第8話 試食クラブ
会社で鏡開きをやることになったのは、社長の提案だった。
正月明けの朝礼で、突然だった。
「せっかくですから、お汁粉を準備しました。三時に会議室へ」
“せっかく”の定義は、いつも社長の中にだけある。
業務予定表に、お汁粉が割り込んだ。
午後三時。
会議室に紙コップと割り箸が並ぶ。
大鍋を前に、社長が少し誇らしげに言った。
「たくさん作りました。遠慮なくどうぞ」
甘い湯気が立つ。
仕事の途中にだけ、お祭りが混ざる。
青木はお汁粉をすすりながら、相沢に小声で聞いた。
「これ、毎年やる感じ?」
「さあ……。でも、あれ、善意だからたち悪いんだよ」
相沢は笑わずに言った。
それからだった。
“ふるまい”が増えはじめたのは。
味噌汁の日。
クッキーの日。
そして、ある日を境にパンの日が生まれた。
昼過ぎ、社内チャットが鳴る。
白い皿。焼きたてのハムロール。
ときどきウィンナーパン。
そして必ず付いてくる一文。
「今日も焼けました。感想をお願いします」
ここで、『試食会クラブ』が静かに発足した。
会員は毎回ランダムのようで、実はそうでもない。
一度でも“感想が上手かった人”は、だいたい残る。
脇沖さんが、その一人になった。
営業部のエース。
予定はぎっしりなのに、パンに向き合う時間が増えていく。
昼すぎ、またチャットが鳴いた。
ハムロールの写真と、求められる感想。
先輩の長文が、まず並ぶ。
「断面が薔薇のようで……」
「外はさっくり、中はふんわりで……」
語彙が、すでに戦場だった。
脇沖さんは入力欄の前で固まっている。
締切の進捗バーは赤いまま。
それでも、感想の順番は待ってくれない。
昨日はウィンナーパン。
今日はハムロール。
その前は、またハムロール。
味も、言葉も、似てくる。
小さな声で、脇沖さんが言った。
「もう、言い尽くされてるんだよな……」
結局、こう書いた。
「バランスが絶妙で、とてもおいしかったです」
無難。
だが、正しい。
社長から即座にハートが付いた。
青木は、そのやり取りを横目で見ていた。
最初のころ、ほんの少しうらやましかった。
“選ばれた人だけ”が試食できる。
社長の手作り。
名前を呼ばれるたび、画面を見てしまう自分がいた。
公平じゃない、と胸の奥で思った。
だが、今は違う。
食べているのはパンだけじゃない。
社長が喜ぶ言葉も一緒に噛みしめている。
しかも、毎回できたてだ。
その日の業務が終わり、青木はパソコンを閉じた。
帰り道、駅ビルの地下へ降りる。
お気に入りのパン屋、ロワゾ・ブルー。
ショーケースのクロワッサンは、こちらから何も求めなければ、何も求めてこない。
感想も、長文も、スタンプもいらない。
ただ、サクサクしていればいい。
紙袋を提げながら、青木は思った。
——試食会クラブは、きっと名誉だ。
でも、自分は会員じゃなくていい。
パンは、自分で買った方が、たぶんずっとおいしい。
ポケットの中で社内チャットが震い、「今日も焼けました」が遠くで揺れた気がした。
見なかった。
夕方の風が、バターの匂いを運んできた。




