘却の彼方に置き去られた。
◇
昼も半ばを過ぎた時分、賑わう路上を歩む一人の少女がいた。確固たる足取りで彼女は目的地に向かい堂々と進む。前方に確と目を遣り、それ以外には目もくれない。
道の端では、ボロきれを纏ったゴロツキ達が何事かをがなり立てている。大方、酒を要求しているのだろう。片手に空き瓶を持ち、フラフラヨロヨロと千鳥足。掃き溜めに身体を突っ込んでスヤスヤと眠っている者や、ニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべ舐め回すような視線を少女に送る者もいる。
下らない、と少女は思う。本当に、不潔な場所。
少女――アリス・アーヴァリディにとって、このバスエという汚らしい街は無価値だった。皇都近郊にある廃墟近くに存在するこの街は、皇国のゴミ溜めと疎まれている。
不良、ゴロツキ、人さらいなどなど。犯罪者ばかりがいる街、とアリスは母に聞かされていた。だから、絶対に近付かないように、とも。
もっとも、皇国の兵士達が常に目を光らせているから、この街のならず者達は目立った行動が出来ずにいるのよ、と学友は言っていた。だからといって他の場所にたむろするわけにもいかず、彼らはこの廃墟近くの寂れた荒野にずっと住んでいるらしい。
自由に暮らせているように見せかけて、実際は日常的に監視されている街。いわば牢獄のようなものなのだ。この、バスエ街は。
そう考えると、少し哀れに思えてしまう。
アリスがこの牢獄じみた街を訪れることになった経緯は、バスエ街にある一軒の情報屋の話を道化から聞いたからである。
『バスエに、一軒の情報屋があるのです。見栄えはそこはかとなく悪いところですが、扱う情報の質は一級ですよ、アリスお嬢様。
お嬢様が恋焦がれる愛しのサルヴァ様の情報も、そこでなら得られることだと思います。ただ、いかがわしいお店も兼ねていますから、どうか連れ去られないようにお気を付けくださいませ。
もしお嬢様が隷属の徒に堕ちてしまえば、私は哀しみの詩を詠む日々を送ることでしょう。どうか私の精神衛生の為にも、五体満足純潔純心初でネンネな生娘のままでお戻りくださいますよう』
このようなことを、あのやたらお喋りな道化がヘラヘラと言っていたのである。あの、人を小馬鹿にしたような笑みを常に浮かべるピエロ女の……いけない、腹が立ってきた。
少女は首を振り、頭に描かれたイメージを打ち消す。そして、
(とにかく、今は情報収集あるのみよ)
と意気込んだ。
◇
歩き続け、アリスは一軒のボロ家に到着した。
看板には〈Iのお店〉と書かれている。
ここだ、とアリスは思う。ここが、あの道化の言っていた情報屋なのだろう。
ここならば、得られるかもしれない。彼についての何かしらを掴める可能性があるのだ。その足取りを、その消息を、ひょっとすると、もしかすれば――――
期待に胸が膨らむのを感じる。
彼の姿を再びこの目に映せることが、たまらなく嬉しかった。
(……でもまだ、見つかると決まったわけじゃないっ)
いけない、とアリスは首を振る。期待が大きければ大きい程、落胆もまた大きいのである。あまり望み過ぎないように、と少女は自制した。ともすれば望み過ぎるきらいがあるのだ、自分は。
とにかく、とにかく今は彼について集められるだけの情報を集めなければ。
「ふう……」
気持ちを落ち着かせる為に一息。昂る感情を抑圧する。
アリスはノブに手をかけ、手首を捻る。ガチャリと回った。鍵はかかっていないようだ。微かに力を込め、少女は扉を手前に引く。
ギイイ、と蝶つがいが錆びれた悲鳴を上げる。
店の中は薄暗く、天井に橙色の灯りがポツリとついているのみだった。
今どき珍しい電気仕掛けの灯り。昨今の皇国内では、魔導素子を用いた灯りが主流である。どうやらこの街は保守的なよう。それとも、単に魔導技術が入っていないだけか。
「いらっしゃい」
店の奥のカウンターに、一人の男が退屈そうに頬杖をついていた。ここの店主だろう。
アリスはつかつかとカウンターまで歩む。
古くなっているのか、ギシギシと床板が喘ぐ。
カウンターのところまで来ると、少女は店主の目の前、木製の会計盆の上にひとつの小袋を置いた。ジャラリという音が店内に響く。そして少女は澄んだ声で言う。
「ソイについての情報を、ありったけ頂戴」
ソイ。彼は、この辺りの人達にそう呼ばれているらしいから。
「ああん?」
店主は眉をひそめ、置かれた小袋をひっくり返す。途端、ジャラジャラと黄金色の硬貨が続々とこぼれ落ちる。
「おお……!?」
目を丸くする店主。大量の金貨に彼は圧倒されたのである。ひとつも銀が混じっておらず、ましてや銅の姿などちらとも見受けられない。
