第七話 嘘って、つき続けるの大変でしょう?
実家の応接間には、鉛のように重苦しい沈黙が澱んでいた。
壁に掛けられた古時計が時を刻む規則的な音だけが、やけに大きく鼓膜を打つ。
ルーファスは上質なベルベット張りのソファに深く身を沈めていたが、背中は緊張で強張り、座り心地の良さを享受する余裕など微塵もなかった。
逃げ出したい。
今すぐにこの場から立ち去り、どこか遠くへ姿を消してしまいたいという衝動が、胸の内で暴れ回っていた。
「それで? わざわざ新婚の身で実家に来るなんて、何かあったの?」
対面に座る母、先代侯爵夫人マリアンヌが口を開く。
彼女は優雅な仕草でティーカップを傾け、香り高い紅茶を一口含むと、ソーサーに音もなく戻した。
その所作は完璧で隙というものが一切ない。
穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その瞳は息子の心中を見透かすように鋭く光っていた。
「いえ、その、少し相談が」
しどろもどろになりながら、言葉を濁す。
「カレンさんのこと?」
「えっ」
図星を指され、思わず声が裏返った。
「違うの?」
「いや、まあ、そうですが……」
視線が定まらず、部屋の隅にある花瓶や床の絨毯の模様へと彷徨う。
何から話せばいいのか、皆目見当もつかない。
愛人がいると妻に嘘をついたこと。
その嘘が雪だるま式に膨れ上がり、もはや自分でも制御不能になっていること。
そして、その矛盾を妻であるカレンに理詰めで追い詰められ、逃げ場を失っていること。
どれもこれも、母親に話すにはあまりに情けない内容ばかりであった。
「あのね、ルーファス」
母の声色が諭すような響きを帯びる。
「あなた、昔から変わらないわね」
「何がですか」
「自信がないと、嘘をつく癖よ」
心臓が大きく跳ね上がった。ドクンという音が、自分の耳に直接響くようだ。
「な、何を」
「小さい頃もそうだったでしょう。剣術の試験が怖くて熱が出たと嘘をついたり、ダンスの練習が嫌で足を挫いたと言ったり。あの頃と同じ顔をしている」
「……それは子供の頃の」
言い訳をしようと口を開きかけたが、マリアンヌはそれを許さなかった。
彼女は単刀直入に、核心を突いてきた。
「愛人なんて、いないんでしょう?」
直球だった。
あまりにも鋭利な指摘に、思考が一瞬で凍りつく。
隠し通せていると思っていた浅はかな自信が、足元から音を立てて崩れ去っていく。
母の穏やかな微笑みが、今は恐ろしい。
ルーファスはただ呆然と目の前の人物を見つめ返すことしかできない。
それでも、乾いた喉を無理やり動かし、なんとか言葉を絞り出す。
「な、なぜそう思うんですか」
「あなたが本当に愛人を作れる器用な性格なら、そもそもこんな相談には来ないわ」
「ぐっ」
言葉に詰まった。何も言い返せない。
「図星ね」
マリアンヌは楽しげに目を細めた。
「初夜が怖かったんでしょう? 男として自信がなかった。だから愛人がいると嘘をついて、自分から遠ざけることで白い結婚に持ち込もうとした。違う?」
がっくりと項垂れる。
反論の余地など、欠片も残されていない。
この母は昔から、息子の虚勢や小さな嘘を見抜く天才なのだ。
自分の浅はかな目論見が、白日の下に晒されてしまった。
「で、カレンさんに論破されたと言ってたわね」
「はい」
蚊の鳴くような声で肯定する。
「それで結局、夫婦の契約は履行したと」
「はい」
「で、今は何に困っているの?」
「愛人がいると言った手前、もう引っ込みがつかなくて」
マリアンヌはクスクスと笑った。
その余裕のある態度は、深刻に悩むルーファスとは対照的である。
「嘘の上塗りは大変でしょう」
「本当に。毎日が綱渡りだ」
重いため息が漏れる。
「カレンさん、頭が良いものね。追い詰められているんでしょう?」
「昨日も質問攻めにされた。愛人の名前も、容姿も、何一つまともに答えられなくて」
「そりゃそうよ。存在しない人間の特徴なんて、答えられるわけがないもの」
