醜さの自覚
夜はいつも私のテーマです。なので始まり方は似通っているかもしれません。
夜になると、街は急に静かになる。昼間あれほど騒がしく、笑い声や車の音で満ちていたはずなのに、深夜二時を過ぎるころには、世界そのものが呼吸を潜めてしまったように感じる。私はその静寂の中で、よく一人考える。
人とはなんて醜い生き物なのだろう、と。
窓の外では、街灯が雨上がりのアスファルトをぼんやり照らしている。水たまりに映った光は歪んでいて、まるで人間そのものみたいだった。表面だけは綺麗でも、少し揺れれば簡単に形を失う。
最近、私は人と話すたびに疲れてしまう。
誰かが誰かを見下し、陰で笑い、失敗を待ち望んでいる。まるで他人の不幸が、自分の価値を証明する材料になるかのように。教室でも、職場でも、SNSでもそうだ。人は驚くほど簡単に他人を傷つける。そしてもっと恐ろしいのは、そのことに慣れてしまっている人間が多すぎることだった。
この前も、教室の隅で誰かの悪口が飛び交っていた。
「あいつ、ほんと無理だよね」
「ていうか、いるだけで空気悪くなる」
笑い声が重なる。まるで雑談でもしているみたいに軽かった。
私は少し離れた席で、それを聞いていた。止めることもできず、かといって一緒に笑うこともできず、ただ曖昧に視線を落としていた。
そのとき、自分の沈黙まで醜く思えた。
私はその輪に入れなかった。いや、入らなかったというより、どうしても入れなかったのだ。誰かを嫌うことはある。腹が立つことだってある。けれど、その人をわざわざ傷つける言葉に変える意味が、どうしても分からなかった。
悪口を言えば、自分の心まで濁っていく気がした。
だが世の中には、それを平然とできる人がいる。むしろ悪意を共有することで、仲間意識を深めているようにさえ見える。笑いながら誰かを切り刻む姿は、時々ひどく異様だった。
私はふと、「これが教養の差なのだろうか」と考える。
けれど、そう簡単に片付けてしまうのも違う気がした。
家庭環境。育ち方。与えられた愛情。きっと人は、自分では選べないものに大きく形作られている。怒鳴り声の絶えない家で育った人もいるだろう。誰にも優しくされずに生きてきた人もいるかもしれない。そういう人間が、他人への接し方を知らないまま大人になることは、決して不思議ではない。
だが、それでも。
それでもなお、優しい人はいるのだ。
傷だらけなのに、他人を傷つけない人がいる。苦しい過去を抱えながら、それでも誰かに微笑みかける人がいる。だから私は、「環境のせいだから仕方ない」という言葉だけでは納得できなかった。
結局、人はどこかで選んでいるのではないだろうか。
自分の痛みを他人へ流すのか。それとも、自分の中で止めようとするのか。
もちろん、そんなことは簡単ではない。人は弱い。私だって、心の中では誰かを嫌いになることがある。醜い感情が湧き上がる夜もある。聖人みたいに綺麗な心で生きられるほど、人間は完成された生き物じゃない。
けれど、だからこそ思うのだ。
せめて、自分の醜さを自覚している人間でありたい、と。
自分だけは正しいなどと思った瞬間、人はきっと怪物になる。他人を裁き、傷つけ、そのことに鈍感になっていく。人間の怖さは、そこにある気がした。
雨がまた降り始めていた。
窓ガラスを伝う雫を眺めながら、私は小さく息を吐く。世の中は綺麗なものばかりではない。むしろ汚れた感情の方が、ずっと多いのかもしれない。
それでも時々、とても優しい人に出会うことがある。
コンビニで「ありがとうございました」と微笑む店員。誰も見ていない場所で落ちたゴミを拾う人。傷ついている誰かに、黙って寄り添える人。
そういう人を見るたび、私はまだ人間を嫌いになりきれない。
醜さの中に、ほんの少しだけ光が混ざっている。
たぶん人という生き物は、その微かな光だけで、なんとか世界に踏みとどまっているのだ。
最近は性根が腐っている人が多いように感じます。