上客だ、と店主は心中で歓喜した。
「ずいぶん羽振りが良いねえ、嬢ちゃん」
人が変わったように愛想よく、猫撫で声で店主は言う。
「ソイについての情報次第では、更に出せるわ」
「ほお……! そいつぁ、おじさんも頑張って情報を搾り出しちゃわないとなあ」
少女はふん、と鼻を鳴らす。下らないという気持ちがありありと表情に出ていた。
クソ生意気なガキだ、と店主は思う。思うだけだった。口には出さない。
せっかくの“よいお客様”なのだから、絞り取れるだけ金を絞り取ってやろうと彼は考えたのである。
「ソイの野郎についてなら、いろーんな情報がある。ああでもその前に、ひとつ気を付けないといけないことをおじさんが教えておいてあげよう」
「なに?」
「鉄隷のソイと、奴が呼ばれているのは知ってるな?」
「ええ。そのくらいなら」
彼がサルヴァではなく、鉄隷などという呼び名で近辺の住人達に通っていることを、少女は予め調べていた。けれどもそれがなにをもって鉄隷という名になってしまったのか、その詳しいところは知らない。
鉄の奴隷だから、鉄隷なのかな。という憶測の域を出ない推測しかできないでいた。
「じゃあ、奴がとんでもなく怨まれているのは、どうだ?」
「うん、知ってる。……なんでかは、知らないけど」
人々が彼に吐く恨み言を聞くたびに、少女は心悲しくなった。
そんな人じゃない、と何度も叫びそうになった。幸い、と言うべきか、彼女が叫びそうになる度におつきの道化女がニヤニヤしながら止めに入ったので、トラブルなどはそんなに起こしていない。
「気をつけなきゃならないということは、そのことだ。この辺りの奴らに、鉄隷なんて単語も、ソイなんて名前も出さない方が良いぜ」
「どうして?」
「その単語を聞いただけで、正気じゃなくなるほどキレちまうのさ。
もはや禁句だ。あの野郎を殺したくて殺したくてたまらない連中は世界中にうじゃうじゃといるんだよ。奴の仲間だと勘違いされて殺されたくないだろう? だから、他の連中に奴のことを聞くのは止めときな」
サルヴァは怨まれるような人間じゃない。そう、アリスは頭に血が上るのを感じた。
少なくとも自分と会ってくれていた頃の彼は、とても他人から憎まれ、殺意を向けられるほどに害ある人間とは思えなかった。思いたくなかった。
そんな少女の想いを余所に、店主は言葉を続ける。
「おっと。そんな怖い顔をしないでくれよ、お嬢ちゃん。俺は例外さ。
俺は別に、ソイの野郎に対してなんの怨みも持っちゃいねえ。むしろ感謝してるぐらいさ。なんせ、お嬢ちゃんみたいにソイの情報を高く買ってくれる輩がたくさんいるもんでね。まあでも、俺の記憶の限りでは、お嬢ちゃんも例外だな」
「例外?」
「おう、れーがい。ソイの情報を買っていく奴らはみんな殺気立っていたからな。
身を武装した奴らばっかりさ。聞けば、ソイには懸賞金もかかってるんだとよ。そんなもんで、金目的だったり、正義は我らにありとかいうお目出度い頭だったり、単純な私怨とかだったりで、ソイの野郎は狙われてるわけよ。
ああ、あと、同士狩りをしてるって話も聞くな」
「なんで、そんなことを」
無口であんまり話さなくて、とても他人に対して暴力を行うような人には見えなかったのに。アリスの記憶に佇む彼は、とにかく静かで、落ち着いた人だった。
「それがな、どうにもソイの奴は、呪われているらしい」
「呪われ……」
それなら納得ができる。何者かが彼を呪い、支配したための変貌。
ならば彼は悪人ではない。彼自身の意思では、なにも悪事を働いていないことになる。少女は、彼が呪われているという可能性に縋った。
「その、呪っている奴というのが、また――」
突然、耳をつんざくような轟音が響いた。
ドオオオンという、なにかが爆発したかのような音。
「ッ!? なんだ! おいてめえら! なにがあった!」
誰かへ怒鳴り散らしながら店主は店の奥へとその姿を消す。
アリスは呆然と立ち竦む。そして、その耳にひとつの単語が届く。
「鉄隷が現れやがっただと!?」
鉄隷。呪われたと思わしき、少女にとって大切な人間に属する男。
「相手は誰だ! 誰をターゲットにしてやがるんだ!」
振り返り、弾けたようにアリスは駆けだした。
押しのけるように扉を開き、外へと飛び出す。路上では人々がこぞってどこかへ向かおうとしていた。皆口々に、「鉄隷」が「特武のヤツと」などと話している。
彼らの後についていけば、恐らくは辿り着く。
彼と、ようやく会える。
アリスは蠢く群衆の後に続いた。
金貨は忘れた。
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6/14 サブタイトルの変更と一部の文章の改訂を行いました。