第八話 話がある、と言ったはずなんですが
「カレン、今夜は話がある」
夕食の席。
食器が触れ合う微かな音が途切れた瞬間を見計らい、ルーファスは意を決してその言葉を口にした。
母マリアンヌからの忠告が、頭蓋の裏側に張り付いて離れない。
嘘の上に関係は築けない。
その通りだ。このまま偽りを重ねた先に待っているのは、破滅と軽蔑だけだろう。
正直に言わなければならない。
今日こそ、全ての虚飾を剥ぎ取り、ありのままを打ち明けるのだ。
ルーファスは己を鼓舞した。
「話、ですか」
カレンが淡々と答える。
その声には何の感情も乗っていない。
事実を確認するだけの、冷ややかな響きだ。
「ああ。食後に二人で」
「わかりました」
妻の視線があまりにも冷静で、喉の奥が引きつる。
射抜かれるような感覚に、心臓が物理的に縮み上がる思いがした。
◇
食後のとばりが下り、場所を居間へと移す。
暖炉の中で薪が爆ぜ、揺らめく炎が二人の影を壁に長く伸ばしていた。
使用人たちを下がらせた空間には重苦しい沈黙と、パチパチという燃焼音だけが満ちている。
「それで、話とは何ですか?」
カレンがソファに座り、姿勢を正して彼を見つめる。
逃げ場のない法廷が開かれた気分だ。
「ああ……その前に」
喉が張り付いて声が出ない。
潤滑油が必要だった。
ルーファスはサイドテーブルに置かれたワインのデキャンタに、救いを求めるように手を伸ばす。
「一杯だけ……いや、少しだけ飲んでもいいだろうか?」
「どうぞ」
許可を得て、グラスに赤黒い液体を注ぐ。
一気に煽った。
芳醇な香りを味わう余裕などない。
液体が食道を焼きながら胃の腑へと落ちていく感覚だけが、生々しく感じられる。
喉の渇きは癒えない。
いや、渇いているのは喉ではなく、勇気の方だ。
もう一杯。
まだ言葉が出てこない。舌が重い。思考がまとまらない。
三杯目。
注ぐ手つきが少し乱暴になる。
「……ルーファス様」
咎めるような声が飛んでくる。
「もう少しだけ」
四杯目。
グラスの縁から少し零れたが、構わずに飲み干す。
視界の端がぐにゃりと歪み始めた。
世界が少しだけ曖昧になり、ようやく恐怖という名の輪郭がぼやけ始める。
「あの」
「んー……」
五杯目を注ごうとした手が、空中で止まった。
重力が増したように腕が重い。
「ルーファス様。話があるんですよね?」
「ある。あるんだ」
ルーファスは瓶を置いた。
置こうとした、というのが正確だろう。
距離感が狂い、テーブルにガツンと硬質な音を立てて底がぶつかる。
中身が大きく波打ったが、奇跡的に倒れはしなかった。
「あの、カレン」
「はい」
「俺……いや、私は……」
舌が回らない。
脳内の検閲官がアルコールによって職務放棄をしているようだ。
「俺、で構いませんよ。それで?」
「俺さ……」
ルーファスはぼんやりとした視線をカレンに向けた。
暖炉の暖かな灯りに照らされた妻の顔。
いつもならその冷徹な表情に胃を痛めるところだが、今の彼の目にはそれがやけに神秘的で、美しく映った。揺れる炎が彼女の瞳の中に星を宿している。
「お前って……綺麗だよな……」
思考を経由せず、本音が口をついて出た。
「は?」
素っ頓狂な声が返る。
「いや、前から思ってたんだけど……目とか、すごく綺麗……」
「……話というのは、それですか?」
「違う……違うんだけど……」
否定しながら、身体がふらりと揺れた。
重力に引かれるままに立ち上がり、ふらつく足取りでソファへ近づく。
そのままカレンの隣、パーソナルスペースを完全に無視した距離に座り直した。
近い。
彼女の香りが鼻腔をくすぐる距離だ。
「ちょっと、近いんですが」
拒絶の声も、今の彼には心地よいBGMのようにしか聞こえない。
「カレン」
「何ですか」
「俺……お前のこと……」
熱を持った手が、無意識にカレンの手を求めた。
白く細い指を包み込む。
冷たくて、気持ちがいい。
「好き……だと思う……」
「……は?」
「いや、わかんないけど……でも、気になる……」
論理もへったくれもない。
胸の奥で燻っていた感情の断片が、アルコールの奔流に乗って溢れ出しただけだ。
「酔ってますよね?」
冷静な指摘。
「酔ってない。酔ってないぞ」
子供のような言い訳をしつつ、視点は定まっていない。
瞼が重い。
世界が心地よく回転している。
明らかに泥酔状態だ。
瞳はとろんと濁り、焦点は虚空を結んでいる。
「カレン……俺、ほんとはさ……」
「ほんとは?」
「ほんとは……」
意識が急速に遠のいていく。
言わなければならないことがあったはずだ。
重大な秘密。嘘。謝罪。愛。
言葉の断片が脳裏をかすめるが、強烈な睡魔という黒い波が全てを飲み込んでいく。
ルーファスの頭がカクンと揺れ、ゆっくりと重力に従った。
カレンの華奢な肩に、ずしりとした重みが落ちる。
「………………」
規則正しい、安らかな寝息が聞こえ始めた。
「……話があるんじゃなかったんですか」
返事はない。
ただ、寝息だけが返答の代わりに繰り返される。
カレンは夫の重みを左肩に感じながら、呆れたように天井を仰いだ。
暖炉の光が天井に不規則な影絵を作っている。
「……はあ」
深いため息が一つ漏れた。
このままにしておくわけにもいかない。
彼女はベルを鳴らし、駆けつけた使用人たちに指示を出して、泥のように眠るルーファスを寝室へと運ばせた。
ルーファスが運び出された後、カレンは一人、静寂が戻った居間に残る。
ソファに座り直し、自分の右手を見つめた。
大きく、熱く、そして無骨に握られた手の感触。
その熱が、まだ皮膚の上に残留しているような気がした。
「……好き、ですか」
誰に聞かせるでもなく呟き、即座に首を横に振る。
「酔っ払いの戯言はデータに含めません」
自分に言い聞かせるように断言し、立ち上がった。
感情という不確定な要素を排除して論理の鎧を纏い直す。
彼女は、背筋を伸ばして自室へと戻っていった。
翌朝のことは明日の自分に任せればいい。
被告人がシラフに戻った時こそ、真の開廷だ。
尋問の準備は、既に万端に整っている。
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「酔った勢いで言ったことには責任が伴います。覚悟してくださいね」
カレン・ベルンワード侯爵夫人




