第二話 それってあなたの感想ですよね?
朝の光が寝室に差し込む頃、カレンは既に身支度を整えていた。
振り返ると、寝台の上でルーファスが枕に顔を埋めている。
その肩が小刻みに震えているのを見て、カレンは眉をひそめた。
「……ルーファス様?」
返事はない。代わりに、くぐもった嗚咽が聞こえてきた。
カレンは窓辺の椅子に腰かけ、足を組んだ。
「泣いていらっしゃるんですか?」
「っ……泣いてない……」
「いや、泣いてますよね。肩、震えてますし」
ルーファスがようやく顔を上げた。
目が真っ赤だ。鼻も赤い。完全に泣いた後の顔である。
「私は……私は最低だ……」
「はい」
「君に謝らなければ……あの人のことも……私は一体どうすれば……」
カレンは小首を傾げた。
「あの人、というのは例の『心に決めた方』のことですか?」
「……ああ」
ルーファスは寝台に座り直し、両手で顔を覆った。
その姿は、侯爵というより、失恋した少年のようだった。
「彼女には……伝えなければならない。私が君と……その、契約を履行したことを。
だが、どう伝えればいいのか……彼女を傷つけてしまう……」
「なるほど」
カレンは淡々と応じた。
「それで泣いていたと」
「私は彼女を裏切った。たとえ政略結婚だとしても、私は……」
「ちょっと待ってください」
カレンは人差し指を立てた。
「いくつか確認させてください。
その方は、あなたと結婚できる身分ではないとおっしゃっていましたよね?」
「……ああ」
「つまり、あなたがその方と結ばれて幸せになる可能性はゼロ」
「しかし、俺の心は彼女のものだ……」
「心は、ですか」
カレンは肩をすくめた。
「それってあなたの感想ですよね?」
「……は?」
「客観的事実として、あなたはその方と結婚できなかった。
そして私と結婚した。これは変えようのない現実です。
『心は彼女のもの』というのは、あなたの主観でしかありません」
「主観って……私の気持ちは本物だ!」
「本物かどうかは、私には判断できませんね。
なぜなら、あなたの内面を証明する客観的証拠がありませんから」
「証拠って……愛情に証拠なんて……」
「ええ、ですから、あなたがその方を愛しているという主張は、
証明不可能な命題なんです。
証明できないことで悩むのは、論理的に無意味ですよ」
ルーファスは口をぱくぱくさせた。
反論したいが、言葉が出てこない。
「それに」
カレンは続けた。
「仮にあなたの愛が本物だとして、それが何か問題になるんですか?」
「問題に……だって、私は君と……」
「契約を履行しました。それは両家にとって必要なことでした。
あなたの感情がどうであれ、契約は契約です。
感情と契約を混同するのは、論理的誤謬ですよ」
「だが、彼女に対して不誠実だ……」
「不誠実?」
カレンは首を傾げた。
「結婚できない相手に『心だけはあなたのもの』と言い続けることの方が、
よほど不誠実だと思いますが。
それ、相手の人生を拘束してるだけですよね?」
「っ……」
「その方には、あなた以外と幸せになる権利があります。
あなたが『心は彼女のもの』と言い続ける限り、
その方は新しい恋愛に踏み出せない。
それって、愛じゃなくて執着じゃないですか?」
ルーファスの顔色が変わった。
「私は……彼女の幸せを願っている……」
「願っているなら、解放してあげるべきでは?
あなたは結婚した。彼女も自由になるべきです。
それが、本当に相手を思いやるということじゃないですか?」
「……」
「つまり」
カレンは指を一本立てた。
「あなたが泣いているのは、彼女のためではなく、
『彼女を愛している自分』を手放したくないから。
それってつまり、自己愛ですよね?」
完全に言葉を失ったルーファスを、カレンは無表情に見つめた。
「まあ、その方への対応はあなたの自由です。
私が口出しすることではありません」
立ち上がり、ドレスの裾を整える。
「ただ、一つ言えることがあります」
「……なんだ」
「一晩で子供ができる確率は、それほど高くありません」
「え」
「統計的に言えば、妊娠までには複数回の試行が必要です。
ですから」
カレンは扉に手をかけ、振り返った。
その表情は、まるで明日の天気を告げるかのように平坦だった。
「また頑張りましょうね、ルーファス様」
「ま、待っ」
扉は静かに閉まった。
残されたルーファスは、しばらく呆然とした後、再び枕に顔を埋めた。
今度は違う理由で泣きたくなっていた。
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「泣いても現実は変わりません。変えたいなら、行動してください」
カレン・ベルンワード侯爵夫人




