第7話 君の名前は
長谷川部品株式会社には、名前が言えない人がいる。
正確に言うと、本人が自分の名前を言い切れない。
営業一課のオハラさん。
五十代前半。アメリカ帰り。
帰り、というか、「向こうに長くいた」という話を、本人がよくする。
英語は確かに流暢だ。
電話口でも、海外の取引先相手だと、急に声が低くなり、発音が変わる。
問題は、日本語に戻ったときだ。
「お電話代わりました。オ……」
ここで、必ず詰まる。
「オゥ……ハ……」
ハ行が、どうしても引っかかる。
息が一度、喉の奥で止まる。
「……オハラ、です」
たいてい、その前に相手が言う。
『あ、オハラさん?』
その瞬間、会話は成立する。
本人が名乗りきる前に、世界が察してくれる。
私は何度もその場面を見てきた。
最初は、ちょっとだけ気になった。
二回目で、癖だと理解した。
三回目以降は、もう待つ体勢に入る。
――来るぞ。
――ここで詰まる。
――はい、今。
案の定、今日もそうだった。
「お電話代わりました。オ……」
間。
「……ハ……」
そのとき、電話の向こうから聞こえる。
『オハラさん?』
「Yes」
なぜ、そこで英語。
電話を切ったあと、オハラさんは満足そうだった。
“通じた”という顔。
私は聞いたことがない。
誰かが、この件を指摘したところを。
笑うほどではない。
困るほどでもない。
でも毎回、少しだけ時間が止まる。
昼休み、会議室で相沢に言ってみた。
「ねえ、オハラさんって、自分の名前言うの苦手じゃない?」
相沢は一瞬考えて、うなずいた。
「あー……わかる。ハのとこで、こう……」
喉を押さえる仕草をする。
「そう。そこ」
「でもさ、もう周りが先に言っちゃうから、成立してるよね」
「うん。誰も困ってない」
私たちは黙ってお弁当を食べた。
考えてみれば、この会社には、そういう人が多い。
言い切れない人。
やめきれない人。
家に帰らない人。
午後三時に耳かきをする人。
みんな、少しずつ詰まりながら、それでも今日も仕事は回っている。
午後、オハラさんは廊下ですれ違いざまに言った。
「Good afternoon」
日本語でいいのに、と思ったけど、言わなかった。
——ここには会獣たちがいる。
でもこの人は、たぶん、自分の名前のところで立ち止まってしまっただけだ。
私は席に戻り、また次の電話を取った。
今日も、私の猿化は順調に進行中。