ルーファスは両手で顔を覆った。
昨夜の悪夢のような尋問が脳裏に蘇る。
カレンの冷静な瞳、淡々とした口調、逃げ場を塞ぐ論理的な追及。
「……どうすればいいんでしょう」
救いを求めるように問いかけた。
マリアンヌは事もなげに言う。
「簡単よ。正直に言いなさい」
耳を疑った。
「そんな。今さら嘘でしたなんて」
「言えないの?」
「カレンに何と思われるか」
「何と思われると思うの?」
「軽蔑される。間違いなく」
「そうかしら」
マリアンヌは不思議そうに首を傾げた。
「あの子、あなたが思っているより器が大きいと思うわよ」
「でも」
「それに、嘘をつき続ける方がよほど軽蔑されるんじゃない? 愛人がいると偽って妻を遠ざけ、そのくせ妻に手を出して、さらに嘘を重ねている。客観的に見て、今の状況の方が最悪だと思わない?」
ぐうの音も出なかった。母の言う通りである。
今の自分は、どこからどう見ても最低な男だった。
「ねえ、ルーファス」
母の声が、少しだけ柔らかくなる。
「あなた、カレンさんのこと、どう思っているの?」
「どうって」
「嫌い?」
「いえ、嫌いでは」
即答した。嫌いなどという感情は微塵もない。
「好き?」
「それは、わからない」
「でも、気になっているのね」
「はい」
素直に頷く。彼女のことをもっと知りたい、触れたいと思っている自分がいるのは事実だった。
マリアンヌはソファから立ち上がり、息子の傍らに歩み寄るとその肩に優しく手を置いた。
その掌の温もりが強張った心身を少しだけ解きほぐしてくれる。
「だったら尚更、嘘はおやめなさい。嘘の上に関係は築けないわ。あなたが本当にカレンさんと向き合いたいなら、正直になりなさい」
「はい」
「まあ、言うタイミングは自分で決めなさいな。でも、あまり長引かせない方がいいわよ。カレンさん、そのうち全部暴いちゃうでしょうから」
母の予言めいた言葉が、背中に重くのしかかった。
カレンならば、本当にやりかねない。
いや、既に気づいていて、自白するのを待っているだけかもしれない。
そう思うと、胃のあたりがキリキリと痛み出した。
帰路につく馬車の中。
車輪が石畳を叩く規則的な音が響き、窓の外には見慣れた街並みが流れていく。
ルーファスは流れる景色を目で追いながら、思考の迷路を彷徨っていた。
正直に言おう。
言わなければならない。
理屈ではわかっている。これ以上嘘を重ねても、状況は悪化する一方だ。
わかっているのに、足がすくむ。
脳裏に、カレンのあの冷ややかな瞳が鮮明に蘇った。
『それってあなたの感想ですよね?』
『それ、矛盾してますよね?』
彼女がよく口にする、感情を排した論理的な言葉の数々。
あの氷のような視線で射抜かれ、見下ろされながら、
「実は全部嘘でした。愛人なんて最初からいませんでした」
と告白する自分を想像する。
無理かもしれない。
あの完璧な妻の前で、そんな無様な姿を晒すことなど、できるだろうか。
プライドが、恐怖が、羞恥が、渾然一体となって襲いかかってくる。
しかし、このまま嘘をつき続けることの方が、もっと無理だということも理解していた。
いつか破綻する未来が見えている。
ルーファスは深く、長く、ため息を吐き出した。
馬車の中に重苦しい空気が充満する。
意を決して、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、自分を奮い立たせる。
「覚悟、決めないとな」
呟いた言葉は、虚しく馬車の走行音にかき消された。
屋敷に戻れば、また彼女との対話が待っている。逃げることは許されない。
ルーファスは揺れる馬車に身を任せながら、来るべき審判の時に向けて、必死に心の準備を整えるのであった。
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「自分の嘘を覚えていられる人って、実は少ないんですよね」
マリアンヌ・ベルンワード先代侯爵夫人




