第六話 それ、矛盾してますよね
夕食後のひととき。
暖炉の薪が静かに爆ぜる音だけが、居間の静寂を彩っていた。
ソファに深く身を預け、本の世界に没頭しているカレン。
その対面でルーファスは落ち着かない様子で妻を伺っている。
しばらくの沈黙の後、意を決したように彼が口を開いた。
「カレン」
「はい」
視線は文字を追ったまま。淡々とした返事が戻る。
「私は……君のことをもっと知りたいと思っている」
ページをめくる指が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、無表情で夫を射抜く。
「なぜですか?」
「なぜって……夫婦なんだから、当然だろう」
その言葉に、カレンの瞳がわずかに細められた。
「当然、ですか」
ぱたん、と。
静かに本が閉じられる。
丁寧だが、明確な拒絶を孕んだ動作で膝に置くと、彼女は真正面から問いかけた。
「それは契約に必要なことですか?」
「契約とかじゃなくて……」
カレンの論理的な問いかけに、ルーファスは言葉を濁す。
感情的な答えを返すことの難しさを痛感しているようだ。
「では、なぜ急に?」
「君と過ごすうちに、気になり始めたんだ。君がどんな人なのか。何を考えているのか」
「ふうん」
小首を傾げる仕草は、まるで実験結果を精査する学者のように見える。
「それ、おかしくないですか?」
「何がだ?」
「あなたには愛人がいるんですよね?」
鋭い刃物のような指摘に、夫の顔から血の気が引いた。
「……」
「心に決めた人がいるのに、妻に興味を持つ」
カレンは間を置いて、はっきりと言った。
「それ、矛盾してますよね」
ルーファスの顔がこわばった。額に冷や汗が浮かぶ。
額に冷や汗が浮かぶ。言い訳を探すように唇が動くが、適切な言葉は見つからない。
「質問を変えます。私のことを知りたいのは、なぜですか? 愛人の方への気持ちが薄れたからですか?」
「そうじゃない!」
即座に否定するも、その声に確信は宿っていなかった。
「では、愛人がいながら妻にも興味を持つと。ただの浮気性ですよね?」
「違う!」
声を荒らげ、椅子から身を乗り出すルーファスとは対照的に、カレンは微動だにしない。
「では、どう違うんですか? 論理的に説明してください」
感情の波など皆無の瞳に見つめられ、ルーファスは言葉に詰まった。
口を開閉させるだけの夫を、妻は冷徹に観察し続ける。
やがて、容赦ない追撃が再開された。
「いいでしょう。では、私からも質問させてください」
「……何をだ」
「あなたの愛人について、です」
ごくり、と唾を飲み込む音が室内に響く。
「その方とは、どこで出会ったんですか?」
「それは……社交界で……」
「社交界。貴族の令嬢ですか?」
「いや……」
「では、どういう身分の方で?」
「……商家の……」
矢継ぎ早の質問に、答えが尻すぼみになっていく。
「商家の娘。なるほど。お名前は?」
「名前は……」
メモを取るような構えを見せるカレンに対し、ルーファスの視線が床へ落ちた。
「言えないんですか?」
「彼女の名誉のために……」
「名誉? 私は他言しませんよ。夫婦の会話ですから」
「それでも……」
「では、どんな容姿の方ですか?」
質問の矛先が変わり、一瞬だけ安堵の空気が流れる。だが、それも束の間だった。
「髪の色は? 瞳は? 背丈は?」
「えっと……」
視線が泳ぐ。必死に記憶の澱をさらっても、像は結ばれない。
「……金髪で……目は青くて……」
「この国の女性の半数に該当しますね」
「っ……」
「もっと具体的な特徴はないんですか? 愛しているなら、細部まで覚えているはずですよね?」
「それは……会ったのが少し前だから……」
「少し前? 最後に会ったのはいつですか?」
一歩も引かないカレンの追求に、ルーファスの声は蚊の鳴くようになった。
「……一年ほど前……」
「一年」
眉が跳ね上がる。信じられない、といった表情だ。
「一年も会っていない相手を、まだ愛していると?」
「心は変わらない」
「手紙のやり取りは?」
「……していない」
観念したように吐き出された答えに、カレンの声色がわずかに呆れを帯びる。
「会ってもいない、手紙も書いていない。それで愛が続いていると、どうやって確認したんですか?」
「確認って……」
「愛は双方向のものですよね? あなたが一方的に想っているだけなら、それは愛ではなく執着では?」
核心を突かれ、ルーファスは黙り込んだ。
うなだれる姿は敗北した兵士そのものだ。
カレンは立ち上がり、彼を見下ろした。
その位置関係が彼女の優位性を決定づける。
「整理しましょう。
一、あなたは一年以上愛人に会っていない。
二、手紙のやり取りもない。
三、相手の気持ちを確認していない。
四、にもかかわらず、妻より愛人を優先しようとした」
指折り数えながら、淡々と事実を列挙する。
「これ、どう考えても論理的ではありません」
「私は……ただ……」
完全に論破され、ルーファスは頭を抱えた。
「……わからなくなってきた」
「何がですか?」
「自分が何を考えているのか……」
苦悩に満ちた呟き。
自分自身の感情さえ整理がつかなくなっているようだ。
カレンは小さくため息をついた。
張り詰めていた表情が、ほんの少し緩む。
「私は別に怒らせたいわけじゃないんですよ。事実を言っているだけで——」
不意に口を噤む。自身の口調の変化に気づいたのだ。
顔を上げたルーファスの瞳に、驚きの色が浮かぶ。
「……今、何か変じゃなかったか?」
「何がですか?」
即座に無表情へ戻るが、その動きには隠しきれない動揺があった。
「いや、口調が……」
「気のせいです」
カレンは本を取り上げ、顔を隠すように開く。
「いや、絶対なんか——」
「気のせいです。はい、次の話題」
ページをめくる音が早くなり、指先がせわしない。
そして、本に隠れきらない頬はわずかに赤らんでいた。
暖炉の熱のせいではないことは、誰の目にも明らかだ。
ルーファスは初めて見た。
この完璧な妻の、小さな綻びを。
人間らしい感情の揺らぎを。
「……カレン」
呼びかける声に、温かみが宿る。
「何ですか」
「君も、完璧じゃないんだな」
「完璧な人間なんていません。それこそ、論理的に考えれば自明のことです」
相変わらずの減らず口。けれど、その声は微かに震えていた。
「そうか」
ルーファスの口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「なんだか、安心した」
「……変な人ですね」
本に視線を落としたまま呟かれた言葉は、ルーファスにだけ届く大きさだった。
部屋に静寂が戻る。
だがそれは、最初の気まずいものではない。
暖炉の火がパチパチと音を立てる中、カレンはゆっくりとページをめくる。
そんな妻の赤くなった横顔を、ルーファスは静かに眺めていた。
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「矛盾に気づいたなら、考え直すチャンスです。逃さないでくださいね」
カレン・ベルンワード侯爵夫人




